アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

意識の連続考

2007-11-30 06:13:03 | 超能力・霊能力
◎日常生活と意識

起きている時の意識は、実は睡眠時も連続して自意識として活動しているという事実は、インド系の覚者によりしばしば指摘されている。けれどもだからといってわれらの生活は何も変わることがないのではないか。

中世ヨーロッパの魔女のようにあるいはルドルフ・シュタイナーの説明のように、眠るとエーテル体アストラル体の上半身がまずむっくりと肉体から離脱して、エーテル体なら近所まで、アストラル体なら遠くまで(時間軸の旅もある!)、ふらふらとあくがれ歩くということが自覚されたとしても、覚醒時の日常生活は何も変わることかないのではないか。

というのは、あなたと私は別々で多分理解しあえないし、気の合う人はほんのわずかだし・・・、という個的生活の基本は、そのことが意識化されたとしても、何も変わらないからである。何よりも無意識でそうした生活を送っているという事実もある。

ただ覚醒した自己が、肉体の限定を受けないとか、肉体から飛び出してしまうことができるという新鮮な驚きはあるだろう。

さて生者の意識は死んでも連続するという意識の連続の方はどうだろうか。これはチベット密教の最も得意とするところではある。

現代人のおそらく半数以上が、肉体が死んだら意識も連続しないと思い込んでいるから、死んでも連続することが確認できたらこれは大変なことだ。現代社会は、死んだら終りを大前提とする法律の下に組くみ上げられているから、遺産相続に死者の意向を反映しなければならないとなると、私有財産の処分など、もっともめるかも。

冗談はさておいて、あの世に財産は持っていけいないとなれば、持っていけいない財産や肉体は借り物という価値観が徹底してくるだろうから、「命の次に大事なのは金」という現代で最も有力な宗教は勢いを失うことになるだろう。

もうひとつ、死んだら個人は個人の意識として存続し得るのかという視点もある。個人はさる集合的意識(霊界のドーム?)に同化するという見方もあり、単純に死んでも個人は個人で何千年でも何万年でも同じ個人の意識として存在していないように思われるのである。

この点をきっちり説明してくれるのが、霊界通信やらチャネリングやら、霊好きの人たちの責務であるように思う。それが個人と社会の関係の一つの答えになっていくだろう。


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神智学とクリシュナムルティ

2007-11-29 06:09:00 | 超能力・霊能力
◎脱チャネリング

神智学はもともとロシアの19世紀最大の霊媒ブラバツキー夫人が始めたものである。1873年ベールを脱いだイシスという本を自動書記で記述し、この本が評判となり、知名度を上げ、設立したばかりの神智学教会を、彼女はボンベイに遷した。

1884年心霊研究教会が、彼女の家政婦の語るブラヴァツキー夫人の霊界通信はすべてイカサマだという話を信じ込み、彼女の霊界通信を弾劾した。

ブラヴァツキー夫人は、この弾劾による汚名を晴らせぬまま、1891年60歳で心臓病で逝去した。

1900年ルドルフ・シュタイナーが神智学協会に登場し、1910年頃には、シュタイナーは、ヨーロッパを代表する有名人となった。同時期にペザント夫人がクリシュナムルティを新たな救世主の乗り物として紹介したことがきっかけで、神智学教会は、ペザント夫人の一派と、シュタイナーの人智学協会に分裂した。

シュタイナーは、信奉者に祭り上げられて、アヴァターラ(神の化身)として新世界宗教を開こうかという勢いであったが、折しも勃発した第一次世界大戦によりそれも成らず、ドイツ敗戦の影響も消え去らぬ1925年に世を去った。

ブラヴァツキー夫人や、ペザント夫人の一連の動きは、結局アストラル体レベル止まりの霊界通信や霊言、チャネリングの研究を中心としたものである。いわゆる霊がかりなものである。

霊がかりは結局、人間の根本的救済とは何の関係のないものであるから、その真相を感じ得たクリシュナムルティは、只管打坐的な悟りにあって道を説くという手法を選ぶことになる。その証拠にクリシュナムルティの話にはほとんど霊言やチャネリングの話は出て来ない。意識的に忌避すべきものと認識していることがうかがえる。

