アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

エクソシストなクリシュナムルティ

2007-09-30 07:20:14 | 只管打坐
◎元の黙阿弥

クリシュナムルティは、ロンドンで窓の外を眺めていると一台のロールスロイスが止まり、中から化粧をして優雅に盛装した貴婦人が降りてきた。

クリシュナムルティが自ら家のドアを開けると、彼女は私とプライベートなお話ができるでしょうかと尋ねた。クリシュナムルティは、彼女を家の中に招きいれると、彼女は自らのことを話し出した。

彼女は、非常に成功した高級コールガールで、貴族、政治家、実業家など、社会の高い立場にある何百名もの男性とセックスをして、巨万の富を築き上げた。

ところか6か月前、彼女が本当に愛していた最愛の恋人が亡くなってしまった。

ある日の夕方、彼女が一人で暖炉の前に腰掛けて、炎を見つめながら軽い気持ちで、亡くなった恋人の霊魂を心の中で呼び出そうとした。すると驚くべきことに幽霊が以前の恋人の形で火の中から姿を現した。

彼女は、それからその幽霊とセックスしたが,そのことはとてもエキサイティングで、楽しいことだった。

そして次の夜からも同じことをした。でもそういうことが起きるのは彼女が一人でいる時だけで、そのことが何カ月も続いた。

その幽霊は、彼女にああしろこうしろと正確に次に合う時間までしなくてはならないことを指図するようになり、段々と彼女を支配するようになっていった。

彼女は、そうした生活から脱けだしたいと思い、心理学者や司祭以外の人で相談できそうな人の紹介を、信頼のおける友人に頼んだところ、クリシュナムルティの名前が出てきた。彼女はまずクリシュナムルティの講話に1~2回出席して、それからこの訪問になったと涙ながらに語ってくれた。

クリシュナムルティは、言ったことを彼女がきちんと守ることを条件に助けてあげることにした。彼女はそれに同意したので、クリシュナムルティは、彼女のはめている指輪の一つをはずして、3日後に返すまでここに置いておくように命じた。

そしてその間セックスをしないことと、夜間は幽霊が彼女に近づけないように一人で家にいないことを約束させた。

クリシュナムルティは、彼女の指輪を3日間暖炉の上のマントルピースに載せて、三日間触れもしなかった。

三日後に彼女はロールスロイスでやって来たので、クリシュナムルティは、指輪を返し、それをずっとはめて、今までどおりの生活をして何が起こるか御覧なさいと言って、帰してやった。

一週間後、彼女がやってきた。彼女はすっかり喜んで、一人で夜暖炉の前にいても何も起きなくなったと言って、お金を置いていきそうになったが、クリシュナムルティは、受け取らなかった。

何カ月かたって、クリシュナムルティは、街のレストランで食事をしている時に彼女を見かけた。彼女が折入って話があるというので、聞いてみると、あれから日にちが経つにつれて毎日が虚しくて、淋しくなった。そこで、一カ月くらい前に、また戯れに幽霊を呼び出してしまい、前と同じ生活になってしまったそうだ。
(出典:キッチン日記/マイケル・クローネン/コスモスライブラリー)

独り暮らしは淋しいものだし、セックスの快楽は捨てがたいし、妙な趣味にたまにふけることもあるという感覚は、何も一般人と変わることはない。だからこの話には、ある意味で他人事とは思えない部分がある。

一般的な生活感覚つまり普通とされるライフスタイルが、このように倒錯的なものを積極的に忌避しないことに注目すべきだと思う。換言すれば、いろいろな意味で悪魔的なものが尻尾をぶら下げて、そばまでやって来ていても、たいていの人は積極的にそれを排除すべき動機を持たないで、そのままにしちゃうことが多いということだろう。除霊がしばしば効果なしと言われるのは、こうしたあまりにも一般的な生活感覚が背景にあるのだと思う。

わざわざクリシュナムルティが、この話をするのは、自分の自堕落なライフスタイルをありのままに見つめてもらいたいという気持からだと思う。

またクリシュナムルティは、自分でも超能力があることを否定してはおらず、この程度のことは朝飯前にできるが、決してそれを前面に出すようなことはしなかった。

超能力・霊能力への渇望は、今の人間の有り様では、権力欲と裏腹であり、そのような能力を披瀝することは、百害あって一利なしと考えていたのだろう。


    1日1善。1日1クリ。


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道元の身心脱落解説

2007-09-29 07:02:33 | 只管打坐
◎秘密をカミングアウト

宇治の興聖禅寺で弟子たちに道元が言った。
身心脱落とは、感覚も精神の働きもないことである(声色倶に非なり)。こうなってしまうと悟りもない状態である。またそれは迷いもない状態である。

