アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

謎の沐浴-1

2008-04-30 06:10:41 | 道教
◎慧命経

慧命経の道胎図第四に、「一年後には沐浴は暖かくなる」とあり、1年とは、10カ月の臨月の後であるから、修行が満了すれば、沐浴は暖かくなるという意味だろう。

法輪を転ずるとは、先天の気と後天の気を回すこと

呼吸を使わないで、神気がまとまり相守り、安定してくるその時が法輪を転ずる時期である。その法輪を転ずる時に、微妙な沐浴が必要となる。

法輪を転ずる時に、呼吸の気を回転させるが、この回転の時に沐浴を行なう。呼吸が鎮静化したら沐浴を行い、また呼吸が旺盛となった時も沐浴をする。

この変化の分かれ目に沐浴の機会があり、かつて故人が漏らさなかった機微であるとのこと。

更に、昔世尊は、明星を見た後に、東西にある二つの池に沐浴し、薫蒸して楽しいとされた。

沐浴とは単に気が丹田に満ちて来て、血行が良くなって、身体が暖かくなることは指さないようだ。そのことは、「春」と呼び別のことと見ている。

(参考:慧命経/柳華陽真人/たにぐち書店)

これだけでは、沐浴とは、何のことやら見当もつかない。


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智恵の言葉-サキャ・レクシェー

2008-04-29 07:13:44 | クンダリーニ・ヨーガ
◎大悪人にもなれる

『すぐれた因果の集積がなければ
無我を悟ろうとも成仏できず
最高の修行でも無駄になって
真理を見ても阿羅漢になれぬ』
(智恵の言葉-サキャ・レクシェーの教え/ツルティム・ケサン、正木晃/角川書店殻引用)

著者のサキャ・パンディタは、12世紀の生れで、チベット密教サキャ派の総帥。

まず無我と成仏が別物であると説明している。自分のない状態は、バーナデット・ロバーツに典型を見ることができるが、自分がないというだけで、とても快適・痛快または何も問題がないという生きざまになることはない。

ここでいう成仏とは、メンタル体により体外離脱して、中心太陽に突入することを言うのだろうと思うが、その準備ができるようになるには、それまでの過去の行動や思考が充分に成熟する必要があることを因果の集積と表現しているように思う。

サキャ・パンディタは、禅に批判的だったので、無我を悟るとは禅者をイメージしているかもしれないが、ここは無我というものも振り捨てて「なにもかもなし」という境地に届かない場合を指しているだろう。

阿羅漢とは、真理の一瞥つまり禅の見性をしたような人を言うと思っていたが、ここは、
真理を見ても阿羅漢になれないとしているので、将来仏になっていく予備軍としての阿羅漢にもなれないという意味だろうと思う。

真理の一瞥をしても仏を志向せず、大悪人になる道が有ることは、至道無難禅師も指摘しているところである。

サキャ・パンディタはこの機微も知っていたということだろう。



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道教の二つのタイプ

2008-04-28 06:04:22 | 道教
◎技法と境地はボーダーレス

道教にも、只管打坐タイプとクンダリーニ・ヨーガタイプの2つがある。

只管打坐タイプとは、老子のことである。老子は、段階を踏まないで、いきなりタオ(道)に入り、タオからあらゆるものが展開することを論じている。

一方クンダリーニ・ヨーガタイプとは、呂洞賓や柳華陽などの大周天を用いて出定(メンタル体による体外離脱)して、最後は、おそらく中心太陽に突入することが特色であるタイプである。

そのため、華陽の慧命経には、無為という言葉はでてきても、老子の言葉からの引用はほとんど登場しない。

むしろ仏教の華厳経やら、首楞厳経からの引用が多く、更に六祖慧能などを禅者ではなく、クンダリーニ・ヨーガの成道者とみて、様々な技法や境地の説明を行なっているほどである。