霊的なことは、付随的なことであって、本質的なこととは関係ないのだ。


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ウィリアム・ジェイムズの降霊会

2007-11-28 05:59:03 | 超能力・霊能力
◎意識の連続性

宗教的経験の諸相の著者であるウィリアム・ジェイムズは、その才色兼備の妻であるアリスと共に、降霊をやるパイパー夫人のもとを訪れた。

そこで、夫妻は、降りてきたフランス人の霊フィニュイが、夫妻に昨年なくなった子供ハーマンがいることを当て、アリスの父親のギブソンという名も当ててみせた。

夫妻はオーラの泉のように、事前にかなりの個人周辺の情報が漏れていたのではないかという疑いをもちつつ、困惑して帰宅した。

この後ジェイムズは、パイパー夫人の所に何回か通い、その霊のもたらす情報が真実であることを確信するに至った。更に何人かの友人をパイパー夫人のところに送り込んだが、その都度パイパー夫人は彼らの死んだ親戚について正確な情報を伝えることができた。

そこでジェイムズは『カラスはすべて黒いという法則を覆したければ、黒いカラスがいないということを示す必要はない。ただ一羽のカラスが白いことを証明すればいいのだ』(コリン・ウィルソンの「来世体験」/三笠書房から引用)と語り、霊が正確な死者関連情報を有していることを認めた。

ジェイムズの宗教的経験の諸相は、宗教的な神秘体験を心理という切り口で様々に加工してみせた論理的な思索であり、ジェイムズは簡単に霊媒にだまされるような人ではない。

こうしたアストラル体やエーテル体レベルの情報の交換が科学に認められるためには、他人が霊媒するのを実験するよりは、自らそういう感受性を有することを確認することや、ルドルフ・シュタイナーの主張するように、我々が眠りに落ちる瞬間と、眠りから醒める瞬間に意識がどこへ行き、どこからくるのかの解明が必要だろう。

意識の連続性というのは、一人の人間において生者の意識から死者の意識が連続しているという視点も必要だが、それ以前に毎日繰り返される睡眠と覚醒の間の意識の連続性がどのように連続しているのかを解明するかに鍵があるということ。これはインドの伝統的な着眼点でもある。

また個から集合へ、また集合から個へという、意識の集合性は、霊界の特徴でもあり、秘密でもあるが、きちんと説明した人はいないので、生者に対しては、論理的にきちんと説明できない性質の事柄なのだろうと推測している。


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進化なきオオグソクムシ(大具足虫)

2007-11-27 08:28:51 | 時代のおわり
◎日なたと深海底

深さ1000メートルの海底にワラジムシを巨大化したようなオオグソクムシがいる。オオグソクムシは、体長50cmくらいで、伊勢海老のはさみを小さくして、巨大化したような甲殻類であって、虫ではなく、海老みたいなものである。

オオグソクムシは、1億6千年前から、世界的に分布し、ほとんど進化が見られない動物である。

眼の進化の研究によると、1000メートルの深さの深海底には青色の成分だけとはいえ光が届いており、その青だけを識別するためにオオグソクムシにも眼がついているのだという。

そして、この1億6千万年の間、オオグソクムシがほとんど進化してこなかったのは、光が強い場所に生息する地上動物などは進化や淘汰の速度がきわめて速いが、深海底のように光の少ない場所に生息する生物の進化スピードは遅いという法則があるためだそうだ。

物質レベルの光を強く浴びる肉体の進化淘汰は速いが、よりそうした粗雑レベルの光が届きにくいメンタル体レベル以下の深海底は、時間や場所の影響を受けにくいということと似ており、示唆的である。

誰もが、精神にこうした時間や物質に影響されることのない深海底の部分を持っているはずなのだが、日なたの光が強すぎて気づきにくいということか。深海底を感じる技術が冥想ということになる。


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オオグソクムシ


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正しいことをしても却って正から遠ざかる

2007-11-26 04:39:35 | 老子
◎老子第58章 其政悶悶

『その政があっても、ないようにぼんやりしていれば、其の人民は純朴である。

その政が立派に整備してはっきりしてくれば、その人民は、いらいらし、せこくなる。禍の中には必ず福が倚りそっているし、福の足元には、必ず禍が隠れている。これが禍の極み、これが福の極みと誰にも決められるものではない。

