アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

廃仏毀釈とお寺の衰退

2007-07-31 06:42:58 | 時代のおわり
◎何でもありの時代

明治新政府は、かなり強引なことをやった。

明治天皇が、明治元年12月11日に武蔵の国一の宮である大宮の氷川神社に御親拝になった際に、祭政一致之道に復するとの詔が出されたのを手初めとして、事実上の廃仏毀釈は始まった。

また明治元年3月、全国の神社にいた仏教の僧侶をすべて還俗させて、神仏習合をやめて神仏分離を断行。

同月、仏像をご神体とする神社をすべて改めさせる神仏分離令を公布。これが廃仏毀釈運動にまで発展したとされる。

一方、寺の領地を新政府がどんどん召し上げる上知政策をとったために、寺の財政はたちまち逼迫し、江戸末期に全国に約9万寺あったのが、明治維新では、約2万寺が廃寺となったと言われる。

薩摩藩の如きは、全寺院の廃絶、僧侶の還俗を命じた。この薩摩の発想を追えば、廃仏毀釈の発想の拠って出てきたところを探ることができると思う。

広大な寺域を有していた京都東山の方広寺は寺域の南半分を政府に召し上げられた上に、大阪の陣の原因となった梵鐘のある鐘楼をあっけなくつぶしてしまった。ところがその時豊臣家の怨念のこもった大梵鐘(82トンもある)は簡単につぶすことができず、明治十七年まで野ざらしにされていたという話がある。

廃仏毀釈は、揺り戻しでまもなく治まったとはいえ、この前後の仏教側の人的物的被害は想像以上のものがあった。


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大衆に智など必要ない

2007-07-30 05:06:12 | 老子
◎老子第65章 古之善為道者

『古のよく道を為(おさ)めた人は、人民を聡明にしたのではなく、反対に彼らを愚にしようとしたのである。

人民の治め難いのは、その智が多いためである。だから智をもって国を治めるのは、国を賊(そこ)ねるものである。

智をもってせずに国を治めるのは、国を幸いするものである。この両方を知るということも、亦(また)国を治める方式である。

常に方式を知る。これが玄のもつところの徳である。玄のもつところの徳は真に深い、又真に遠い。

それは一見真理に反しているようである。がしかしそれでいて長く大きな眼で見るならば、自然の大道に順っているのである。』

無為に依れば、人民に智など必要はない。一見これは真理に反しているようだが、実は大道に沿っているものであるということ。

現代社会は、知的人類が横行する時代であるから、治めがたい社会そのものである。かの毛沢東の標榜した社会の在り方というものが、この道をイメージの根底に抱えた「愚民政策」であったように思う。

というのは、毛沢東の政治は、文化大革命やその末期の江青ら四人組の乱脈により評判を落としたが、それは単なる毛沢東個人の奪権闘争であったという評価が多いのであるが、その農業を基本とした政策と、知的とはいえない人が国民の大半である大国向きの政治原則は、あまりにも効率性や個人の人権というものを無視した発想であるところがあるので、その根本は意外にもこのあたり(玄)にあったのかもしれないと感ずるところがあるからである。


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宝の噂

2007-07-29 05:59:56 | マインド・コントロール
◎一見役にたたないもの

今どきの人にとっては、知的な説明をいくらしても、本当の満足、本当の安心、本当の納得につながらないことは、いわば常識となっている。

だからといって何も語ることをしなければ、何が本質的な問題であるかのヒントに出会う人は、とても少ない確率でしか出現しないことになる。

知性が役に立たないという説明として、禅語録に出てくるような、禅とは何かという質問に対して、履いていた靴を頭の上に載せて答えるというような漫才みたいなやり方が、今のハイセンスでファッショナブルな人達に受けるとは到底思えない。