この首楞厳経は、中国で盛んに読まれ注釈も多かったが、最近の研究ではメイドインチャイナの偽経とされる。この偽経は、正式には、大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経であり、インド渡来の本物の首楞厳三昧経とは別のものだそうだ。

偽経とは、うそという意味ではなく、中国で選述された経典くらいの意味だが、それなりの境地の人間が著述したものとして、首楞厳経を柳華陽はきちんと評価していたわけである。


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幻身の正体

2008-04-27 06:31:38 | クンダリーニ・ヨーガ
◎メンタル体の特徴

チベット密教でいう幻身とは、コーザル体か、メンタル体かという疑問が有る。

シリーズ密教2の『チベット密教(春秋社)第4章幻身(平岡宏一)』によれば、幻身には12のたとえがあるという(「」内のキーワードがたとえにあたる)。智金剛集タントラに曰く、

1.微細な風(ルン)と心(意識のことだろう)だけでできた智慧の身体なので「幻」のようだ。
2.「水月」のように、どこで助けを求めてもすぐに現れる。
3.火や武器で焼いたり壊したりできないから「影」のようだ。

4.瞬時に揺れるので「陽炎」のようだ。
5.「夢の身体」(アストラル体か)のように体外離脱する。
6.幻身は肉体とは別で、「こだま」のようだ。

7.幻身が成就すると「乾闥婆(妖精)の城」が瞬時にできあがるように、マンダラが瞬時にできあがる。
8.幻身を成就すると一度に32尊を成就し、また32尊は一瞬にして1尊となることができるので「魔術」のようだ。
9.幻身は5色であり、「虹」のようだ。

10.幻身は、肉体内で成就するのと体外離脱するのが同時である様子は、「稲妻」が雲の中でできるのと同時に外に発光する様と似る。
11.水中から「水泡」が現れるように、空なる本性から幻身は忽然と現れる。
12.「鏡の鏡像」のように身体を映すと一瞬にして全体が映るように、一瞬にして幻身全体が成就する。

これらの比喩をみると、コーザル体では、うつろいゆく現象世界の空間をあちこち活動して回るとも思えないので、窮極の7つの属性を備えながら、娑婆世界に出現するものとしては、メンタル体と見るのが適当であるように思う。
                                        
ところで大日経の十縁生句段には、これとよく似た十縁生句というのがあって(12でなくて10)、幻、陽炎、夢、影、乾闥婆城(蜃気楼)、響、水月、浮泡、虚空華、旋火輪の十を言い、一般的には、実態のない仮のものを現すたとえとして用いられている(旋火輪は闇の中で火をぐるぐる回すと残像で円に見えることを謂うそうだ)そうなので、由来はともかく、とりあえず別の意味で用いられているのだろう。


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臨死での冥想

2008-04-26 07:04:37 | 道教
◎チベット密教などとの共通性

柳華陽は、慧命経で、華厳経の『安住寂静の諸禅定による智は不死道に至る』を引いて、この安住寂静とは、鼻から気の出入りがなくなり、両手の六脈にも脈動がなくなることであるとして、呼吸停止、脈拍停止の状態であるとしている。

更に華厳経には、『三禅により、脈が止まれば諸根は止まる』とあるそうなので、仏教の冥想レベルの一つである三禅は、脈拍停止の状態でないと起こらないことが知られていた。この時、不死道に至る智が発現するとする。

一般には、有餘涅槃とは、肉体を残しているがマーヤ(無明)を断ち切って輪廻転生しない状態とされ、無餘涅槃とは、肉体とのつながりがなくなった状態とされる。

慧命経では、まず有餘涅槃の呼吸がある状態があり、その後、無餘涅槃となり、無餘涅槃の無餘とは出入りの息がないことであると断定している。

このように臨死での冥想は、チベット密教の専売特許ではなく、道教・煉丹でも同じであったことに、双方とも同じクンダリーニ・ヨーガとして同根であることを感じさせられる。

