アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

森林破壊の9つの要素

2007-10-31 06:31:23 | 時代のおわり
◎文明は森林で始まりなくなると終わる

まず森林破壊が起こり、農業が破壊され、食糧がなくなり、地域全体が飢餓に見舞われ、そしてその地は捨てられ、やがてかつてその地に栄えた文明は滅亡する。

これが、環境破壊の一態様である森林破壊が最終的に文明滅亡に到る一連のメカニズムである。

ここにジャレド・ダイヤモンドがその著書「文明崩壊」で、太平洋の島々の環境破壊が進みやすくなる9つの要素をまとめたものがある。

1.湿潤な島より乾燥した島のほうが森林破壊は進みやすい。
  雨が少ない土地での植物の生育は遅い。

2.赤道付近の温暖な島より、高緯度にある寒冷な島の方が、森林破壊は進みやすい。
  光合成が盛んな場所の方が、植物の生育は早く盛んである。寒冷な土地での樹木再生
には時間がかかるものだ。

3.新しい火山島より古い火山島の方が森林破壊は進みやすい。
  意外なことだが、新しい溶岩と火山灰には、植物の成長に必須の養分が多量に含まれているため。古い火山島ではこれら養分は流出・浸出した後であることが多い。

4.火山灰が大気中を降下する島より、降下しない島の方が森林破壊は進みやすい。
  火山灰には、前述の養分が地力を補う働きがある。

5.中央アジアの風送ダスト(黄砂)に近い島より、遠い島の方が森林破壊は進みやすい。
  中国の中原が肥沃なのは、黄土高原やゴビ砂漠の黄砂が降り注ぐため。日本の地力が高いことも黄砂によるところもあるに違いない。 

6.マカテアと呼ばれる珊瑚礁が隆起した大地のある島より、ない島の方が森林破壊は進みやすい。
  マカテアの上を歩くと、珊瑚礁で靴底が切れて、ぼろぼろになる。こんな土地に好んで住もうとする人は少ない。それほど人が住み着きにくい土地であれば、森林伐採も起きにくいというもの。これは南洋の島だけの特殊な条件。

7.高い島より、低い島の方が森林破壊は進みやすい。
  山地は雲を作り出し、降雨を発生させる分だけ、低い島より湿潤な気候になりやすいから。

8.近隣関係のある島より隔絶した島の方が森林破壊は進みやすい。
  イ-スター島は木材がなくなって文明が退化した。近隣の島や地域から、ない物資を移入することができれば、森林破壊の衝撃を緩和することはできやすいものだ。

9.大きい島より小さい島の方が森林破壊は進みやすい。
  小さい島で、木材のないことや、植生の変化で農作物栽培ができなくなった場合は、大きな島では代替地をまず捜せるが、小さな島ではそれもままならないことが多い。

これは、太平洋の島ならずとも大陸にも似たようなことか言えるのではないか。
すなわち小国から森林破壊の影響は深刻なものとなりやすいこと。大国の方がその影響を緩和しやすい。(だから中国、米国は京都議定書を無視するのか?)

森林破壊は北の国から始まる。アマゾンの熱帯雨林の森林破壊が話題になるというのは、既に温帯の森林は日本を除けば、かなり壊滅的な状況になっているのではないか。

まず森林破壊があって、まずは食糧供給への影響の問題が第一番。
それから水。水にも二種あって、突発的な豪雨の頻発による治水の問題と乾燥に伴う飲料水などの水質の問題。
そして大気(汚染)の問題。

などなど、アセンションとか言ってる間に地球の環境破壊は深刻さを加え、日々身近に迫っている。


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クリシュナムルティと只管打坐

2007-10-30 04:43:35 | 只管打坐
◎欲望の極大化と冥想

1984年、アメリカの原爆実験場ロス・アラモスの講演でクリシュナムルティは、冥想について次のように語った。

『瞑想は、意識的な瞑想ではありません。我々が教え込まれてきたのは、意識的な慎重な瞑想で、足を組んだり、横臥したり、ある語句を繰り返したりといった、瞑想しようとする慎重な意識的な努力です。

こうした瞑想はナンセンスだ、と私はいうのです。

それは欲望の一部です。

平和な心を持ちたいという欲望は、良い家、良いドレスをもちたいという欲望とまったく同じです。

意識的な瞑想はもう一つの形式の瞑想を破壊し、妨害します。』
(クリシュナムルティ・開いた扉/メルクマール社から引用)