知的説明は役に立ちはしない。

真理は言葉で説明することはできず、人から人へ伝達することはできず、それは人間に属するものではない。

真理に出会うには何か冥想をしないと出会えないようだ。これが宝の噂。

バグワンに言わせると、昔は弟子が肉体・精神の準備万端が整ったところで、師匠が秘伝として冥想のやり方を教えたものだそうだ。

これだけの前提条件ならば、昔の素直な性格で余計な情報に惑わされにくい純朴な精神構造の人は、宝箱の鍵である冥想のやり方を師匠が与えてくれるまで何年も何生も待った

今は更に追加の前提条件がある。これは今の人の精神構造がより功利的に変わったために追加されたものである側面であるように思う。

冥想をしても金が儲からない。生活のたしにはならない。
冥想をしても真理という宝にたどりつけるとは限らない。
適当な師匠がいない、見つからない。
冥想をする暇がない、場所がない。

だからあなたは冥想をすることなどに関心を持たないのだ。

でも少しでもこの世の、自分の、あらゆる困難や苦悩や、やりきれなさの原因を考えたり感じたりすることがあれば、それらの問題をきちんと解決してくれるのは、金ではない別のものであることに気がつくことがあるはずなのだが。


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ゴールデン・トライアングル(金三角)-2

2007-07-28 06:13:24 | 時代のおわり
◎富と精神文化

もともとゴールデン・トライアングル(金三角)は、ビルマの少数民族のシャン族の居住地である。シャン族は山岳民族で、もともとアルコールや火薬、農機具や日用品を手に入れるためにやむなくケシ=アヘンの栽培を行っていた。

当地のアヘンの生産量は1950年代には20トン前後だったが、麻薬王クンサーの統治した1980年代には、年間2500トンのピークを迎えたようだ。そして1992年の中国人自衛隊のタイ国政府に対する武装解除、1995年のクンサーのビルマ政府に対する投降を経て、1990年代末には当地のアヘン生産量は激減したようだ。これと入れ代わるようにして、アフガニスタンが、アヘンの新たな生産地として胎頭していく。

山岳は、主食となる作物が育ちにくいので往々にして、こうした作物栽培に手をそめることになるのだと思うが、その栽培によっても当地は決して経済的に豊かになることはなかった。

安定的で裕福な貴族階級が数十年でも維持されれば、当地独特の精神文化が花開く可能性があったと思う。ところが、少数の軍事集団が入れ代わり立ち代わりに狭い山岳地域で覇を競う状態が1940年代から約50年間にわたって続いたために、そのような文化の醸成はなかった。

この点で同じような山岳地域であるネパールやチベットとは全く様相を異にする。チベットで言えばパドマ・サンバヴァの入国というものが、いかにその後のチベットの精神性を誘導していったかは想像するに余りある。チベットは20世紀に至り、結局亡国の民となったが、その観想法を主体としたクンダリーニ・ヨーガの精華を持って民族の誇りを未だに失わないでいることは、パドマ・サンバヴァの遺徳と見てよいだろう。

富の蓄積が必ずしも精神文化の母胎となるわけではないが、かの麻薬王クンサーですら、トタン葺きの粗末な家に住んでいたことは間違いないようなので、とてもではないが、金三角では、それなりの文化の香りすらない状態のままこの50年を経過してきたようだ。

クンサーは麻薬王とされ、悪の権化みたいにいわれるが、妻も決して美人ではない上に、一人しかおらず、蓄財に励むこともなく、質素な暮らしを続けてきた。その修行者のような禁欲的な生活のモチベーションは、金三角全体の貧しい人々の生活を守ることにあったかに見える。ひとつの無私な生き方なのではなかったろうか。


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ゴールデン・トライアングル(金三角)

2007-07-27 06:03:23 | 時代のおわり
◎ディープなアジア

ゴールデン・トライアングルは、タイ、ミャンマー、ラオスの3国の国境にまたがる辺境である。すぐ近くの中国雲南省には、何でも明朝滅亡時に明の王族の末裔が逃れてきた漢民族だけの集落まであるといういう。このあたりは三国志で諸葛孔明が孟獲を七度攻めた付近で、相当に南蛮なところである。

中国の共産党が雲南省の国民党の掃討作戦をやっている時に、共産党に追われて中国国境を脱出し、ビルマ領内に国民党軍が勢力地を築いたのが、国民党の金三角とのつながりの初め。日本のインパール作戦の戦火もさめやらぬうちに、中国国民党の残党がビルマに入ったのだ。