(江南の人が鷓鴣(しゃこ)の声を聞くと故郷江南のことを思い出すように)、この中に身心脱落を知っている者がいるか。いるのなら、その人は、俺が身心脱落から来た言葉を語っていると聴くだろう。」

感覚も精神の働きもない状態とは、通常の精神状態にはないことは明らかである。只管打坐すると、だれでも通常でない精神状態になるわけでもない。

もうひとつ、興聖禅寺で道元が言った、
「それが本物の一句の言葉であれば、それだけで、あらゆるマーヤ(無明)は消え去って、砕け散る。そして、その言葉は、谷をふさぎ、溝を埋めるほど広大なものとなる。

それでは、過去現在未来の諸仏や達磨以来の禅の祖師は、修行者のためにどんな言葉を修行者のために出したのか?

ここに諸仏も禅マスター達も、一度もカミングアウトしたことのないとっておきの言葉を私は持っている。それをあなた方だけに教えて上げよう。

しーん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しーん

もうカミングアウトしてしまったぞ。」

道元の教えは言葉では伝えられなかったのですね。翻って、言葉で説明しているのは嘘・偽物ということですね。しーん。


    1日1善。1日1クリ。


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身心脱落の前兆

2007-09-28 06:36:26 | 只管打坐
◎三種の吉兆

宝慶記は、道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。

それに身心脱落の前兆とおぼしきものがある。

如浄が道元に語るには、
「あなたは、これから先、必ず美しく妙なる香気で、世間に比べるものがない香りをかぐであろう。これは吉瑞(よい前兆)である。
                              
あるいは坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがあるのも吉瑞である。

もしくは、いろいろな触覚が起こることもまた吉瑞である。

そのようなことが起きても、すぐに頭髪についた火を振り払う如く坐禅に励みなさい。」

こんな嬉しがらせてもらようなことを大師匠から言ってもらった後で、それに似たことが起きるとその神秘体験にこだわり、しばしば修行は先には進まなくなるもの。

これらの神秘体験は、身心脱落の発生に先立って必ず起きるものかどうかはわからないが、少なくとも天童如浄の経験や直観ではあることを教えてくれたものだと思う。

けれどもその扱いは、どんな素晴らしいあるいは妙な神秘体験でも、それに一切こだわりを持ってはいけないと戒めているのは流石(さすが)である。

天童如浄は、魔境とそうでないものの区分を知らないはずがないので、この3例は身心脱落のプロセスにおける正統的な道標の可能性は否定できないが、一方で全く同じ事象の魔境があることもまた否定できないところはある。


    1日1善。1日1クリ。

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クリシュナムルティの意義

2007-09-27 06:03:09 | 只管打坐
◎それは成功したのか

クリシュナムルティは、最初は、リードビーターらによって、マイトレーヤ(弥勒菩薩)の霊媒となるべく教育訓練を受けていた。

神に接する方法には2法あり、一つは自らを神霊に乗り移らせて、神霊の言葉をしゃべらせて、神意を知る方法つまりチャネリングである。チャネリングでは、媒介となる人間そのものの悟境は問題にならず、乗り移りが終わった後の霊媒(チャネラー)は、もとの木阿弥となることが多い。

もう一つは、自らが神と同じ境地を体感する方法である。最初は自分が体感するつもりでトライするのであるが、体感した後は、神が自分を体感するのだという言い方に変わる。

自らを神の乗り物にするチャネリングというのは、日本でも諸外国でも非常に伝統のあるやり方であり、おそらくは自我が十分な発達を遂げていない時代にあっては、神意を知る方法としては唯一の方法であって、共同体の安定のためにその中にチャネラーが組み込まれているのが一般的であったように思う。

神智学協会は、クリシュナムルティに単にマイトレーヤを乗り移らせることに飽き足らず、恒久的にマイトレーヤが乗り移った状態にしようとするつまり個性そのものの交換をしようとしたふし(肉体の占有、化身)がある。この出来上がりが世界教師。