このように死そのものを扱う超マジな技術であるからこそ、以下のような修行者は相手にしてはいけないと柳華陽は戒める。

1.金やもうけのことばかり気にして、真の生き方にあまり関心のない人
2.修行を初めてもすぐ飽きてしまう人
3.心にもないうまい言葉を並べる人
4.過度に慇懃な態度で言葉な丁寧で巧みな人(心に誠がない)
5.先祖に徳がない者(子孫が修行しても成就しがたい)

(参考:慧命経/柳華陽真人/たにぐち書店)



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空へのこだわり

2008-04-25 07:24:32 | 道教
◎柳華陽の体外離脱

チベット密教のゲルク派では、メンタル体と思われる幻身が頭頂から出るにあたり、空の観を成すことを条件の一つと見ている。ところが、中国煉丹道では、空にこだわってはいけないと説く。

『初め、道胎を形成するにあたり、(先天・後天の)呼吸の火によって薫煉し、5~6か月に及べば二炁(気)は次第に微細になり、8~9月に至って二炁(気)は完全に定まってくる。ただ神あるを知って炁(気)あるを知らずとなるのである。

この境地において、空の観を成す時、この空にこだわってよいものか?空は断見におちいるものである。そこで空にして不空のごとくとある。

これがまさに<寂>ということであり、<常照>ということである。

一方不空の観をなす時、智恵のみを拠りどころとしてよいか?不空とは長見に陥るものである。そこで不空にして空のごとくとある。これがまさに<照>ということであり、<常寂>である。

こうした大定[深い瞑想]に入り、渾然合一した時、出定すべき情景が眼前に現れてくる。』(慧命経/柳華陽真人/たにぐち書店から引用)

※道胎:体外離脱するボディ。メンタル体か。
※二炁(気):先天の気(浩然の気)と、後天の炁(気)(呼吸)。
※出定:体外離脱
※5、6か月とかは、人は10カ月で出産に至ることから、10カ月を100%とした場合の見当にすぎない。暦日の5、6カ月ではない。

なお柳華陽も出定(体外離脱)には、呼吸停止、脈拍停止が前提であることを認めているので、この前提は、チベット密教と同じ。


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観想法とそうでないもの

2008-04-24 06:05:08 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
◎秘密集会タントラ

『[妃の供養]
みめ美しい16歳になる、女を得て、
加持の3句をもって、秘密裡に供養を始めるべし。
如来の大いなる妃である、ローチャナー等として観想すべし。

二根交会によって、仏[となる]悉地を得ることになろう。
フーン字とオーン字と、パット字を観想すれば、
五光に充ちた金剛杵と蓮花が観じられるであろう。
月光のような光焔ある、快いものを観想すべし。』
(秘密集会タントラ和訳/松長有慶/法蔵館から引用)
※フーン字とオーン字と、パット字は梵字。

文字通り読めば、かわいらしい16歳の娘をそばに置いて、それをローチャナー妃であると観想法を行いながら、彼女とセックスすれば、釈迦牟尼と同じ境地に至ることができるという、我が国の法律に触れかねないことを書いている。

もちろんここを、性愛冥想と見れば、男性側の冥想法であること、射精しないこと。冥想の深まりがあることなどの原則が前提にあることが想像される。

また、基本線は観想法なので、観想によって登場してくる五光に充ちた金剛杵と蓮は、自らの内から出てくるビジョンではなくて、向こう側から来る本物のビジョンであることが絶対条件になるわけで、このようにさらりと書かれたほど簡単に仏[となる]悉地が得られるとは思わない。

チベット密教は観想を中心メソッドとしているので、ここはあくまで観想法のバリエーションの一つとして読むべきだろう。

またこの秘密集会タントラは、世尊が金剛妃の女陰に住するところからスタートしており、12世紀ドイツのヒルデガルト・フォン・ビンゲンの幻視した女陰を思わせるビジョンからスタートしているのも特徴的である。