独立したばかりのビルマ軍は、この国民党という招かれざる客を何度か掃討しようとしたが、最初のうちは、米軍が兵站の供与を国民党に秘密裏に行っていたりして、なかなかビルマ軍が国民党の残党を駆逐することができなかった。当時はまだ、蒋介石の国民党が雲南からの大陸反攻・奪取を現実のものとして考えていた時期。

朝鮮戦争の終結により国際情勢が変わったことにより、米軍のゴールデン・トライアングルの国民党残党への支援もいつかなくなり、ビルマの国際社会を通じての台湾への非難もあり、台湾は、国民党指揮下の軍を撤退させ、軍人も基本的には台湾へ引き上げた。

その結果、現地に地縁血縁のある中国系兵士が撤退せずに残り、これが、アヘン交易で生活をするためだけの小軍閥として現地に弱小ながら勢力が残った。こうした勢力は一旦ビルマ軍の掃討を受け、壊滅したかに見えたが、内戦のラオス領内(1960年頃)に撤退することで、息を吹き返し勢力を建て直すことに成功し、再び金三角に入って行った。

これが後に麻薬王とされる旧国民党の残党であるクンサーの流れとなった。

台湾出身の有名女性歌手麗君(テレサ・テン)が、タイの金三角に近い方の都市チェンマイで、1995年謎の死を遂げたことになっているが、台湾・国民党がこんなに深く継続的に金三角とかかわっているのはとても意外なことだった。アジアも深い。
(参考:ゴールデン・トライアングル秘史/賢/NHK出版)


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八瀬の鬼

2007-07-26 05:50:56 | 時代のおわり
◎アポロン型社会

京都北部の八瀬は、比叡山に登るケーブルカーの駅があるので、車で走っていると「ああ、ここが八瀬か」と気付くものである。八瀬は、昭和天皇の大喪の礼の時に天皇の霊柩を担ぐ人として代々奉仕してきたと報道されて、これは変わった人達がいるものだと思った人も多かったに相違ない。

八瀬の人は、ざんばら髪であったことから、八瀬の童子と呼ばれ、これは、身分制のきつかった江戸時代においては、月代をそることを許されなかったこの髪形は被征服民の末裔である特徴と考えられる。

また八瀬の人は、自ら鬼の子孫であることを公言(柳田国男/鬼の子孫)してもおり、鬼とは被征服民のなれの果てであることをも暗示している。

そもそも八瀬という名の起こりは、壬申の乱で背中に矢傷を負った天武天皇が八瀬の釜風呂で治療をしたので矢背という説もあるが、明治になってから矢背を八瀬という名に戻しているところを見ると八瀬という名の方が古いのではないかと思う。

八瀬は、その名のとおり八の民。八の民は被征服民の末裔であるという説はこれら八瀬にまつわる様々な情報で心証を得ることができる。

名古屋全体が八の町であったり、秀吉が八の者であるというのは、意味深長である。

四民平等で、日本の外国人が百万人となった今の時代に八の者と言っても詮なく、身分差別は江戸以前に社会制度としてあったに相違ないが、法然が八瀬黒谷に30年も住していたように、アウトサイダーをアウトサイダーとして包摂して生活させる懐の深い枠組のあったことは評価しても良いのではないか。

今はそうした社会の懐の深いところを虱(しらみ)つぶしになくしていこうとしている時代。その結果精神病者、発狂者が増えるのは当然。

そうした動きとは、禁煙を公然と進めていく動きであったり、暴力団新法だったりするのだが、そうしたバラバラの規制を導入するときの理屈はそれなりにもっともらしいものだが、全体として見れば、社会を息苦しいほどに管理を進めていくものであって、たとえば若いときに正常であった人も、中高年になれば、かなりの確率で鬱病に陥らせるアブナイ社会を作っていく側面があるように思う。