そうか、クリシュナムルティは伝統的なあらゆる冥想を否定しているのだ。
じゃあ自然に起きる本当の冥想がやって来るまで、毎日好き勝手なことをして、悪いこともして、遊びほうけてもいいのだ、と思うのが人の常。

本当の冥想がやって来ない我々にとって、どうすれば本当の冥想がやってくるのかを知るのが緊急テーマなのだ。しかしそれに対してクリシュナムルティは何等の方策を示すことはない。方法などない、形式ある冥想もやめろと繰り返すだけである。

この点で、欲望の極大化の頂点で、真の冥想がやって来ると説明する何人かの神秘家たちはとても親切であるとしか思えない。欲望の極大化とは、たとえば公案を参究してどんどん追い込んでいく状態。あるいは不条理を見ることによって意識の圧力を高める状態など。

クリシュナムルティから見れば、彼の場合は、おそらくは欲望が極大化する必要もなく、 身心脱落は起こった。けれども誰でも必ずしもそうではないことを百も承知の上、どうして木で鼻をくったようなやり方を採ったのだろうか。

それは只管打坐の持つ特有の性質によるのではないか。余計なことを考えないで、ただ坐るだけだから。最初は結跏趺坐か半跏趺坐の姿勢を維持する努力があるがいつかそれも消えるという。

そのことも言わないのは、やはり自分がそうした姿勢を固定する必要を感じていなかったせいではないかと思う。また向こうの側からだけ、「それ」を語ればそういう説明となるのではないか。


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アイスランドと環境破壊

2007-10-29 06:10:41 | 時代のおわり
◎百年単位の展望

アイスランドは、火山と氷しかない島だけど、映画007の舞台にもなった面白そうな土地というのが、世間一般のイメージではないだろうか。

ところがアイスランドは、環境破壊では最も進んだ様相の島なのである。つまり人が入ったことによって、もともとこの島にあった樹木と植生のほとんどが破壊され、土壌の半分が浸食によって海中に流されてしまったのである。

アイスランドに最初にヴャイキングが入植した頃は、低地には樺と柳の森林が広がり、樹木限界線より高い山には、青々として牧草や苔が広がり、土壌も肥沃なところだった。

ヴァイキングが最初に入植した7、8世紀?には比較的温暖だった気候も中世の後半は更に寒冷になって、この気温の下降により、住民は作物の栽培を諦めて牧畜一本で生計を立てるようになった。この寒冷化による農業の変化は、人為的なものではない。

ところが、アイスランドはヨーロッパよりも寒冷で、時々火山の噴火による降灰が植物の生育を阻害する。この不吉なイベントはアイスランド住民に飢餓を引き起し、1783年のラーキ火山の噴火後には、人口の五分の一が餓死したという。

またこの火山の噴火では、しばしば万年雪が溶けだして、大きな洪水となり、肥沃な土壌を流し去ることも繰り返される。また北極に近いこともあり、風が猛烈に強い。

一般に土壌は羊の放牧で草が食べられたり、人間が耕作することで、表土が露出し、荒れることになるが、温帯では、自然に草木が露出した表土を覆い、土壌の浸食・流出を防ぐものだ。

ところがアイスランドでは、草木が露出した表土を覆うには非常に時間がかかることから、土壌は次々と流出・浸食を繰り返し、月面みたいになった土地があちこちに見られる。これがアイスランドが環境破壊先進国である理由である。要するにアイスランドでは、羊の過剰放牧により、農業は壊滅に近い状態になったのだ。

今のアイスランドは、地熱発電の盛んな、漁業中心の国として、最も豊かな国の一つになった。

百年単位でものを考える為政者が出ないと、環境問題は飢餓問題に発展していく可能性があるということだろう。環境破壊とは飢餓の問題なのだ。


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出口王仁三郎のパパ

2007-10-28 05:48:14 | 時代のおわり
◎有栖川宮熾仁親王説

出口王仁三郎は、第二次大本事件の時も、大罪(不敬罪)であったにも係わらず、拘留途中で刑務所から謎の釈放を遂げている。

この理由は官憲からは勿論通告はないが、出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であったためではないかという説が有る。

戦前に、天皇周辺にも影響力のあるあれだけの大教団を作り上げるには、本人の実力もさることながら、そういった血脈がなければ、なかなか大を成すことはむずかしかったのではないか。