むしろこれを正そうとしない方がいいのだ。正しいもの正しいものと求めた結果が、却って変奇なものになってしまうことがあり、善だと思って求めてそれが妖(わざわ)いとなることもある。

人類がこのような問題で迷い出してから、既にその日は久しいものだ。これだから聖人は、方正を貴んでも人為によってこれをつくらない。

清廉を貴んでも、人為によってこれを為さしめない。直きを貴んでも、人為によって伸ばそうとしない。光を貴んでも、人為によって輝かそうとしない。』

こうした感覚からクリシュナムルティのように人為的な干渉をしないという態度が起きるように思う。

人為を否定するということは、無為というのは人為すなわち人間的な感覚体験の中にはないことを示している。

人間がまもなく滅びてしまう肉体を持っている事は、ニルヴァーナと肉体が直結している証拠である。

無為が人間的感覚にないことを老子はどこかで示唆しているのであろうか。

第四十八章に「道を為すは日に損す。之を損し、又損し以って無為に至る」とあるが、道を徹底的に日常生活において為し、人為というものをどんどん一つ一つの日常生活の行為の中から取り去っていく、これを繰り返し繰り返し行っていくことによりいつしか道に至るとしている。

この部分がそのことを直接説明している部分と見る。これは、その与えられた天命を生ききるカルマヨーガである。


また第七十七章に天の道と人の道が相違することを示し、天の道を求められるのは聖人のみであることを述べている。

無為たることを要請されているのは、王者とその補佐者のみであり、春秋戦国時代の民には決してこれを要請することなく、民は聖王の風に自ずと教化されることを予想している。

真の冥想というのは、おそらくはいつの時代にも、生活に不安すなわち食べることに不安があっては成りにくいのである。王者こそは生活に不安のない者であり、春秋戦国時代であっても冥想による無為の体験を求められるにふさわしいポジションである。

なお、無為の体験つまり十牛図で言えば円相第八のレベルに至った者は、王者以外の者は、すべて出家者であるだろう。

しかし現代では、すべての民が無為を求められる時代。

現代人の個々が無為の道を求められているとすれば、聖王の無為を真似をしようとしても、聖王がいないこの時代に、個々人が無為にいないことが地獄であることを知りながら、無為を知るということは、とても逆説的な困難な道程である。


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山の物狂い女

2007-11-25 05:48:18 | 時代のおわり
◎逃げ道のない社会

源氏物語を読むとその描写の三分の一程度は、草が露に濡れていて、衣が濡れただの、野分けの風が強くて恐ろしかっただのの、風景や気候、自然の描写である。全体として恋に燃える男女のストーリーはそうした自然描写を背景に展開される。

このことから平安時代の人の心象風景の三分の一くらいは、草木や気象などの自然で占められていたのがわかる。

男であれば、昔は、世に対する不平不満がやる方なく、山に入ることがあった。また世をはかなんで厭世のために山に入るということがあった。男は正気で、山に入って遁世するのが普通である。

これに対して女が山に入る理由は、物狂い(発狂)によるものが大半ではないかと柳田国男(山の人生)は見ている。

古来、山奥で若い女が狂って走るのを見れば、これを山姥と見るのは、よくあること。

山奥で狂女を見かけて、偶然その身の上話を聞いたり、里の噂話を集めてみたりすると、実は先年発狂して婚家を出奔して行方がわからなくなっている某家の嫁であったという事件が時々あったようだ。

山に入った若い女の発狂のきっかけが、実は出産である場合が多い。ホルモンバランスが崩れると精神の安定が崩れやすいことは知られるようになったが、産後もそうであるということは、案外に知られていない。

更年期も精神のバランスを崩しやすい時期だが、出産前後というのは、人生のイベントの中で、最も精神のバランスを崩しやすい時期として、昔の人は経験的に知っていたに違いない。

今は山奥のない時代。田沢湖から八幡平の方へ抜ける道を行くと、後生掛温泉があり、その先には、それこそ数百メートルに一つ温泉が次々と並ぶエリアがあるが、三、四十年前は、冬は人が住めなくなるような地域で、これぞ山奥という場所であった。

