アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ペドロ・アルペ神父-2

2007-06-30 05:57:49 | キリスト者の秘蹟
◎最も苦しんでいる人達の側にいる

ペドロ・アルペ神父は、バスク人。スペインのバスク地方は山国かと思いきや、意外にもビルバオを中心としたビスケー湾の一番奥まったところに面した地方だった。シラスウナギのオリーブ油炒めは、この地方の珍味。

ペドロ・アルペ神父は、1907年11月14日ビルバオ市の建築家の長男として生れた。蠍座ですね。

1923年マドリード大学に入学し、解剖学と臨床医学を学んだが、1927年医者になることをやめて1927年イエズス会修練院に入学した。

1932年スペイン政府はイエズズ会を解散すべしという法令を発布したことから、ベルギーにわたり哲学を学び、1936年司祭に叙階し、その後アメリカに行き神学院で勉学を続けた。

そして1938年10月来日した。来日後、富士山山頂でミサを捧げた。富士登山だけでも大変ですが、「ご神業」をなさる使命を持った方だったのでしょう。これから広島、東京で布教を行う。

1942年3月広島長束修練院の院長に就任して、原爆に被爆することになる。被爆時に彼は医者として裁ち鋏一本で被爆者の治療にあたるが、この時の体験を自ら
『あの戦慄の体験によって、すべてを相対化してみる視点を学んだ。と同時に神に仕える者は、最も苦しんでいる人達の側にいるべきであるという確信を不動なものにした。』
(未知の国スペイン/大泉陽一/原書房から引用)と語っている。

1958年イエズス会日本管区長に就任。1965年にイエズス会の総長に就任した。総長就任後は、かつて「権力の砦」として恐れられていたイエズス会の主旨を特権階級中心主義から貧しい者たちへの救済へと大転換させた。(特権階級中心の宗教って、貧しい人を救済しないんだ・・・。)

また修道生活の刷新方針として次の二つを示した。(1)聖書とイグナチオ・ロヨラの精神に生きているキリスト教の原点に立ち返ること。(2)現代の時のしるしを見極めること。また福音に立ち戻るための方法として霊操を重視した。

霊操は、キリスト教的観想法テキストであるが、イエズス会でもペドロ・アルペ神父登場以前は軽視されていたとは予想外であった。もっとも聖職者がそういう状態であったからこそ、特権階級中心の宗教組織になってしまっていたのだろう。

原爆に遭ってすべてを相対化して見る視点とは、おそらくは、神の御手による技の中にはこのような一見無慈悲な大量殺戮もあること、またこの世の物事の中で永続するものは何一つないことが骨身にしみてわかったというようなおよそ人間の感覚としては耐えがたい世界観に直面させられたことを謂うのではないかと思う。

そこから出て来た施策が、もっと冥想(霊操)しましょうというのは、それしか方法がないからである。

こうしたキリスト教の基本に立ち返った方策は、ヨハネ・パウロ二世(在位1978-2004)ら三代のローマ教皇との軋轢を繰り返した原因となったと伝えられる。

最も苦しんでいる人達の側にいるべきであるという確信とは、アッシジのフランチェスコが生涯裸足で過ごしたように、日常生活でも自らを最も低くする場合の根底にあるモチベーションであって、社会的に高位にある者が、なかなか実践できることではない。


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ペドロ・アルペ神父




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善財童子が自由に出会う

2007-06-29 05:27:28 | 究極というものの可能性
◎無尽相という解脱

華厳経入法界品は、インドのお金持ちの家に生れた、行いも正しく、既に多くの善根を備えた青年である善財童子が、文殊師利菩薩を手始めに、五十五の菩薩(最低でも仏にであったことのある人)に出会って、それぞれの菩薩からアドバイスを受ける物語。

最後の普賢菩薩との出会いでは、普賢菩薩の指導のもとに、空間・時間の制限のある三次元宇宙はもとより、それを超えた精神の働きである無色界や過去も未来も見渡すことができた。これにより善財童子はかなり熟達した観想法(イメージトレーニング)の修行者であることがわかる。

その49番目に、善財童子は、南のロールカ城への旅の途中で大きな藤の木の下に立つ無勝軍長者に出会った。無勝軍長者は誰かを待っている風であった。

無勝軍長者は、善財童子に、私は尽きることのない姿である無尽相という解脱を会得しているだけである。これで無量の仏に会うことができる。そうした無尽の蔵を持っているだけのこと。

ここでは、無勝軍長者は、いつでも無量の仏に出会えるコネを持つが、自分と仏は別物である立場から抜けてはいないことから、「ただそれだけのこと」と謙遜して見せている。

いつでも無量の仏に出会えるとは、仏のこの世に現れるあらゆる自由な有り様を承知していることだと思う。これが自由の可能性というものと思う。禅者がよくいう融通無碍、自由闊達、臨機応変とはこのことを指しているのではないだろうか。


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大国が小国に下る姿勢をとる

2007-06-28 05:57:48 | 老子
◎老子第61章 大国者下流

『大国は、たとえば河の下流のようなものである。天下の国々が、自然これに会し、これに帰して来る。彼は天下の牝であるとも言える。牝はいつでも静を以って牡に勝つ。

静であってそして下となるから勝てるのである。だから大国は小国に下ることになって、すなわち小国が帰服することを得、小国は大国に静を以って順うことによって大国に和される。