有栖川宮家は、寛文七年(1667年)に幸仁親王が有栖川宮家を称したのが始まり。

有栖川宮熾仁親王は、1851年、17歳で孝明天皇の異母妹和宮(6歳)とご婚約。11年後の1862年勅命により、和宮は婚約解消され、将軍家茂とご婚約となった。

熾仁親王は、和宮の一件から当然に倒幕派となり、佐幕派であった孝明天皇の怒りを買い、参殿などを禁じる幽閉が3年続いたが、1867年の孝明天皇の崩御により幽閉を解かれた。

さて1868年(明治元年)、官軍が江戸に向かって軍を進め、江戸城無血開城は、官軍の西郷隆盛と幕府の山岡鉄舟の談判によって決まったことになっているが、その官軍の大将・東征大都督であったのが、熾仁親王であった。

同年11月、熾仁親王は、京都に凱旋。この頃伏見の船宿にたびたび足を運ぶうちに
船宿主の上田よね(19歳)とわりなき仲となり、よねは急ぎ婿養子を迎え、後に生れた上田喜三郎が後の出口王仁三郎であった(出生届出は明治4年)。

明治2年、熾仁親王は、明治新政府の初代総裁就任。
明治22年、皇位継承第一位。
明治28年、日清戦争の最中に広島で病没。
(参考資料:二人で一人の明治天皇/松重楊江/たま出版)

出口王仁三郎のパパは、今ではほとんどの人が知らないけれど、当時では日本人なら誰でも知っている超有名人だったのですね。ならば、戦前のあれだけ民主的とはいえない体制のもとで、出口王仁三郎が二回刑務所に入って二度とも出て来られたこともなんとなく納得できるように思う。


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只管打坐の7ステップ-4

2007-10-27 06:36:11 | 只管打坐
◎絶対に買えない最高の逸品
             
ダンテス・ダイジは、身心脱落のことを「宇宙と一体という経験のみにとどまらない、全くの何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道」と説明している。


いきなりこういう説明を受けても、とっつきにくく、全くの何のことやら想像を絶してしまう。大体こんな説明をするから、折角門前まで来て中を見ようとする物見高いお客さんをみすみす帰してしまうようなものだとつくづく思う。

そこで、クリシュナムルティの生き方や著作を見ると、それがどんなものなのか、段々見当がついて来るのではないだろうか。そうは言っても、クリシュナムルティのやり方だって、「この品物はどんなに頑張っても買えませんが、こんなに素晴らしい品物でーす」みたいな宣伝をしているようなところはあるけれど。

ダンテス・ダイジの只管打坐の7ステップは、これだ。

ステップ1.
固定静寂
エネルギー
パワー

ステップ2.
あたりまえな生命の暖かさ
意識する必要のない大安心
完全にあたりまえに生きていること

ステップ3.
至福
Every thing is ok の情熱と平安
実用的な霊的ビジョンと鋭敏な感受性

ステップ4.
すべてが自己である愛・慈悲
大いなるすべてのものに対するいとおしさ
すべてが一体であるという感謝
底知れぬ生命の絶望と悲しみ

ステップ5.
カオス・全面的な真っ暗闇
パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション
美と調和のバイブレーション

ステップ6.
あらゆるレベルでの智恵・インスピレーション
直感・個生命としての完全な納得
個我を残した時点での限界的英知
Everything is Everything

ステップ7.
エクスタシー・すべてのすべて
身心脱落・脱落身心
究極の根底・ニルヴァーナ
唯一の私自身・私自身がない私自身
すべてのものとなって現れている私自身

(注1)どの時点でどのステップが出てくるかわからない。
(注2)人により、第一番目から六神通を持つ場合もあり得る。
ただし、それにとらわれてしまえば只管打坐の進行は自動的に止まってしまう。

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版から引用)

最初にこのステップを見た時にはこのプロファイルの根底にある原理原則など想像もつかなかったが、今見てみると七つのステップとは、七つのチャクラに照応した区分になっていることがわかる。

ダンテス・ダイジは、只管打坐のステップなどというものは、はなから問題にしていないが、ステップなどというものがあるとすればという条件つきでこのステップの説明を始めている。

我々が只管打坐を知的にイマジネーションするに当たっては、こうしたステップを相手にしないものこそが只管打坐であるという彼の説明全体に横溢する自由奔放な気分を、忘れてはならないだろう。