今はこうした温泉場がテレビのバラエティ番組で時々紹介されるのを見るので、地球温暖化で冬期の積雪がさほどでもなくなったこともあるのだろうが、そんなことからも日本には山奥というものがなくなったことを実感させられる。

社会というものから逃げ道がなくなった、きわめて尖鋭で危険な社会に我々は生きているのだ。これをアポロン型文明と呼ぶ。


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ラマナ・マハルシの臨死体験

2007-11-24 07:22:44 | 現代冥想の到達点
◎肉体に止まって見る

ラマナ・マハルシの伝記を手に入れました。

まず彼の臨死体験。それは住処である洞窟への帰り道で起こった。

まず視覚が失われ、白く輝くカーテンで覆い隠されたようになった。ここでラマナ・マハルシは立ち止まった。この状態が消え去ると、また歩きだした。

このような暗闇と失神状態が三度目に襲ってきた時、岩の近くに坐った。その時、視覚は失われ、頭は朦朧とし、血液循環と呼吸は停止した。皮膚は死んだように青ざめた。

同行したヴァスデーヴァ・シャーストリは、手足の先がが冷たくなっているのを確認している。この切羽詰まった状態の中でラマナ・マハルシは恐れることはなかったし、その肉体の状態を悲しいとも思わなかった。。

この状態が10分か15分くらい続いた後、ショックが身体を突き抜け、血流と呼吸が回復した。

この時は、肉体からの離脱はなく、ラマナ・マハルシは、肉体意識に止まったまま、その様子を見つめていたと思われる。

後に肉体を上方に飛び出して、我が肉体を上から見る話が出てくるので、この時は結局、単に恐れることなくその状態を肉体から見ていただけだったので、この臨死体験は、彼にとってはごく初歩的な体験としての位置付けということになると思う。


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クリシュナムルティが苦行者に出会う

2007-11-23 08:23:32 | 只管打坐
◎力の意識

クリシュナムルティが苦行者に出会った。

苦行者は、30年の長きにわたり、五感とそれから起こる欲望を厳格な規律に服させ、それによって霊魂を解放させようとした。情欲にも打ち勝った。

苦行者は、肉体が楽をしないように、あらゆる場所で寝て、肉以外のあらゆる食物を食べ、数日間の断食もやった。

また集中的努力による長時間瞑想もやった。

しかしこうした苦闘や苦痛とそれに伴う力の意識と内面的喜びにもかかわらず、欲求不満だけが残ってしまった。

苦行者は、苦行や戒律のコントロールを達成することは、どんな節制や苦行を達成した場合でも力の意識をもたらすことに気がついたのだ。他人を征服することには、気分が高揚しエキサイティングなものだが、節制や苦行などで自分自身を支配することには、その浮き立つような感じは更に強い興奮が与えられる。

こうしてこの苦行者は、節制や苦行によっては、結果的に力の意識が強まるだけで、欲望の満足に到ることはなかったことを発見した。

この力の意識に気がついたところで、釈迦ゾイゼも苦行を捨てたのではないか。


クリシュナムルティは、彼に対して、全体の感じを体験することをアドバイスした。それは、断片化していない感じであり、その中に何の緊張も、諸々の矛盾を伴う願望のいかなる引力もない熱烈さであり、深い即妙の衝動がその壁を取り払うとクリシュナムルティは見た。

クリシュナムルティはそうするには、如何なる方法もないと主張するが、その方法とは言えない方法は只管打坐だろう。
(参考:生と覚醒のコメンタリー4/クリシュナムルティ/メルクマール社)


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至高の体験に再チャレンジ

2007-11-22 05:20:01 | 只管打坐
◎それへの執着を捨てる

若い実業家で家族がいる男が、クリシュナムルティのところにやってきて、一度体験した至高の体験を、もう一度味わってみたいと訴えた。

その男が、ある朝の公園でベンチに坐ると、涙が頬をつたい、耐えがたい沈黙があった。その沈黙はあらゆるものの苦痛と悲しみを洗い清めていた。

そして周囲に人家がないにもかかわらず、空中に音楽が流れていたが、その音楽は全部のものの一部だった。その公園の中には、あらゆるものが生き、そしてその存在を持っているところの「ビーイング(存在者)」があった。