この意欲的な試みは、チャネリングの究極の姿であったように思う。この試みは、クリシュナムルティによる1929年の星の教団解散宣言によって終止符を打たれる。

これによって20世紀以降の人間にとって、チャネリングによる神へのアプローチという手法は陳腐化し、もはや適当ではないことが明らかにされたと見るべきだろう。

要するに、もはや我々にとって霊がかり、神がかり、霊言により神意を知る手法では、自分自身は何も変容しないので、その効果は極めて希薄なものになったことを象徴する事件だったと思う。

これ以後は、あるがままにすべてを受け入れるという身心脱落の境地の宣伝が、クリシュナムルティのテーマとなった。

クリシュナムルティの境地は、確かに最初は全体的知覚で始まるが、最後は知覚している自分もなくなるので、これは身心脱落というべきものであるように思う。

クリシュナムルティの問題点は、その境地の素晴らしさは繰り返し語っているが、どのような冥想手法によりその境地に至ったかがわからないことであり、また周囲にそのプロセスを明らかにしていないことである。

道元は只管打坐という冥想体系を指示したが、クリシュナムルティは、たまたま天然のままで身心脱落したので、冥想手法を知らせることはなかったというような印象を受ける。


    1日1善。1日1クリ。

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クリシュナムルティの究極

2007-09-26 06:09:30 | 只管打坐
◎彼自身の消失

ご推薦をいただいた「クリシュナムルティとは誰だったのか」を買ってきました。

これまで、クリシュナムルティの究極の体験は、胡椒の樹下の冥想によりメンタル体で肉体を離脱して、神なる混沌を遠くから星として見た体験を究極の体験ではないかとして考えてきた。

ところがこれは、クンダリーニ・ヨーガの究極である中心太陽への突入は果たしておらず、とてもではないが、究極と呼べる代物ではない。彼の悟境をうかがうと、決してそれに留まるものではないところがあるので、子細にこの本を見て見たが、それらしい体験は以下の体験ではないかと思われた。

『私たち〔クリシュナムルティと一人の友人〕は、〔スイス〕のとある山の木々に覆われた険しい小路をのぼり、ほどなく、ベンチに腰を下ろした。

突然全く予期しないまま、ある聖なる祝福が私達のところにやってきた。もう一人の人もそれに気づいたが、私たちは何も言わなかった。それは何度か部屋を満たしてはいたが、今度はそれは広く山腹を横切って覆い、谷にまで広がり、山を越えて広がるかに思われた。それはいたるところにあった。

全空間は消失したかに思われた。遠くにあるもの、広い割れ目、彼方の雪に覆われた山の頂、そしてベンチに座っている人〔彼自身〕は消え失せた。そこには一も二も多もなく、、ただ無量の広がりだけがあった。

脳はその全応答を失っていた。それは単なる観察の器官であり、それは見ていた。 -誰か特定の人に属する脳としてではなく、時空に条件づけられていない脳として、すべての脳のエッセンスとして』
(クリシュナムルティとは誰だったのか/アリエル・サナト/コスモスライブラリーから引用)

この中で、そしてベンチに座っている人〔彼自身〕は消え失せたのところが身心脱落に該当する部分ではないかと考えられる。クリシュナムルティにとっては、それは一度だけのことではなく、何回か起きていたようだ。

この本全体として、著者の哲学的思索が半分であり、どこが究極であったかの探求としてはあまり意味はない。

クリシュナムルティ自身は、クンダリーニ・ヨーガ的な神秘体験を認めない立場を貫いて来たことや、自身が世界教師でないことや、マイトレーヤの化身でないことの主張を見ると、明らかにクンダリーニ・ヨーガの人ではない。

むしろその本質は、このような体験から出てくるところの、瞑想録に淡々と綴られている様々な感想のなかに彼の悟境を見ることができると改めて思った。
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観念的なイメージ

2007-09-25 04:31:06 | 老子
◎老子第67章 天下皆謂

道(タオ)の大なることは、人間的経験を越えているのであるから、人間の持っている観念的イメージのみを類型としている人々が、大きすぎるとか評しても意味はないことだ。

道を見たり、一体化する体験を経た後、老子は、「慈。倹(人為を慎むこと)。敢えて世間の先になろうとしないこと。」の三つを意識的に道(タオ)を保持し続けるための人為的努力として選んで行った。