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日本人の宗教マインド

2008-04-23 06:00:04 | 時代のおわり
◎宝くじに当たるような確率

昨今の日本の生活の中では、盆暮れと葬式の時以外は、宗教のしの字もないような生活が一般的である。宗教活動といえば神社やお寺などを観光がてら参拝したついでに御神籤をひいたり、家内安全、交通安全、学業成就などのお守りや御札を購入するのがせいぜいではないだろうか。

お守りや御札の目的は、大方は世俗の生活レベルの向上や維持を目的としたものだから、その宗教本来の「現世を超越して生きる」みたいなダイナミックな狙いとは一線を画すものである。

だからといって、禅の悟りやクンダリーニ・ヨーガの解脱のような、日常生活からは想像もできないような生の有り様が、社会一般の常識として日本人の頭の中にあるわけではない。

この意味では日本人の宗教意識は、ある意味で希薄であると見られても仕方のないところがある。

かといってやクンダリーニ・ヨーガに打ち込む専門的な修行者・チャレンジャーにとっても、身心脱落や中心太陽への突入が、時間をかけて努力さえすれば取れる運転免許試験程度の困難レベルでは全くない。

身心脱落することや、クンダリーニ・ヨーガで中心太陽から帰還すること、神と合一することは、宝くじに当たるようなものすごい確率なのである。

確率でいけばほとんどダメなものに、それでもトライして行こうとするのは、実のところ自分は救いようもなく、無力なものであり、またこの世というのものが、思いのままにならないどうしようもないところがあることに内心気がついている人がいるからである。


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死を修行する

2008-04-22 06:17:39 | クンダリーニ・ヨーガ
◎この世への愛着を捨てられるか

斎藤保高氏の理論によれば、

1.冥想の力で風を胸部に集めれば、「八つの溶け込む次第」(死のプロセス)と同じ状態を実現できるはずである。これにより、死の光明(原初の光)を実現する

2.この状態で空を悟ることで幻身が立ち上がる。

3こうなれば、仏陀の境地もあと一息

と説明しています。(参考:チベット密教修行の設計図/春秋社/斎藤保高)

残念ながら、この先の肝心の仏陀の境地がどのようなものなのかあまり説明がない。自分が仏陀になるのか、仏陀が自分になるのか。セントラル・サン(中心太陽)に突入するのかしないのか。その後には自分という個性は残るのかなくなるのか。など基本的な疑問がいくつか出てくるのだが・・・・。

また「八つの溶け込む次第」(死のプロセス)を実現するとは、肉体の死を冥想により実現することであるから、失敗すれば死んでしまう危険な行法である。

空の哲理の理解もある程度は必要だろうし、神秘生理学による修行法の組み立てについての知識もある程度は必要だろうと思うが、修行に失敗して死んでしまったら、財産、家族、社会的地位(大学の先生とか)、恋人なども同時に失われることになる。

つまり、そうした世俗的な、この世的なあらゆるものへの愛着がいつでも捨てられる状態にまで魂、精神の熟成が進んだ人間でないと、こうした死の修行はできるものではないと思う。

このようにチベット密教の究竟次第には、現代社会とは完全に一線を画した部分があるからには、単なる冥想技術論としてうまく組上がっただけでは、チベット密教への一般の理解が広がるとはとても思えない。


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究竟次第

2008-04-21 05:19:33 | 密教
◎死の光明と幻身

斎藤保高氏は、ダライラマと同じゲルク派の方。ゲルク派といえばツォンカパの理論の影響が大きい。同氏の究竟次第の見方はこんな感じ(参考:チベット密教修行の設計図/春秋社/斎藤保高)。斎藤保高氏自身は、死の光明(原初の光)も幻身も未体験のようだ。

死の直後の死の光明は、完全に澄み渡った心の状態。(全く新たな認識環境に放り込まれたことによる、フレッシュな白紙の感性という側面があるように思う。)

冥想により死の光明と同じ状態を事前に実現し、日々の哲学思弁の訓練で、空を理解することができれば、究竟次第の後半で、空を直観的に悟ることができる(倶生の大楽)。

そして死の光明の状態で空を直観すれば、我執と煩悩が滅尽してしまう。

この時幻身が死の光明から立ち上がる。

幻身は肉体とは別であるが、微細な風(ルン)がわずかに震動することが原因となって幻身が成立する。幻身はどこへでも瞬時に移動できる。

というわけで、幻身ってメンタル体のことでは?