これをアポロン型文明、表層意識偏重型文明社会のひとつの巨大潮流と見る。


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玉桂寺の阿弥陀像の謎

2007-07-25 05:53:07 | マントラ禅(冥想法7)
◎寄進者リスト

信楽の玉桂寺の阿弥陀仏像を昭和49年に解体修理したところ、胎内から法然の直弟子の源智が法然一周忌のために寄進をした人々のリスト・交名状が出てきた。

交名状は、5万人以上の名が書かれており、後白河法皇(法然のシンパ)、後鳥羽上皇、平清盛、源頼朝などの著名人の他、「エソ」と呼ばれる民の名があるという。エソは被差別民のことではあるまいか。

これは、法然が好んで黒谷、広谷、大谷など谷に住んでいたことと無縁ではあるまい。被差別民は農耕が困難な土地に住まわせられていたようであるから、谷に住めば被差別民との接触もあったろう。衆生すべての済度を願うのならば、被差別民の済度も無視してとおるわけにはいかない。

新興宗教に宗旨替をするというのは、葬祭の儀式を歴代のご先祖様の様式と変えてしまうことだから、恒産ある庶民にとっては今でも簡単なこととは思えない。従ってより生活の苦しい被差別民の方が西方浄土への往生ニーズが高く、法然にとっては、平民に対するより布教が容易だったということはありそうなことである。

法然も75歳で土佐に流罪となっている。いつの時代もカルト・新興宗教は叩かれている。

今の時代は、組織宗教の弊害も十分に見える時代なので、殊更に組織宗教(カルトも組織宗教)を遍歴して自分に合った宗派を捜す時代ではないのではないだろうか。人々に情報は十分に与えられているから、ただ坐って冥想をする時代のように見える。


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法然のトラウマ

2007-07-24 06:44:22 | マントラ禅(冥想法7)
◎両親の遭難

法然は、若くして岡山県久米の故郷を出て、比叡山の僧となった。法然にも父母の死にまつわるトラウマがある。

法然は10歳の時に母秦氏(はたうじ)の兄弟観覚の下で既に僧となっていたが、極めて優秀であったので、15歳の時比叡山で学ばせようといういうことになった。

法然が両親に別れを告げに行ったところ、父漆間時国(うるまのときくに)は、「私は、まもなく殺されることになるだろう。殺されたら私の菩提を弔ってくれ」と思いがけないことを語った。

そして母は、これが比叡山に登る法然との今生の別れとなることを予感し、都に発つ法然をしばらく送って行き、歌を詠んだ。

かたみとてはかなき藤のとどめてし、この別れさえ又いかにせん
(名残の藤は咲き残っているが、この別れだけはどうすることもできない)

親が子に対する思いやりをかなぐり棄てて、殺されるというようなことを実子法然に語るのはよほど切羽つまっていたのだろう。法然が比叡山に登ると、まもなく父時国が夜討ちに遇って殺害されたという知らせがやってきた。母秦氏はこの後記録に出て来ないので、父時国とともに殺害された可能性があるとされる。

父が殺害されて絶望した法然は、修行僧をやめて隠遁しようとしたが、師匠叡空に諭されて叡山に留まった。

南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間でも救われるとは、阿弥陀仏に出会ったこともない人は、いわば悪人であるので、ひたすら(専修)念仏するしか救済の方法はないというのが法然の考え方である。専修念仏の中にアナハタ・チャクラが開顕し、もはや人間の領分ではない愛に出会うことを救済と見たのだろう。

法然が、それを求めるモチベーションとしては、15歳の父母の遭難というトラウマがあったと想像するのはさほど難しいことではない。岡山県久米の誕生寺では、毎年4月に父時国と母秦氏の追恩供養が行われ、両親を極楽浄土に迎えるセレモニーが催されるという。親鸞もこのようなことをしないので、これは法然のPTSDが両親の死にあった反証と考えられる。

昔はこういうことがある人でないと、本当の愛に向かって修行を突き進むことができなかったのだろう。今は違う。


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廃仏毀釈と僧の妻帯

2007-07-23 05:03:33 | 時代のおわり
◎仏教の骨抜き

梅原猛は、一連の京都の寺院遊行を始めて、明治維新の廃仏毀釈によってどれほど多くの仏教寺院が破壊され、仏像や仏画、仏具が破壊されたか量り知れないものがあることをつくづくと感じさせられたと述べている。(参考:京都発見 五/梅原猛/新潮社)