こういった意識的努力の存在は、どこから来るものかを推察しても、不可思議なものだとしか言いようがない。ここは老子の聖胎長養である。

『世間では私の道を、あまり大きすぎて似た者がないから信じられないという。

そうだ、本当に大きいのだ。だから似たものがないのだ。若し似たものがあるならば、私は久しい前から小さかったのだ。

私には三つの宝がある。これを大切に保っている。一はである。二は倹(人為を慎むこと)である。三は敢えて世間の先になろうとしないことである。

慈であるからよく勇たることができる。倹であるから能く広く用いることができる。敢えて世間の先になろうとしないから、だからよく世間から推重されて頭と立てられる。

今、慈しむということを棄てて勇なりしとしようか、倹ということを棄てて広く用いようとしようか、後となることをやめて、先になろうとしようか、それはただ死あるのみである。

ほんとに慈しみをもって戦えば則ち勝ち、守れば必ず固い。天のこれを救おうとするのは、慈しみを以ってこれを衛るからである。』


    1日1善。1日1クリ。


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伝光録の身心脱落

2007-09-24 07:28:50 | 只管打坐
◎何が脱落?

伝光録は、道元直系の3代目の瑩山紹瑾(1268-1325)によるもので、祖堂集みたいに歴代の禅者のことを並べてある本。

その中に道元の章もあるが、肝心の身心脱落の説明は少ししかない。

曰く、身心の身とは、肉体のことではない。また心とは、感覚や認識のことではない。というのは、(身心脱落を求める)学道とは、心、意、識を離れよというからである。

更に心、意、識を離れた、一段の永遠で堅固な霊光(一段の霊光、歴劫長堅なるあり)があって、子細によく看れば、必ず到ることことができる。

ここに到ってよく見ると少しも肉体(皮肉骨髄)もなく、心意識と分別するべきものもない。この状態が身心脱落に当たる。要するに身心などは、最初からなかったことがわかる。

一段の永遠で堅固な霊光とは、霊光と感じられるものがあってこういう表現をとったのか、それとも身心脱落を隠喩で詩的に表現したものかどうかは説明がないのでよくわからない。文脈からは後者だろうけれども。

それと、身心脱落と臨済禅の大悟の違いはどこにあるかという問題がある。これは、臨済禅で悟った人で、身心脱落もしたことのある人しかわからないのだろうけれど。

更に説明をしている肝心の瑩山禅師が身心脱落したかどうかという問題がある。俺が身心脱落した時は、とても言葉では表現できるものではなかったなどという述懐が残っていれば、ちょっとは違うように思う。


    1日1善。1日1クリ。

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現実の裂け目に直面する

2007-09-23 07:51:26 | 時代のおわり
◎精神医療の昨今

うつ病を中心に精神科にかかる人が多くなったが、まだまだ世間で常識とされているものが実は違っていたということは、ままあるものだ。

1.自称PTSD患者は多いが、死の恐怖の経験に起因しない症状はPTSDではないとのこと。
トラウマの深刻さからいえば、そうだろうけれど、トラウマの中味を突き詰めればもともと自分の死への恐怖に由来するという側面もあるように思う。

2.多重人格は、日本では症例が稀であり、ヨーロッパでは否定的である。北米でだけ一般的に認めている。
多重人格とは、そもそもあやしい概念のようだ。

3.アダルト・チルドレンは、問題のある家族の間で育ったために、大人になって周囲とうまくいかないとか精神症状がある人のことだが、自分に都合の悪いことは周囲のせいにできる都合のいい精神病名でもある。なんとなれば、問題のない家庭なんて今どきないし、大人になって周囲とのストレスは必ずあるものだから。

4.カウンセラーの誘導により、実際には起こっていなかった「偽りの記憶」(トラウマの原因)や幼児期の虐待が、あったことに捏造されることがままある。

そういえば最近はやりの前世記憶(や胎内記憶)も、他人に誘導されて、「あ、それは前世記憶です。」などと「教えられちゃう」こともままあるのではないだろうか。

5.健常者と病人の中間にいる人が境界例だが、精神科医はそうした患者とは、あまり親しくならないように心理的な距離とることが基本。治療にならないし、様々なトラブルに巻き込まれることがあるためだ。