イメージが掴めても掴めなくても、さあ坐ってみよう。

きちんとした理由を示すことなどできないが、自分が気に入っている身の回りの道具や持ち物や、この劣悪で素晴らしい文明の息吹は、それによっていくらでも残ることになるのではないだろうか。


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只管打坐の7ステップ-3

2007-10-26 05:09:58 | 只管打坐
◎完璧な生の瞑想

只管打坐の7ステップの最後に残された、身心脱落や、すべてのものとなって現れている私自身というべきものは、クリシュナムルティの体験には何度も出てくると思うが、その一つはこれだ。

(文中の「あなた」はクリシュナムルティのこと)
『暗緑色の葉の間に赤い花が咲いており、あなたはベランダからただそれを見ている。丘陵や赤砂の川床、巨大なバンヤンの樹や数多くのタマリンドがあるのだが、あなたが見ているものといえば、ただその花だけである。

それはとても陽気で色彩に溢れている。それ以外の色彩はない。青空の裂け目、光に輝く雲、紫色の丘陵、稲田の豊かな緑、これらすべての色彩は色褪せてゆき、ただその花の驚くべき色彩だけが残っている。それは空全体と渓谷を満たしている。

それはやがて色褪せて、消滅してゆくだろう。それはやがて存在するのを止め、丘陵だけが永続してゆくだろう。

だが今朝それは一切の時間と思考を超えて、永遠の存在であった。それはすべての愛と歓びを保持していた。その中には感傷やロマンチックなばかばかしさはなかった。それは何か他のもののシンボルでもなかった。

夕刻の中で死ぬのはそれ自身であったが、それは全生命を含んでいた。それは何か推論したものでも、不合理な、あるロマンチックな夢想といったものでもなかった。それはあれらの丘陵や互いに呼び合っている声のように現実的なものであった。

それは完璧な生の瞑想であり、幻想はただ事実の衝撃が止む時のみに存在する。』
(クリシュナムルティの神秘体験/クリシュナムルティ/めるくまーるから引用)

ここでクリシュナムルティは、一切の時間と思考を超えた永遠の存在にあることで、すべてのすべてであることを自証し、そしてこの冥想が「生の瞑想」であることを告知した。

つまりクンダリーニ・ヨーガは死の側からの冥想であるが、クリシュナムルティの冥想は生の側の冥想であることがわかった。従ってクリシュナムルティのそれは只管打坐であると見たい。

けれどもクリシュナムルティが結跏趺坐して、腰をいれた只管打坐の姿勢をとる冥想であったなどという記述には、一度もお目にかかっていないので、それを証明する材料としては不足である。

只管打坐の7ステップは、結跏趺坐には限定されず、冥想の姿勢にはよらないで起こるのだろうか。


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只管打坐の7ステップ-2

2007-10-25 05:41:26 | 只管打坐
◎すべてはすべてだった

『それは、暮れなずんでゆく夕暮れの中から現れて来るあの大きな牡牛と同じように突然である。あの他性(アザーネス)が強い主張と広大な広がりと共にそこにあり、いかなる言葉も象徴もそれを捉えることはできない。それは空と大地と、その中にある。あらゆる小さなものを満たして、そこにある。

あなたと、一言も喋らずにあなたの傍らを通り過ぎたその小さな村人は、それに属している。その時間のない時間に存在しているのは、ただあの広大な広がりだけであり、思考も感情もなく,頭脳は完全に静まっている。

すべての瞑想的な感受性は去り行き、ただあの信じがたい純粋性だけがそこにある。それは入り込むことも、近づくこともできない力の純粋性であり、しかもそれはそこにあった。

あらゆるものが静止しており、運動も活動もなく、列車の警笛の音さえも静寂の中にあった。』
(クリシュナムルティの神秘体験/クリシュナムルティ/めるくまーるから引用)

思考も感情もないが、頭脳を残しているので、まだ個我を残している。個我、自分を残したところで世界全体を、「あらゆる小さなものを満たしてそこにある」と観じている。これは、極限の英知と呼ぶのがふさわしい。

これは、すべてはすべてだったということ(Everything is Everything.)で、只管打坐の7ステップの第6と見たい。

クリシュナムルティは、1961年の6月に始まる7カ月間『クリシュナムルティの神秘体験』というノートを書いたが、これによれば、少なくとも2~3日に一回は、他性(アザーネス)、空、永遠などとよばれるものに出会うことを繰り返している。