この結果大英博物館やボストン美術館で、おびただしい数の日本の仏教芸術を見ることになったり、ヨーロッパやアルゼンチンの骨董市場に大量に日本の仏像仏画が出回ることになった。

仏教輸入で、神仏習合は行われこそすれ、それは、廃神道毀天照大神というような一方的なものではなく、平安時代以来一貫して、いわば仏教は神道との共存共栄を図って来たものであった。

日本の国土で、仏教寺院の破壊や、仏像の滅却が組織的に行われたのは、安土桃山時代に西国のキリシタン大名の支配地でそれが行われた以外は、明治維新の廃仏毀釈だけである。これをもってしても明治維新の新政府の本質は、実はキリシタン大名のようなキリスト教をもって仏教を破却しようとする勢力であったのではないかと疑われるところがある。

梅原猛は、もう一つ明治新政府が仕掛けた僧侶の妻帯が仏教衰微政策だと指摘する。仏教で妻帯を認めたのは、親鸞の浄土真宗だけであったが、明治新政府により、妻帯を認められるや各宗派ともそれを受け入れた。これにより、僧でありながら、妻を娶り子をなして、果ては自坊を子に譲り、継承するという俗人と変わりないライフスタイルを送っている。

これにより寺や坊は俗世を避けた出家者の居場所ではなく、俗世そのものになってしまった。出家という、不条理の実感に生きる者にとって、財産も家族も問題にはならないので、日本の真実の求道者・出家者にとって仏教寺院は、明治以降ほとんど仏教道場たる資格を失ったと疑われるところがあるように思う。

つまり梅原猛も指摘するように仏教堕落の大きな仕掛けのひとつが僧の妻帯であったことは間違いないと思う。梅原猛は、それを指摘することにより、暗に僧自身の肉食妻帯への猛省を促すに留まっているが、これにより仏教の最も仏教らしい部分が檀家の人々にもあまり感じられなくなり、昨今の無宗教、無神論が当たり前な日本人ができあがった素地ともなった影響は非常に大きいものがある。

仏教は精神的救いを生きる宗教だったはずだが。


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心の底から満足できない

2007-07-22 05:54:16 | 現代冥想の到達点
◎決定的根拠

エスニックなグルメ、ジャパネスクなグルメ、アヴァンギャルドでキュートなファッション、魅惑的な異性との出会いとメイク・ラブ、異国の旅先で感じるほのかなエキゾチズムなど人の心を惹きつけるものは、この情報あふれる時代で、価値観の多様化した今でも数多いものだ。

何があっても心の底から満足しえないことを知っている21世紀初頭の日本人にとって、本当の満足へのメソッドとはこのようなものか。

『決定的根拠

いかなる根拠もないということが、
これそのものなのだ。

理屈と保証がないからこそ
これは久遠の安楽なのだ。

喜びもなく、苦しみもないからこそ、
あなたは永遠の平安を生きて死ぬ

そして、
あなたは喜びを求めて飛び続ける。

ニルヴァーナという妄想
エクスタシーというマーヤ-
それを欲すること-----
これが人間という戯れの正体だ!

何もかもなし!
ただただ、これの戯れでない戯れ・・・』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

これは人間にとって最後に求めるものが涅槃、タオ、アセンションであることを無意識の前提であることを暴いて見せている。そして、それには何の理屈も保証もない。

ただ最後は坐って、クンダリーニ・ヨーガ型か只管打坐型の冥想を行うことで、この詩を書いた同じ世界(実感ではない)にいることができるはず。

けれどもこの詩の外見は、錬金術文献のような、とりつくしまのない二律背反が並べてある姿。

何の理屈も何の保証もないとは、冥想しさえすれば、だれでも窮極のエクスタシーたる実在(ニルヴァーナ)に出会えたり、実在であることを体感したりすることは保証されないし、そうであることの理論的裏付けなどありはしないということ。

それでも日々冥想を!