6.買い物依存症は、日本ではごく一般的に見られる精神病である。しかしこれは正式の病名とはされていないが、「特定不能の衝動制御の障害」に分類され、類似疾患として、病的賭博、窃盗壁があるそうだ。

パチンコ中毒もこの一種かもしれない。大手スーパー、百貨店、各種製品メーカーは、BGMや広告で買い物依存症をスマートに拡大することに余念がないのではないかとも疑ってしまう。広告をずっと流し続ければ、意図的ではないにしても、結果的にある一定の確率で買い物依存症の人が発生するに決まっている。

7.精神科医やその家族が、患者に襲われたりすることはままあるようだ。大阪池田小学校の事件(係争中)のように大きな殺人事件で被疑者の行為能力を精神疾患のために認められない場合は、しばしば無罪になってしまうことがあるが、同様の理屈で精神病院の中でもそうした事件が時々あるけれど、表面化しないようだ。
(参考:狂気の偽装/岩波明/新潮社)

この本の著者は現役の精神科医の方だが、その方も日本では宗教がないと言い切っている。自殺の増加やうつ病の増加の背景には、孤立感、疎外感があることが指摘されてはいるが、それ以上きれいに説明できてはいない。

個人というものが、何か喪失感を徹底的に感じさせられてしまう事件があったときに、何も頼れるものがないような、足元の大地が崩れていくような無力感を味わうものだ。それに直面した人にとっては、かつては組織宗教がその受け皿をやってきたのだが、今はその受け皿が社会組織として存在しない時代である。だからそうした場面に出会ったら、あたふたする。

その直面のインパクトを自分で消化できない時に、自殺という選択肢を選ぶのだろうが、痛ましいことではある。やや残酷だけど、そのインパクトも、本当の自分に出会うために開かれた裂け目ともなり得る。


    1日1善。1日1クリ。


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人の一生と肉体の静電気

2007-09-22 07:24:58 | 究極というものの可能性
◎電気的コントロールの可能性

人の額と胸または腕に電極を当てて、肉体の静電気の電位差(電圧)を測ることができるが、ハロルド・サクストン・バー教授以来の研究で以下のようなことが知られている。

1.幼児や思春期前の子供は、電位が負の方向にあることが多い。成長とともに電位は上昇を続け(正電位)、成熟がピークに達したところ(20代)で電位上昇はとまり、老化の始まりとともに電位が下降へ向かい、負電位になる人もいる。

2.睡眠中や催眠中は電位の低下が見られる。ただし、催眠では、脳波の変化はなくなる。またバルビタールを用いた睡眠では、電位の変動は小さいが、脳波は大きく変化する。

3.心身の動揺は電位の変化となって現れる。
ハイで高揚した状態だと電圧は上がり、落ち込んだ状態だと電圧は下がる。

4.平素電圧が高い人は催眠にかかりにくい。また興奮している人は催眠にかかりにくい。

5.精神分裂病患者の電位には極端な変動が見られる。
発揚した状態では、電位の最高値が見られる。電位が一貫して低下傾向にある時や、低下が始まる前に症状の軽減が見られることが多い。正負の極性も転換しているようだ。
これに対して疲弊した状態や、慢性的に無気力な患者は電位が低い。
(参考:生命場の科学/ハロルド・サクストン・バー/日本教文社)

これらのことから、肉体を手術したり、薬剤でいじったり、変な食生活を続けたりすることで、肉体の電気場が変容し、精神状態にも不安定さをもたらすこともあるのでは?

ニートって電位が低いのでは?

最近のマイナスイオン放出家電って、健康にいいっていうが、善し悪しはわからないが精神状態にも影響を与えるのでは?

最近除細動機の設置が増加しているが、あれって高電圧みたいだから、精神状態に与える影響があるのでは?

肉体の電位を外的刺激でコントロールして安定した電位に保つことで精神的安定を保つことができるのでは?(マッド・サイエンス的発想ですね)

バー教授は、将来病気の治療は、肉体の症状が現れる前に、電気的処置で行う治療もあり得ると予想しているが、肉体の静電気って、半物質であるエーテル体の属性でもあると思うが、その電気的処置とは、エーテル体に作用すると言われる気功と同じような作用では?