そこが彼の神人たる所以(ゆえん)であるが、それだけ日常的に神の甘露を味わっているが故に、それを正法眼蔵のような哲学的な文章に仕立てる動機も必要性も持ち合わせていなかったのだろう。

これに対して、道元が時間も空間も越えたものに出会った頻度は、おそらくこれほど頻繁ではなかったのではないだろうか。だから、究極に対するいわば郷愁と渇望の気持ちが正法眼蔵という哲学書みたいなものを成立させることになったのではないだろうか。

ただし道元は、普勧坐禅儀で、冥想のメソッドを確立したのに対し、クリシュナムルティはメソッドには関わらなかったという大きな相違点もまた別にある。


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相手の下に立つ

2007-10-24 05:30:34 | 老子
◎老子第68章 善為士者

『本当に立派な武士は、武ばらない。戦の上手なものは怒らない。

よく敵に勝つものは、叩き合うことをしない。人を使うの上手なものは、よく相手の下手に立つ。

このようなのを不争の徳という。これを人の力を用いるという。これを天なる自然に一致するとも言う。これが古の精神の極致である。』

明治以降の四民平等の世界では、ある程度対等の関係の中で、人にものをやらせることになることが多い。そこで、人にものを為さしめるには、口先で謙虚を装い、下につくことが普通に行われている。

これは、単純に生活の智慧の一つであって、決して人間的な経験を越えた大道を知った結果、自ずと態度行為が謙譲となったのではない。

老子がこの章で上策とした所作が、現代日本では日常的に行われているのである。

ことほどさように、現代社会の事情は複雑であるといわざるを得ない。春秋戦国の老子の言がメルヘンに思えるほど深刻な時代に我等は生きているのだ。


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山火事とエコ

2007-10-23 06:16:19 | 時代のおわり
◎自分をなくす方向

カリフォルニアでクリシュナムルティが亡くなってから、カリフォルニアのオーハイ付近の山でもしばしば山火事が起こるようになった。クリシュナムルティの著作では山々の美しさに没入するシーンは頻繁に登場するが、山火事のことはほとんど出て来ない。山火事も環境破壊の一つである。

環境破壊といっても、多様な側面がある。鉱業などに起因する有毒廃棄物、土壌汚染、水資源不足・汚染、大気汚染、生物多様性の低下、有害な外来種の問題など多様であり、森林資源の問題はその一側面。

製紙と製材(住宅建設)のために林業は必須であるが、伐採を進めるほど儲かるので、森林の樹木はどんどん枯渇して、はげ山が増えた。これは世界的な傾向。

これに対してアメリカでは伐採抑制を大規模に採用した(間引きをほとんどやってこなかった)が、これが樹木密度の高い森林形成の原因となり、消火のできない大規模な森林火災の原因となっている。あのセコイアの巨木で有名なイエローストーン国立公園は、1988年の山火事で大半が焼かれた。

山火事の多発の原因は、間引きをしない森林保護政策だけではなく、夏の気温が上昇し、湿度が低下しているという地球温暖化の影響が基本である。それ以外では、2007年の夏のギリシアの同時多発山火事の原因は放火とされ、直接人が手を下した例まで出てきた。

地球温暖化により降雨が減少しているが、これは、生活用水の不足となっているのと同時に、森林後退の遠因ともなっている。

イースター島などの例で見るように森林後退は、農業衰退に直結し、地域社会崩壊の引き金になり得ることを認識し始めたので、エコが世界的なブームとなっている。

ルワンダの例に見るように一旦維持可能な人口密度を越えた国は、結果的には自壊の道をたどり適性な人口密度まで収縮する傾向があることを見ると、預言者ならずとも、この地球全体の趨勢を見て取って「人類に大規模な戦いは避けられない」などとご託宣を下すことに不合理さは感じられない。

エコをやりながら、世界の人口を維持していくには、食物の量を減らし、自分の生活水準を落とすことしかないだろう。エコの運動は環境保護だが、本当に実現するためには、我が自分勝手な食欲、物欲を抑制する方向にいかないと画餅に終わってしまう。

食欲、物欲の適性な抑制は、自分だけ生き残りたいという動機からでは、ついには他人との争いになるだけなので、自分をなくす方向での日々の冥想訓練から始まるしかないと思う。