『そして私は再び坐ることを余儀なくされました。背中を一本の木の方に向けて。幹は私と同じように生きた物でした。そして私はその木の一部でした。その「存在者」の一部、世界の一部でした。

私は気絶したに違いありません。それはすべて、私にはあんまりでした。鮮明な生き生きとした色彩、葉、岩、花、あらゆるものの信じがたい美、そして一切の上に、・・・・の祝福があったのです。』
(生と覚醒のコメンタリー2/クリシュナムルティ/メルクマール社から引用)

この体験はその後2日間続いた。

その男は、クリシュナムルティのところにやってきて、その体験ができるなら、命でもすべての財産でも差し出すと言っているが、クリシュナムルティは、その願望そのものが再体験を妨害しているので、まずあらゆる自分勝手な願望を捨てることを勧める。

クリシュナムルティは、それはその欲する時にやって来るので、それを追求してはならないと、その男にアドバイスする。

理屈はそうなんだと思うが、その男は、何も手がかりなく放り出された気分になるだけだろう。いつかその男がそれに対する道筋の見当がつく頃に、クリシュナムルティの言葉の真の意味を悟る時節があるだろう。

それにしてもクリシュナムルティは、冥想を勧めるくらいしてもよさそうなものだ。


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マホメットの言行録研究

2007-11-21 06:06:46 | 究極というものの可能性
◎言葉はその場限り

8世紀、マイトレーヤ信仰のマニ教は、イスラムのアッバス朝に追われて、中国に入ったが、そのアッバス朝では巨大な版図のもとに金、資材と人材が集まる、平和な時代が続いた。

今イラクのバクダッドは、自爆テロが横行し、どうしようもない街になっているが、当時のバクダッドは世界の華の都だった。

こうした恵まれた背景のもとに、バスラ、クーファ、バクダッドには、神学の学問所が設けられ、イスラム神学者たちは、マホメットの言行録であるハディースの個々の啓示が本当にマホメットのものであるか証明しようとした。

この証明のために単語の語源や文の構造を調べ、特定のセンテンスがマホメットのパターンと一致するかどうかが調べられた。挙げ句は、個々の文字の出現頻度まで統計した。このことが後の暗号解読学の発展に大きく寄与したのは歴史の皮肉というべきものである。

聖者の言行というのは、それが誰に向かって語られたかが最も重要なことである。その言葉は聖者と与えられた者の間で、初めて真実の鍵となる。

釈迦でも、イエスでも類似の事柄に対して、全く逆のアドバイスを行なうことはままあるものだ。言葉の上面だけ捉えれば、そのことについて何が正しい判断か判定できないと学者は言うかもしれないし、また聖者の言葉は時間を超えているとは言っても、相手と時と所、シチュエーションを無視はできない。

だから、こうしたイスラム神学者たちのハディースの本物の証明が、手法の評価は別にして、当初期待していた成果が現れたかどうかは保証の限りではないように思う。


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リグベーダのマイトレーヤ

2007-11-20 06:00:05 | 時代のおわり
◎その出現の意義

古代インドのリグベーダでは、マイトレーヤは、ミトラとして現れる。

ミトラは、主要な神の一つである、宇宙の秩序・理法の厳格な守護者ヴァルナの伴侶である。

ベーダの祈祷文からみると、ヴァルナとは、人間が罪を犯した場合に、そのアスラの武器でもって人を殺すので、生殺与奪の神である。また風の神であり、水の神であり、万物、
万有の王者である。

ヴャルナとミトラ両神そろって、天の規則に従って、雨を降らせ、植物を成長させ、万物を支配する。

ヴァルナのパートナーのミトラは、契約の神。人と人とを合意させて、契約を結ばせる神であり、人を瞬きすることなく見守る神である。

このことからすると、ミトラとは人の個別性と社会性の守り手であることがわかる。

今の時代のテーマは、人の社会性を超越しようとするマニピュラ・チャクラからアナハタ・チャクラへ移行しようとすることなので、ミトラ=マイトレーヤ出現の意義とは、この社会性の超越を無事にクリアできるかどうかを、その仁慈によりサポートしてくれていると見ることができると思う。