と、この分野は若くて、まだ研究が深まっていないみたいなので、いろいろと想像を広げてしまうのであった。

それと、植物の電気場(L-フィールド)の研究において、遺伝子が一つ変わるだけで、子の代に電圧パターンが、著しく変化する事実が発見された。遺伝子操作は想像以上に重大な結果を引き起こす可能性がありそうだ。


    1日1善。1日1クリ。


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身心脱落な愛

2007-09-21 05:32:20 | 只管打坐
◎測りしれないほど神聖なもの

『クリシュナ・ムルティ「そして愛とは、基本的に<ミー>に対して死ぬことなのです。思考が、これは愛だと言ったもの、セックスや快楽は愛ではないのです。おわかりですか。」

アンダーソン(サンディエゴ大学教授)「うーん」

クリシュナ・ムルティ「時間に対して死ぬこと、それが愛なのです。ですから、生きることと、愛することと、そして死とは一体なのであり、区別したり、分離したりできないのです。それらは時間の領域にはなく、完全に生き、動き、そして不可分なのであり、そしてそれが不死なのです。」』
(生の全変容/クリシュナ・ムルティ+A.W.アンダーソン/春秋社から引用)

この愛が身心脱落の愛。身心脱落では、ミー=私がないが、その状態は時間がない世界である。時間がない世界とは、自分が死ぬことであり、自分が死んで初めて本当の愛を知る。

道元のチャイニーズもどきの言葉(当時の禅は中国語をベースにやっていたから仕方のないところがある。)では、「非思量底」や「真如」などと表現されるので、漢文になじみが薄い最近の人には雰囲気が掴みにくいが、今の言葉ならば、こんな感じだと思う。

クリシュナ・ムルティは、別の言い方で身心脱落を語っている。

精神が完全に静まるとき、測り知れないもの、人間の言葉ではない「永遠なもの」、を言葉の深い意味における沈黙がそのドアを開く。
『クリシュナ・ムルティ「そのように神聖な精神な精神のみが、最高の秘密、一切の生なるものの本質、すなわち美を見るのです。おわかりですか。」

アンダーソン「ええ」

クリシュナ・ムルティ「神は人間が発明したものではありません。それは、切望や挫折から想像でこしらえたものではないのです。精神それ自体が神聖になるとき、それは測りしれないほど神聖なものへのドアを開くのです。それが宗教です。

そしてそれが日常生活、私への話し方、人々への接し方、行動、態度などのすべてを左右するのです。それが宗教的な人生です。もしそれが存在しなければ、如何に賢明であろうと、如何に知的であろうと諸々の禍いを招いてしまうのです。」』
(生の全変容/クリシュナ・ムルティ+A.W.アンダーソン/春秋社から引用)

まだ測り知れないほど神聖なものが存在しない私にとっては、耳に痛い言葉である。

クリシュナ・ムルティは、最初からその神聖なものは自分にあったし、瞑想はそれと不可分なものであると語るが、身心脱落は彼にきっと起こったに相違ないし、起こってから「最初からその神聖なものは自分にあった」と語っているはず。

どのようにそれは起こったのか、どのような坐法だったのか、師匠(マスター)は誰だったのか、そういったものが明かされないとクリシュナ・ムルティの秘密はわからない。


    1日1善。1日1クリ。

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坐法の右と左

2007-09-20 07:16:00 | 究極というものの可能性
◎唐代のインド僧と天台智

クンダリーニ・ヨーガのキーワードは、上昇。只管打坐のキーワードは(身心)脱落。

1.脚の組み方
道元の普勧坐禅儀や、天台智によると、足の組み方は、半跏趺坐では、左の脚を右の太腿の上に置く。また結跏趺坐では、まず右脚を左の腿の上に置き、次に左脚を右の腿の上に置く。

ところが、唐代のインド僧の仏陀波利と善無畏(虚空蔵求聞持法を漢訳した人)は,これと左右逆の説を唱えている。

2.手の組み方
天台智は、左手を右手の上に置くとするが、またも善無畏などのインド僧は、左右逆で、右手を左手の上に置くとする。

これは、単なる想像に過ぎないが、エーテル体上のチャクラ、アストラル体上のチャクラなどを意識した神秘生理学を前提とした「上昇」に適した手脚の組み方はどちらかと言えば、おそらくはインド僧の唱える説であろう。