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道元の手許メモ

2007-10-22 04:25:44 | 只管打坐
◎そう簡単ではない

道元の師匠の天童如浄が語るには、「参禅は身心脱落です。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いないで、只(祇)管打坐するだけです。」

「それでは、質問です。身心脱落って何のことですか?」

如浄「身心脱落とは、坐禅のことです。ただ坐禅する時、五欲(感覚的な欲望)を離れ、五蓋(むさぼり、怒り、などの迷いの状態)を除くことになります。」

ここまでは、道元の手許メモである宝慶記に出ている話。

只管打坐するだけで、きっと本当に迷いの世界から解脱できるのでしょう。

でもそんなに簡単なことならば、続々と道元の門下に身心脱落したものが輩出しているはずだが、道元の直弟子孤雲懐奘ですら、ようやく一人の伝法の弟子義介を出した時に、覚者は自分以上の力量の弟子を出さねばならないという責務があることから、「仏種を断絶させる大罪を犯すというプレッシャーから解放されてほっとした」みたいなことを書いてしまうほど、簡単ではないのである。

クリシュナムルティも伝法が一筋縄ではいかないことを承知していたから、あのような手法で一生やったのだろうか。クリシュナムルティの場合は、残念ながら同じ境地に達した者は周囲には誰も出ずに終わった。


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不安定な政権と過密な人口密度

2007-10-21 06:07:28 | 時代のおわり
◎先進国の資源・食糧獲得の帳尻

「文明崩壊」の著者ジャレド・ダイヤモンドによれば、世界の政治的に不安定な国々の上位10か国程度は、大きな環境問題を抱えているか、人口過密問題を抱えている。

その国とは、アフガニスタン、バングラデシュ、ブルンジ、ハイチ、インドネシア、イラク、マダガスカル、モンゴル、ネパール、パキスタン、フィリピン、ルワンダ,ソロモン諸島、ソマリアなどである。

今も昔も、人口が多くて、食糧生産が追いつかない、「食えない」国では、政権が崩壊しやすい。腹をすかせて、明日の生活の希望のない国民は、政府を悪者にして、政権転覆を図るか、その政府を見限って海外に移住するものだ。

また国内に残っている人は、土地・水・森林・魚介類・石油・鉱物を奪い合っては殺し合い、やがてそれがエスカレートして内戦となる。内戦になれば世界の警察官であるアメリカが介入してきたりする。

これらの国々では、ほとんどが武力を伴う政権交代が行われているが、その特徴は、乳幼児死亡率の高さ、人口増加率の加速、十代後半から二十代の人口比率が高いことと就労不能の若年層の軍隊への流入であるそうだ。

歴史学者アーノルド・トインビーは、大きな文明崩壊は辺境から起こると説いたが、近代西欧文明は、こうした不安定さを抱える環境的な辺境国から文明崩壊が起こるのだろう。

上位国リストの中で、政治的に不安定に見えない国はモンゴルである。ソ連崩壊以降その陣営の国々は資本主義体制に組み込まれるという荒波に揉まれてきたが、モンゴルも環境破壊による環境ストレスの程度が著しく、それが政権運営に影響を及ぼしかねないことを、政治学者、経済学者は、気がついているということだろう。

ルワンダでも何十万人もの人々が隣国に難民として移動した。難民はあたかも一握りの独裁政権が創り出しているように、ワンパターンで報道するマスコミも問題。
その遠因は、どうも我が先進国の資源や食糧獲得の政策によるところが大なのである。


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文庫本片手のクリシュナムルティ

2007-10-20 07:09:33 | 只管打坐
◎一人の食事は退屈

マイケル・クローネンが,食事をクリシュナムルティのコテージに運んでいき、食堂に入った時、

『私は食堂の中で見た光景にショックを覚えた。クリシュナムルティは姿勢を正してテーブルに向いて坐っているのでもなく、または一口三二回食べ物を噛んでいるわけでもなく、地上の収穫物を瞑想しながら食べているのでもなかった。

非常に気楽な恰好で皿の上に身をかがめ、片手にフォーク、別の手に本を持っていた。紙表紙の本(湖南注:ペーパーバックのことでしょう)を読むことに夢中になっているように見えた。