また冥想により死の光明や幻身を実現することは極めて稀なことだそうな。

慧命経の出神とチベット密教の幻身が同じメンタル体かどうか証明するためには、それぞれの修行法でそこまでやってみなければ証明にはならないし、たとえ実体験できたとしても、その証明を他の人が確認する手段は、やはり実体験しかないだろうから、凡そ現代科学にはなじまない種類のイベントなのである。


写真集 秘境ラサの生活


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背中の気血上行

2008-04-20 06:48:05 | 道教
◎肉体の健康と煉丹修行

慧命経に、かつて打七一門という新興宗教があり、小食とするために閉息し、49昼夜不眠であることを信徒に勧めた結果、心身疲弊して病気になって死に至る者が続出したことが述べてある。

『更に背中をたたくことは背中の経絡を痛め、その結果内臓を損ねてしまう。背を打つ刑罰は、唐時代の帝が廃止して、今に至るまで行なわれていない。

唐時代の帝は背を打つ刑罰を受けた罪人の内、十人中9人が死亡したのを知った。そこで諸々の医書を読むと、内臓の経絡は背中の総経絡につながっており、そこを気血が運行することで健康が維持されているとしている。

もし背中を打てば、気血の流れが逆となり、上行するようになり、そうなるといかに盧医<扁鵲>といえども治癒することはできなくなる。それで帝は、背を打つ刑罰はやめて、臀部を杖で打つことに改めたのであった。』
(慧命経/柳華陽真人/たにぐち書店から引用)

ここは、誤った修行法を、さも権威や実績があるように世人に伝えることは、世人を惑わし、結果修行も成就しないことが主旨である部分である。

けれども、このように背中を気血が上行すると健康に害があることを述べているが、クンダリーニ上昇とは、クンダリーニが背中を上行するプロセスなのだから、クンダリーニ上昇とは、肉体の健康という観点からは問題があることを逆説的に述べているのだと感じる。


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慧命経の一つの見方

2008-04-19 07:22:07 | 道教
◎クンダリーニ上昇

慧命経の挿絵を見て、大周天という独特な手法による冥想であるという先入観があったが、最後は同じクンダリーニ・ヨーガとして、中心太陽に突入していく様を描いているのではないかと思いついた。

肉体を出るのには3種あるわけだから、出神とは、漠然とアストラルトリップだろうと思い込んでいたが、サハスラーラ・チャクラから肉体を出ているのだから、メンタル体で肉体を脱出。

メンタル体で肉体を出るからには、最後には中心太陽へと、無上の垂直道ならぬ『妙道』をたどって真源(中心太陽)に突入し、粉砕されるのが自然だろうと考えた。

挿絵にはクンダリーニのエネルギー・コードもついているし。


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民衆の自我の発達とタオ

2008-04-18 06:11:05 | 老子
◎老子第49章 聖人無常心

『本当の聖王と言われるものには、一定不変の方針というものはない。ただ民の心をもって心とするのである。

則ち民が善とすることのうちで、自分にも善と思われることを善とするのは勿論、不善と思われることも、民が善とするなら、これを善とする。

あらわれたものは、すべてそうあるべくしてあらわれたのである故善なのである。また民が信とするもののうちで、自分にも信と思われるものを信とするのは勿論、信と思われないものも亦これを信とする。あらわれたものは、すべてそうあるべくしてあらわれたのである故信なのである。

本当に聖王と言われるものの政治の仕方は、一生懸命に天下のために自分の心を是非善悪にかたよらせないように、混沌にする。そして天下の民衆が自分の意志に注目しようとしても見当がつかず、その結果これを赤ん坊のように自然にならせてしまう。』