これに対して、道元や天台智の唱えるそれは、頓悟という一気に本当の自分に出会うために適した坐り方なのではないか。

心臓が左にあるように人間の身体の左右には絶対的なところがある。絶対に至る冥想メソッドとしては、左右違った坐法では期待する結果は得られにくいのではないか。


    1日1善。1日1クリ。

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空の体験

2007-09-19 04:32:53 | クンダリーニ・ヨーガ
◎ゾクチェンのカリキュラム

チベット密教のゾクチェンでは、弟子が一番取り組みやすい修行は、静寂に入って空性の体験をすること。

普通の人は大きな緊張を抱え、きわめて混乱し、興奮している。 
そこで、意識を集中することによりリラックスして、静寂な境地にはいる。これが静寂の修行。ナムカイ・ノルブによると、静寂な境地に入れば空性(どんな現象にも実体はないということ)以外何もないので、空性の境地を見出すことができる。

空性に留まるうちに、思考や運動や光明の顕れを区別して見極めることができるようになる。

そして最後は、より具体的な肉体に結びついた楽の体験。楽の体験とは、純粋な喜と楽とを生ずる四禅の初禅のことだと思う。

空の体験をするのが入門の最初の前段で、その最後が、四禅の初禅とは、厳しく高度な目標の高いカリキュラムであるという印象を受ける。

ナムカイ・ノルブは、空性の体験はあくまで体験にすぎないという。つまり一切は空であると考えその境地に留まることは、体験する自分が残っている体験にすぎないと言っているように読める。

これに対し、三昧こそが、自己本来の境地にあると語るが、そこ三昧には体験する自分がないということを暗に表明しているように思う。

またナムカイ・ノルブは、「悟り」という言葉を、修行上での進化や進歩という軽い意味で使っているようだ。
(参考:叡智の鏡/ナムカイ・ノルブ/大法輪閣)


    1日1善。1日1クリ。


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虹の身体

2007-09-18 04:49:55 | クンダリーニ・ヨーガ
◎まず死から

チベット密教の虹の身体の作り方。
1.まずその修行者は死ぬ

2.肉体が五つの原質(地・水・火・風・空)の真の本性の中に溶け入っていく

3.この結果数日~一週間たつと、肉体は、その最も不浄な部分である髪の毛や爪を残し消える。髪の毛と爪だけになるまでの途中では、肉体は縮んでしまうことが知られている。

4.しかし肉体は消えても、その形や特徴は五色の光(五つの原質)の中で保たれる。これを虹と見る。

これは、我が意志のままに肉体を虚空に溶け込ませる技術を持ったという証明なのだろうが、その人がどんな悟りにあるのかはさっぱりわからない。技術的にすぐれていることはわかるが、それが単なる達観だったのか、本当の至福にあったのかわからないのだ。

髪の毛も残さなかった禅僧普化は、ひたすらすごいのひとこと。


    1日1善。1日1クリ。

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本気で取り組むことが少なくなった人々

2007-09-17 05:54:38 | マインド・コントロール
◎最近の我等の気質と対策

このブログでは、冥想をすることをお勧めしているのだが、その大前提となる人生の取り組み方が真剣である人が少ないことに気がついて唖然とした。というのは、うつをめぐる最近の人の気質はこんな状態であることを知ったからだ。

1.うつ病の生涯有病率(一生のうちにその病気になる可能性)は、13%。7~8人に一人と周囲にかならずうつ病者がいる勘定。

2.同情とか、素直に他人のことを本当にかわいそうに思う共感ができない人が多い。

3.ちょっとガマンが必要とか、もう少し自分の力で何とかできると思えるうつ病者が多い。

4.他者に配慮したり、協調するところが少なく、逆に相手が少しでも落ち度があったら、クレームをつけることが自立とか自己責任だと考えている、自己愛的な人が多い。

5.最近のうつ病者は、自分が自覚している特徴として、「他人に気を使いすぎるところがある。」「人に優しすぎることころがある」が必ず挙がる。これは他者を批判しがちな傾向と心理的には表裏一体の関係にあり、非常に屈折したナイーブさとなる。

6.生きる中で、どこにも自分の本当の居場所がないという感じを持つ人が多い。

7.うつ病の治癒に向けては、その人の優越感や特権意識をくすぐりながら、決断を迫っていくのだが、うつ病の人は他の人もそのように悩んでいると同情すると、自分だけは違うと言って反発される。
だからと言って、「あなたは怠けているからダメだ」とか「もっとちゃんと自己決定しなさい」というのは自殺の引き金になりかねないので危険だし、決断を迫るタイミングも、
言い方の加減も難しい。