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マイトレーヤ小史

2007-11-19 04:35:05 | 究極というものの可能性
◎古代インドとイラン

古代インドのベーダなどでは、インドの神々とイランの神々は混在しているので、イラン原産のゾロアスター教のものであるマイトレーヤが、もともと仏教の弥勒であるとする説がある。

その後弥勒は、仏教のものとして、中国に入り、一方マイトレーヤは、マニ教にあって、イランから、8世紀頃アッバス朝の圧迫により、シルクロードを東進。則天武后の時代の中国に進出した。中国へのマイトレーヤ輸入はこの時期であって、それ以前ではないと思われる。

という理由は、もともと515年の北魏の大乗の乱は、弥勒下生の信仰を持つ宗教秘密結社の乱なので、中国には、弥勒信仰はもともと存在したからである。

そして、唐の武宗の宗教弾圧(845年会昌の法難)により、マイトレーヤのマニ教は地下に潜り、仏教の弥勒信仰と結びついて、弥勒教となった。ここで初めてマイトレーヤが中国で弥勒として習合したなどと説明する人もいるが、実はもともと古代インド・イランの昔から同じものであったように思う。

弥勒信仰は、北宋の方臘の乱や、元末の紅巾の乱や、清の義和団の乱の主体となったので、民衆叛乱の母胎となったといえることから、その後の中国の為政者から見ると厄介な信仰となった。

このようにマイトレーヤは、20世紀になって、異国趣味のイギリスの神智学グループがエキゾチズムを披瀝するために、わざわざインドの神々から引っ張りだして来たわけではなく、色々な国で、もともとわりと重要な高級神霊であると評価されてきたというのが実態ではないだろうか。

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クリシュナムルティのご神業

2007-11-18 06:11:14 | 冥想アヴァンギャルド
◎ご神業の評価

1910年1月クリシュナムルティは、肉体を離れ、おそらくアストラル体で、マイトレーヤの家に行った。

その家には、マイトレーヤを半円の中心に、モーリヤやクートフーミーなどのマスターが並んでいた。そこでクリシュナムルティは、このグレート・ブラザーフッドのメンバーになることを誓った。


彼は、グレート・ブラザーフッドの目的が、世界を助けることによってロゴス〔太陽系を支配する三位一体〕の仕事をすることであることを知っており、世界の善のためにいささかも自分自身を省みずにすべてをこの仕事に捧げることをも誓った。

これをマイトレーヤは、銀の星に報告した。

そして、彼は肉体から離れた状態のままで、マイトレーヤより上位である、銀の星として見えた少年の姿の「王」が、クリシュナムルティと会った。「王」は、愛そのものであり、銀の星は王の一部にすぎなかった。

この儀式は、イニシエーションであり、秘儀参入だが、日本的な言い方では、ご神業である。

出口王仁三郎や、諸々の神秘家がご神業を行なったという記録があるが、ご神業の中味は大体秘密となっている。その中味を知る手段は、時空を遡って、自分がそのご神業を追体験するか、傍観者として見に行くかしかないはずである。

釈迦の臨終に際して、最後はその冥想レベルは、四禅から入ったということが書かれているが、これなどは、本当は釈迦本人でないとわかるはずのないことである。このことは最初は伝聞であったにせよ、きっとそれを確認した人間がそのことを語ったに違いないのである。

だからご神業の評価というのは、実に微妙なものだと思う。


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ヒーロー達-浦和レッズアジアを制す

2007-11-17 07:06:02 | マントラ禅(冥想法7)
◎エネルギーを使い尽くす

浦和レッズがACLアジアチャンピオンズリーグ決勝第二戦で、イランのセパハンを下した試合が終り、浦和レッズの選手の表情を映し出す映像を何気なくみていた。

おやおや、誰も他のメンバーに駆け寄ったりしないのだ。地味な喜び方だ。勝利者である浦和レッズにはもはや走り出す余力がないのだ。駆け寄って喜んでいるのは、リザーブメンバーとスタッフだけ。