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下上賀茂神社

2007-07-21 06:41:56 | 冥想アヴァンギャルド
◎斎王と抵抗勢力

天皇が我が皇女を神社に差し出して仕えさせる斎王としたのは、伊勢神宮と下上賀茂神社だけだという。

山城国風土記逸文によれば、どうも賀茂の神は、神武天皇の東征に先立って、日向の高千穂の峰、大和の葛木、山城の国を露払いして、熊野から大和に出ようとしている神武天皇の水先案内をしたようだ。

この功績が累代の天皇が皇女を仕えさせるほどに評価されていたということだろう。

つまり賀茂の神は、天皇家の日本統一創業の功臣というべきものであろう。ただ単に大和に出るだけなら簡単だが、日向と大和の葛木には当時の抵抗勢力ないし土豪が盤踞しており、それとの調整を賀茂の神がまず行って、然る後に神武天皇が大和入りしたというようなものなのではないだろうか。

葛木山は修験道の開祖役行者の舞台。役行者が天皇家の力により島流しにされた事件があり、時代が下ったその当時にあっても、葛木山には、京都の天皇と対峙する世俗権力の基盤があったのかもしれない。

蛇足だが、日向にしろ、葛木山にしろ、山を政治権力の中心に据えるためには、峰と峰との交通を苦にしない交通機関の存在が一般的であったこともまた想像される。それがなければ、権力の中心地をわざわざ不便な山中に置くはずがない。


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十念寺の真阿上人

2007-07-20 06:02:01 | マントラ禅(冥想法7)
◎ある臨死体験

京都市伏見区下鳥羽の鴨川のほとりは、15世紀に真阿上人(後亀山天皇の皇子)がその屍を水中に沈められ、その遺志により、うろくず(魚)の餌にされた場所であり、長く殺生禁断の地とされてきた。この側にあるのが一念寺。

さて真阿上人は、阿弥陀仏の夢告を受け、法名の真阿弥陀仏を授けられたので、真阿と号したという。真阿上人は、足利幕府六代将軍足利義教の帰依厚く、十念(南無阿弥陀仏を十回唱える作法)を授けたので、義教は、これに感じて十念寺(寺町通今出川上ル鶴山町)を建立した。

真阿上人の力量を保証する話として、相国寺の心了西堂の臨死体験の話がある。相国寺の心了西堂は、病になり、一旦死去したが、三日後に蘇って言うには、

死の世界を進むと、三間四面の金堂があり、中を覗いてみると、弥陀を本尊とするようであるが、中央の阿弥陀仏が見えない。すると老僧が突然やってきて、この本尊は真阿であるが、まだ寿命がやってきていないので、本尊の阿弥陀仏が空席となっているのだと説明した。

その時近くに芝の庵が目にとまり、あれは何かと老僧に尋ねると、お前の庵だという。
心了西堂は憤然として、なぜ私が芝の庵で、真阿が三間四面の金堂なのか、私は真阿に劣るのかと訊くと老僧は、お前の禅が劣っているわけではなく、成就する人間が非常に少ないということだと説明した。

この老僧は実は六道能化の地蔵尊であった。
(参考:京都発見2/路地遊行/梅原猛/新潮社)

心了西堂が、禅の一隻眼を成就していたならば、他人の住処の美麗をうらやむはずはなく、この説話は、真阿にはくをつける目的で、明らかに一般大衆むけに作られたものであることがわかる。


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生の側から極める

2007-07-19 06:00:13 | 老子
◎老子第64章 其安易持

『その安定しているものは、これを維持しやすく、未だ兆(きざ)さない先に、これを処分することはなし易い。その脆いものは、溶け易く、その微なものは、散らし易い。

未だあらわれないうちに、これを為し、未だ乱れない先にこれを治める。一抱えもあるような大木でも、毛筋ほどの芽から成長したのであり、九層の台閣も一箕の土盛りから起こったのであり、千里の行も一歩一歩から始まるのである。

無のはたらきを無視して、人為によってこれを為そうとするものは、必ず道を敗り、我執するものは、道を失う。これだから聖人は、人為を為さない。だから敗れることがない。我執も持たない。だから失うことがない。