百姓の心をもって自分の心とするとは、比喩ではなく、すべての皆の心(百姓の心)が自分の心であると観じられる境涯があると見る。その境涯において、百姓心が善であり、信であるのは当然である。

その聖王に、もとより、私心などあろうはずもない

この段は、聖王一人の指導を脱却した自我の発達した百姓(民衆)が最後は、自らタオを生きるように、聖王が民衆を誘導していくことを言う。


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聖アントニウスの誘惑

2008-04-17 06:10:47 | キリスト者の秘蹟
◎無意識の悪魔、意識の聖者

泰西の絵画展に行くと、聖アントニウスの誘惑という絵画を見ることが多い。

聖アントニウスは、西暦251年中部エジプトに生れたキリスト者である。厳格な苦行者であり、砂漠に住んで105歳で亡くなるまで、苦行を繰り返したという。

なぜこのように毎度このテーマが採り上げられてきたかと考えると、まず西洋人の心性の中には、悪魔に魂を売り渡したファウストと、悪魔の度重なる誘惑にもめげずに苦行を続けていった聖アントニウスが、いわば正反対のタイプのプロトタイプとして意識的にも無意識的にも存在していたようである。

堅気の真面目なキリスト教信者にとっては、聖アントニウスのように世俗の生活で様々な誘惑があったり罪を犯したりすることが多いけれども、苦行、告解などを通じて都度罪の許しを請いながら、まじめなキリスト者として人生を渡っていくというのが、代表的なこの千年くらいの信仰生活モデルだったのではないだろうか。

つまりその無意識では悪魔と友人であるファウスト博士を抱えながら、実生活の表層意識では、その誘惑を退け聖アントニウスたらんとして生きる。

日本人ならあまり問題にしない、悪魔ないし、悪魔の誘惑というものをこれほどに身近な大きなテーマとして捕らえたがる所こそ、日本人と西洋人の心性の決定的相違の一つと見ることができる。

最近は、身近に西洋人がいることが多くなり、西洋人の気質みたいなものを生で見聞きすることが増えて、それなりの西洋人観を持っている人も多くなった。曰く、日本人に比べると性欲が強い、こだわりが強いなどであるが、そうした気質、体質を前提として聖アントニウスの誘惑がメジャーな絵画テーマとなって扱われてきた訳である。


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出口王仁三郎のアセンション否定

2008-04-16 05:58:49 | 冥想アヴァンギャルド
◎救いの鉤

『救いの鉤

聖師様と石川県能登の浜中助太郎氏の一問一答

浜中氏 世界の終りには天から救いの鉤がおりて来て救うのですか。

聖師 そんな事はあらへん。
                       (昭和10年以前)』
(木庭次守編/新月の光/八幡書店から引用)
※聖師は、出口王仁三郎のこと。

アセンションといえば、アセンションを信じていれば、世界の終りの日に天からワイヤのついた巨大な鉤が降ってきて、なんだかわからないけれど、その人を助けてしまう・・・みたいなイメージを持っている人が、実は多いのではないだろうか。

さしあたり大勢の人がつながったそのワイアを牽引できるのは、巨大なプロペラの輸送機みたいなものしかないだろうから、そんなシーンはあまりロマン溢れるものとは言い難い。

だからといって、全面核戦争の日に政府要人がスペースシャトルに乗って、宇宙ステーョンに待避するというシナリオを大まじめに構えている人もいるようだから、アセンションについてのいろいろ思惑をみると、当初の聖なる願いとは裏腹に、自分だけは助かってしまおうという、世俗的な生存欲を出ていないイメージが多く、がっかりさせられる話が多い。

アセンションの原イメージは、天にかかった梯子を昇っていくイメージであり、その人間としての孤独と無力を背中に背負いながら、上昇していく姿こそ謙虚と勇気と神秘を感じるものだと思う。


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