8.昔は、職人気質とか、官僚など、その職業をやっていることから来る使命感があるものだったが、今はその使命感がない人がいる。そこを治癒の手がかりとしにくい。

なんでこんな人間が増えてしまったのだろうか。一言で言えば、知性が跛行的に発達しすぎて、生きる気力にやや欠けた人が増えたのだろう。

こうした人の中では、自分探しが非常に歓迎される。

つまり本当の私とは、何かを知りたいとか、自分が納得するような自分を理解する手段や場所や機会が極めて少ない。たとえばヒーリング・スペースやハロー・ワークなんかで、一緒に本当の自分を見つけるお手伝いをしてくれる人が喜ばれている。

そんな場所で自分の状態をぴったり指し示す表現・言葉が見つかると、初めて腑に落ちる。そういう表現・言葉が見つかるととりあえず安心するが根本的な解決ではない。

昔は地域社会とか大家族の中で、集団的自我が安定化していたが、いつのまにか集団的な自我が大人になっても供給されない時代となったが、日本人の伝統的な心性としては、他者の眼を気にしながら人格形成するところが残っているということだろう。

精神病の治療マニュアルも大多数の患者の病気はこれで治るというのがマニュアル。マニュアル化は、本気で何かをやるということを避けること。

医者も気合を入れて本気ですべての患者に取り組むということではなくて、マニュアルに書かれた技術を提供するだけ。患者は患者で本気で自分を知って病に取り組もうとしない。(勿論そうでない方もいらっしゃいます)

このようにそもそも今の社会は何事も本気でやることを避けるような「システム」や「マニュアル」万能であることが、そもそもの落とし穴。これでは誰も物事に本気で取り組むことなど、疲れるし、バカバカしいのでやりはしない。

これでは、やみくもに冥想を勧めても、冥想などしないわけだ。今の時代はまず自分探しか。それから冥想なのか。これでは未来に夢も希望もないわけだ。


    1日1善。1日1クリ。


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やってはならないこと

2007-09-16 06:31:43 | 時代のおわり
◎明治維新と薩長土肥

安倍首相は、長州閥の末裔。明治維新以来の薩長土肥、最近ではその中でも特に、政治の長州、経済の土佐・三菱(三菱のマークは土佐藩主山内家の家紋と岩崎家の家紋の合体デフォルメ。そういえば去年山内一豊の妻の大河ドラマもやってた。)の勢力が強力である。

さて碩学内藤湖南先生が、明治維新前後の人の評価について、維新後50年も経つのにきちんと再評価されていないことを大正の末年に嘆いた一文がある。これは、特に反薩長の立場に立った人達の評価が不当に低いことを嘆いた内容のものである。その中で、

久邇宮朝彦親王(1824-1891年)は孝明天皇の信任の非常に篤かった方で、孝明天皇は何もかもご相談なさったほどの方である。

孝明天皇が崩御されて後、男爵中島錫胤が、同親王謀叛の文書をもって親王の尋問にやってきた。親王は、当然ながら、謀叛は知らぬことだとおっしゃられた。その文書には、親王の手形が押してあるということで、その手形に親王が手を当ててみると、なんとその手形は親王の手より全然大きい手形であった。そこで中島男爵はそのまま引き返した。

これにもかかわらず、謀叛の嫌疑は晴れず、何の理由もなく久邇宮朝彦親王は広島に遷された。

その後赦免ということで広島から東京に戻られた時も、非常に困窮されて土佐の山内容堂侯より500両の金を借りて京都にお着きになったほどであった由。
(参考:内藤湖南全集第9巻/筑摩書房)

天皇側近の宮家を無実の罪に落とすほど、本来やってはいけない激烈な手段を明治維新の薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)はやってきたということなのだろう。安倍首相のドタキャン辞任も本来やってはならないことだけど、その伝統を踏んだのか。

維新前後のこのような真相が明らかになっていないのは、いまだに薩長土肥が隠然たる力をもっているからだろう。中国の歴史でも前王朝がひっくりかえってから初めて前王朝の真相が明らかになるもの。


    1日1善。1日1クリ。

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