私のイメージが全く崩れさるような光景だった。充分に百パーセントの注意で事を運んでいるのではなかった。

驚きをかくせず、私は言った。「物を食べながら読書をしているのですか。クリシュナジ」(湖南注:クリシュナジはクリシュナムルティのこと)

「食事は時にはひどく退屈なのでね。」と彼は答え、すぐつけ足した。「料理はおいしいんだよ。ただ一人で食べていると、退屈してしまうんだよ。」

その簡単な説明で私の気分はやわらぎ、ひとりでに笑いがこみ上げてきた。盆の上の皿を集めて、私は尋ねた。「何を読んでいるのですか?」

「レックス・スタウトのスリラーだよ」彼は答えてタイトルを私に示してくれた。』
(キッチン日記/マイケル・クローネン/コスモス・ライブラリーから引用)

世の中の一人暮らしの方のかなりの割合の人が、一人の時は、気楽な恰好で食事をとっていると思う。けれども大宗教教団の教祖様にあっては、だらしない姿で食事をしているところを見られてはならない。それを取り巻く人々の間にある、無意識的な教祖様崇高なイメージが崩れてしまうからである。

誰も自分の本当の気持ちをわかってくれない人ばかりの中で、クリシュナムルティだって、いつも肩肘を張り続けているわけにはいかない。さばけた恰好で、愚痴のひとつもいいたいところを、文庫本(ペーパーバック)で紛らすくらいのことはやる。

大体「聖者、君子には感情はないのだ」みたいな誤った先入観が世間にあるのもどうかと思う。聖者は動物園のパンダでもなく、教会の祭壇に鎮座する聖像でもない。聖者も人である以上感情はある。周囲に理解者がいなければ面白くないに決まっている。

ただ感情に翻弄される自分を見ている自分が常にある。

この辺の先入観、つまり、我々悟らざる人と聖者の生き方は、相違点ばかりあるという先入観を払拭して、本当は同じ社会人としては生き方に共通点もかなりあるということを普通に理解していくことも、実は大切なこと。

またそうした心理的な壁をなくすることも、覚者を続々と輩出する(といわれる)この時代のステップの一つではないだろうか。それにより、聖者がこの世に生きる姿は実はかなり身近なものであるという感じを持ち、聖者の友人として生きる。これこそがアクアリアン・エイジの実像というべきものではないだろうか。


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ルワンダ大虐殺の仕組み

2007-10-19 06:11:53 | 時代のおわり
◎食糧不足と自律的人口削減

ルワンダ大虐殺は1990年代の事件であり、80万人から1百万人が虐殺され、国民の1割程度が虐殺されたとされる。その原因はそもそもフツ族とツチ族の対立によるなどと報道されているが、実際はフツ族とツチ族の区別が曖昧というか、なかなか区別がつきにくく、そう単純な図式ではなっかたらしい。

しかし大量虐殺の原因を探ると、部族対立以外にもフツ族同士の大量虐殺があったり、いつもの政治家の私腹を肥やす動きと権力闘争があったとか、フランスはフツ族を支援したとか、その他諸外国はだんまり傍観を決め込んだとか、いろいろなことが言われている。

ところが背景を見ると、ルワンダは農業が主たる産業の国で、国民の大部分が鋤や鍬による人力農業に従事する国。そこで人口が急増しだすと、解決は農地を拡大することと考え、森林を焼いて、段々畑を作って農地を増やした結果、大雨で、ある日せっかく作った畑が一夜にして流されるなどの土壌浸食が国全体に進んで行った。

この結果、食料生産は増加しないが人口だけが増え、一人あたりの摂取カロリーが飢餓水準を下回る人がどんどん増えて行った。そして、1989年には大規模な旱魃が食糧不足を深刻化させた。

つまり農業しかない国で生産する食料が足りないにもかかわらず、食糧輸入もできず、出生制限(バースコントロール)をやってこなかっために、意識的にか無意識的にか、いわば自然の摂理として、国民自ら人口削減の動きに出たとも見ることができる。

この事件からは、一つのステレオ・タイプとして、人口過密による人口圧力→人為的な環境破壊(森林破壊、草原破壊など)→旱魃(気候変動)→農作物の不作→飢餓→人口減少を読み取ることができる。

日本は食糧自給率3割だけど、なんとか持ちこたえているのは、その経済力のお蔭。そして今懸念されるのは、地球全体が気候変動により、このステレオ・タイプの流れにはまってしまうことではないだろうか。