人々がものを為しているのを見るのに、何時でも九分どおりできたところで、最後に失敗している。終わりを慎むこと、はじめの如くであったならば、決して失敗することはないのだ。だから聖人は、欲求を持たないということを欲求し、平凡ということを愛して珍奇なものというものを貴ばない。

政治する方法というような方法を学ばないことを学んで、普通人民の生活に復り、そして万物の自然を輔(たす)けて敢えて人為を為さない。』

これを読むと、どうすれば、人為をなさないようにすることができるか、どうすれば、欲求を持たないということを欲求するようになれるのか、などについては何も書いていない。

その方法を実践できさえすれば、物事は必ず完遂できるし、また一度勝ち得た安定した状態は、それを脅かす出来事がまだ小さなうちにつぶすことができるので、その状態を永続させることができる。

ところがこうした状態を維持しようという発想の根底に利己・我執がある限りそれはうまくいかないと謂っているので、これは既に利己を完全に離れた状態にあることが要求されていることがわかる。

これによってこの章は、行為する時には、無私である精神状態が必要とされ、それを実現するある特殊な冥想状態にあることが想定されていることがわかる。その冥想状態とは少なくとも無為(タオ)を生きる状態である。

老子は、これだけ生の側について集中的に書いているところをみると、只管打坐型の生の側から生を極めるタイプの冥想をしたのだと思う。


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天皇のお寺泉涌寺-2

2007-07-18 05:55:01 | 冥想アヴァンギャルド
◎葬儀と墓

泉涌寺が最初に天皇の葬儀をとり行ったのは、1242年、第87代四条天皇である。

鎌倉時代の承久の乱で、後鳥羽上皇が隠岐に流されたおり、鎌倉幕府は後堀川天皇を立てた。後堀川天皇の後に御年二歳で帝位に昇られたのが四条天皇だが、四条天皇はわずか12歳で亡くなられた。

その後100年ほど経て、北朝第四代の後光厳天皇の葬儀を、帝の御遺志により、とり行ったのが、泉涌寺のその次の天皇の葬儀となる。

後光厳天皇以後は、応仁の乱で泉涌寺が焼亡した時を除いて、室町時代、戦国時代、江戸時代から、明治維新まで歴代天皇の葬儀と墓の建立が連綿と行われている。

これによって実質的に泉涌寺は、天皇家の菩提寺になり、歴代天皇の位牌が安置されている由。

結局なぜ菩提寺になったのかはわからず仕舞であるけれど、歴代の天皇側近の仏教ブレーンが泉涌寺をお勧めし続けた結果、気がついたら、菩提寺になっていたということだろうか。決して泉涌寺周辺に、呪法死の技術(クンダリーニ・ヨーガ)にたけていた僧が輩出され続けてきたということではないのではないか。もしそうであれば、その噂を聞きつけて、求道心あふれる若者が集まり続けてきたはずだからである。


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天皇のお寺泉涌寺-1

2007-07-17 05:25:24 | 冥想アヴァンギャルド
◎仏舎利

天皇の践祚の儀式は古神道に則って行われるのに対し、天皇家自体は、頭を丸めて法皇になったり、本願寺から皇后を迎えたり、仏教とのつながりも浅からぬものがある。

京都の泉涌寺はいつから天皇のお寺となったのだろうか。

鎌倉中期の律宗の僧湛海は、泉涌寺の首座となった。1237年南宋に渡り、仏舎利を分けてもらうようにかの地の白蓮寺に頼んだが聞き入れられることはなかった。

そこで、数年後湛海は、荒廃していた白蓮寺の復興に尽くそうと、既に当時から中国にはなかった檜材を白蓮寺に寄進して、二階楼門を築くなどしたところ、釈迦の歯の舎利である仏牙舎利を持ち帰ることができた。

日本では仏舎利の安置されている寺は数少ないから、なるほど天皇家の寺の格式を仏舎利に求めたのは、仏舎利の放つバイブレーションの精妙さを認める考え方があったということだろう。

けれど仏舎利を求めに中国に行くことを見て、真正の仏法を求めて自分の中を探る者は笑うに相違ないけれど。

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