3日前の川崎フロンターレ戦でも連戦の疲労から後半にはほとんど攻撃参加できる余力はなかった。

その4日前のイラン高地イスパハンのACL決勝第一戦セパハン戦でも標高1500メートル湿度15%の乾燥して空気の薄い環境で、後半になるとからだが鉛のように重くなって(長谷部選手)動けなくなった。

その前の準決勝第2戦の韓国城南戦では、阿部勇気が全身つった状態で、PK戦の3人目を蹴って見事に決めた。阿部勇気は、この決勝第二戦を前に、腰痛がひどくなったが、腰痛で死ぬわけではないと、捨て身の姿勢で望む覚悟を表明して、この試合に臨んだ。

先制点を叩き込んだ永井の顔、鈴木啓太の顔、阿部勇気の顔、闘莉王の顔が、いやにすっきりしているのだ。サッカーに比べて体力を余り消耗しない野球(サッカーと違って腹が出た選手が珍しくないですから)の優勝シーンでは体力を充分残した選手たちがジャンプしまくっている姿を見慣れている眼には、違和感があるシーンだ。

鈴木啓太の表情は修行の成った苦行僧のようだ。永井の面貌は世俗を超越した王者のようだ。闘莉王からは、満身の殺気が消えている。

冥想には、マントラ・シッディ(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、オームなどのマントラを体力の続く限り念唱しづづけると、そのマントラになりきった境地がある。)というものがあるが、ここにはそれに似た一つぶち抜けた感じがあった。とても穏やかで、平和な感じだ、もう余計なエネルギーは残されていないことがよくわかるのだ。

この浦和レッズの優勝シーンでは、精根尽き果てた選手が、無心にあって勝利を与えられた美がそこにはあった。

サポーターという無形の神は、レッズの選手を走らせた。神々は我々を冥想に走らせ、その迷いとの決勝戦を終結させるのか。

ブラジルの有力クラブ、サンパウロFC、コリンチャンス、パルメイラスやフラメンゴなんかでも、南米クラブ選手権を制することができたのは、20年に一回とかそんなものだ

それからすると浦和が次にアジアを制するのは、10年か20年後だろうと思う。それだけに今回の優勝は偉業である。


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過去1万5千年の気温変化

2007-11-16 06:06:43 | 時代のおわり
◎アトランティスの水没と異常気象

アトランティスが水没したのは、紀元前1万年とされるが、1万5千年前には、非常に厳しい寒さが続いていた時期であり、巨大な氷床が、スカンジナビアとドイツ北部にあり、そしてまだヨーロッパ大陸と陸続きだったイギリスもほぼ氷の下にあった。この時期海面は、現在の海面より90メートルも低い位置にあった。

その後の2000年の間に、急速な温暖化が進み、前1万2700年には、場所によっては、夏の気温が現代よりも高くなって、前1万2500年には、イギリスの7月の平均気温が20度くらいになった。この時期は前1万1千年頃まで降雨量が増加した。

この結果、スカンジナビアとアルプスを中心とした氷床は急速に縮小し、大量の淡水が海に放出され、海水面を上昇させた。

これは、欧米中心主義の欧米の学者の研究だから、当時も欧米が文化の中心だったろうという先入観のもとに欧米のことばかり言及するので、つい氷に覆われた欧州に文明の息吹はあったのかという疑問をすぐに思い浮かべるが、アトランティスはより温暖な地域にあったのだろう。

アトランティスの所在については諸説あるが、私は現在の大西洋サルガッソー海のあたりに沈んでいる説を有力と思っており、そうであるならば、人間が住む以上はある程度温暖な地域に居住していたことになり、無理に氷床に覆われた地域に住まないのは、ありそうなことだと思う。

紀元前1万1千年頃から、氷河時代に逆戻りし、深刻な干ばつが毎年発生した。この時期にマンモス、ケサイ、オオツノシカなどの大型動物の死滅が続いたことか知られているが、これはアトランティスの水没とタイミングとしては無縁ではないだろう。

それ以降現代に到るまで、一時的なミニ氷河時代を除けば、比較的温暖な「夏の気候」が続いている。

そんなこんなで昨今の世界的な気温の上昇というのは、過去1万5千年間でもなかった異常事態ということで、気候の予期せざる急変により、多数の生物種の絶滅の懸念もあるのだろう。


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