    1日1善。1日1クリ。

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クリシュナムルティも人の子

2007-10-18 05:47:15 | 只管打坐
◎虚栄心

ある時、インドの有名俳優と女優がクリシュナムルティのところを訪れ、ランチを共にすることになった。女優の方は、映画スタートレック・ワンに出演することになっていた人で、映画出演のために豊かな黒髪を丸坊主にしなければいけないと語った。彼女は青地に金の縁取りのある優雅なサリーをまとっており、それが所作のしとやかさを際立たせていた。

映画の会話をしていると、クリシュナムルティが、「俳優は恐ろしく虚栄心が強い」と言い出した。すると女優はこの言葉が自分に向けられた言葉だと思ったからだろう。目が光り、居住まいを正して、立腹するのでもなく、冷たい口調で言い返してきた。

「でもクリシュナムルティさん。あなたにも虚栄心があるのではないですか。前額の禿を隠すため、頭髪をなでつけているではありませんか。」

クリシュナムルティはこの鋭い観察に対して応酬の言葉はなく、静かに彼女を見つめ、唇に笑みを浮かべただけだった。ランチの会話はその後も楽しく続いていった。
(これは、キッチン日記/マイケル・クローネン/コスモス・ライブラリーにある話)

女性の観察眼は、冷徹で、鋭い。流石のクリシュナムルティもたじたじである。クリシュナムルティは、(世界教師となるべく)若くしてイギリス上流のマナーを身につけさせられたので、気品ある所作の人だったろうし、身だしなみもオシャレもそこそこのレベルであっただろう。

でもオシャレのもともとの出所は虚栄心。社会、世間で受けを良くするためには、虚栄心を何がしか張らねばならないものだ。

だ、他性(otherness)だ、永遠だと、究極にしばしば出会うクリシュナムルティでも、人であるからには禿は隠したかったとしてもいいじゃない。十牛図でも出腹の禿おやじが街に帰ってくるが、究極に出会ったら社会に帰るのだ。そして社会に居るにはマナーと若干のオシャレという虚栄心が要る。


    1日1善。1日1クリ。

クリシュナムルティ

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ラマナ・マハリシの至福

2007-10-17 04:22:48 | 究極というものの可能性
◎個人の側からの説明

ラマナ・マハリシの問答の続き。
『「知識(ヴィジュニャーナ)とは何でしょうか」

「それは存在-意識の静まりかえった状態であり、それを熱望する者によって経験されるものであり、波ひとつない海のようなものであり、動かぬエーテルのようなものである。」

「至福とは何でしょうか?」

「すべての活動性が絶えた知識(ヴィジュニャーナ)の状態における喜びあるいは平和の経験であり、深い眠りに似ている。これはケヴァラ・ニルヴィカルパ(何の概念もなしにあること)とも呼ばれている。」

「至福を越えた状態とはいかなるものでしょうか?」

「それは止むことのない心の平和であり、心の完璧な静止状態において見出される。それはジャグラット・スシュプティ(目覚めた眠り)と呼ばれ、非活動の深い眠りに似ている。

この状態にあっては、身体や感覚は活動しているが、お母さんが食物を与えてもそれに気づかず眠っている子供のように外的な知覚は何もない。

この状態にあるヨーギは、何かやっていても何もしてはいない。この状態はまた、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ(知覚を失って自己に溶解した自然状態)と呼ばれる。」』
(ラマナ・マハリシの教え/ラマナ・マハリシ/メルクマール社から引用)

最初の知識についての説明は、そのようなものだと思う。それ以下の至福の説明とそれを超えるものについての説明はいただけない。

まず至福についての説明は、肉体と個人の意識の説明に止まっていること。それと次の至福を越えたサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディも肉体の感覚・動作の説明に止まっている。

これでは至福にあろうが、至福を越えた状態にあろうが、個である人間の状態にあることは変わりないと言っていることになる。これって至福?

大方の至福経験者によれば、その時既に個はなく、あなたと私の区別もなく、神と自分の区別もなく、むしろ至福について述べる時は至福の側つまり神の側から述べる場合が多いように思う。

従ってこの説明をするからには、ラマナ・マハリシは、神に出会ったことはあるだろうが、神との合一体験はなかったのではないかという疑いを禁じ得ないのである。


    1日1善。1日1クリ。


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