だから或いは下って人心を得、或いは下ってそして容れられるのである。

大国がこのようにするのは、人を平等に養おうと欲するからに過ぎない。小国がまた斯くするのは、大国に入って道を得たものに事えようとするに過ぎない。

そうだ、このように両者各々その欲するところを得るのだ。だがここで重要なことは、すべて大いなるものは、宜しく下となるべきだということだ。』

ここでは大国のありようをタオのあり方になぞらえた。タオある国の、精神世界でなく物質的な世界における行動規範は、すべからく自らを低くして対応しているということ。

小国もこれに静かに従うことで、大国の知性は全体として人心を得ることになる。

ここでは大をなすものが、その身を低くすることで、いつかタオそのものを生きることがあるということを予見しているように思う。


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松尾芭蕉の出自

2007-06-27 05:50:42 | 丹田禅(冥想法8)
◎身分を超えて

松尾芭蕉は伊賀上野の侍で、禅に参じて見性までしたというが、何で江戸にでてきたかわからなかったが、どうも脱藩したらしい。

松尾芭蕉は、伊賀拓殖の地侍の松尾家に生れたが、松尾家は平家の末流だそうなので、非人的な立場にいたようだ。芭蕉は、幼少より神童と謳われ、伊賀上野の五千石の侍大将の長男藤堂良忠に料理番のお小姓として召し抱えられた。 

1672年1月29才の彼は、俳諧で身を立てることを決意して、江戸に入ったとされるが、非人の人が地区外に出るには、脱藩するしかなかったようなので、脱藩して江戸に出たようだ。どうやって脱出したかがわからないので、芭蕉忍者説まである。伊賀拓殖は忍者の里としても知られる。

江戸に入って後は、小石川水道工事の設計に携わった功績を認められ、町人別となることを許され、深川六間堀に住むことを許されたという。

非人から町人になることを認められるという窮屈な身分にあっても、禅で自由自在な見識を得たその人生探求の情熱の豊かさには敬服させられるものがある。その闊達自在さの中から、名句が生れてきたのであって、単なる江戸俳諧のセンチメンタリズムの句ではないところに芭蕉の句の真骨頂がある。


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ひらがな、かたかな以前

2007-06-26 04:58:55 | 時代のおわり
◎言葉と宗教

日本書紀全編を講義した講義録のことを私記と呼び。古くは太安万侶の私記もあったようだ。

15世紀嵯峨天皇の勅命により、勇山(いそやま)連文継が、全文漢文である日本書紀を講義した。この講義録が弘仁私記である。

この弘仁私記に、「皇極皇太子大いに漢風を好み給うにより、孝徳、斉明、天智朝四代の間、文人学士各競って帝紀、国紀および諸家の記、代々の系譜等を漫りに漢字を以って翻訳し、私意を加え、人を誣い(いつわること)、ほとんど先代の旧事の本意を絶たんと欲す。」とある。

ここで何を漢字で翻訳しようとしたかであるが、ひらがな、かたかなの成立する以前のことであるから、神代文字(倭字)しかありえない。

万葉集(7~8世紀)は、万葉仮名で書かれてあるが、呉音、漢音、倭音が入り交じり、いまでも意味が未解読の歌がある。そうしてみると、万葉集は、聖徳太子以来始まった神代文字を棄てようという運動を国民的草の根運動にまで高めて、一挙に定着させようとした一つの言語変革運動の名残だった可能性がある。

いわば太平洋戦争で負けた日本が、ある日突然、日本語と仏教、神道を強制的に廃止させられて、「今日から国民全員、英語とキリスト教でやって下さい」と宣言されたようなものが、聖徳太子前後の神代文字廃止の動きだったのではないだろうか。

実際にフィリピンみたいにそういうことをやられた国もある。フィリピンにもあひる文字に似たヒリッピン古字あることも知られている。

言葉と宗教は、言霊というくらいで密接な関係がある。まず神名は犯しがたい。神の名を呼ぶのに間違った名で読んでも応答はない。その神相応のユニークなバイブレーションはまず神名、マントラにある。だから神代文字廃止で真っ先に問題になったのは、祝詞だろう。

こうした激変の時代を経ても、日本人としての誇りを連綿と伝えてきた先人に敬意を表すとともに、いまそれを自覚するかどうかは、一人一人が、一見何の役にもたたなそうな冥想ができるかどうかにかかっている。


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戦争に突き進む国家態勢

2007-06-25 05:59:52 | 時代のおわり
◎天皇家の金塊

ポール・マニングの米従軍記者の見た昭和天皇を読んだ。もともとこの本は、戦前の天皇家の保有していた膨大な金塊や貴金属類が、どこに行ったかを知りたくて読んでいた。

天皇家は、戦前は十二大財閥を遥かにしのぐ金融を中心とする優良企業の株式を大量に保有しており、日銀の株式も47%を保有。さらに御用地と呼ばれる天皇家保有の山林面積は栃木、群馬二県の合計に匹敵し、農地は奈良県の全耕地面積相当分はあった。GHQは、こうした天皇家の資産を見て、その金銭欲の大きさに驚いたらしい。

また日本の敗戦が確定的となった昭和十九年一月の段階で、既に天皇家は木戸幸一に命じて資産の海外逃避を進めた形跡があり、横浜正金銀行を通じてスイスやラテンアメリカに相当額(当時の貨幣価値で41百万ポンドという説もある)が逃避されたようだ。

当時ナチスの潜水艦Uボートや日本の潜水艦で原爆の原料や設計図をドイツ・日本間で盛んに輸送を繰り返しており、これに載せれば、金塊の輸送など容易であったろう。

結局ポール・マニングの本では、天皇家の金塊は行方不明のまま調査が沙汰止みとなった。

ポール・マニングによれば、日露戦争で戦勝の味を占めた日本は、財閥も軍部も国を挙げて石油、鉄、アルミ、食料、艦船、航空機など大規模戦争が継続できる国家経済態勢の構築に邁進した。

また明治末期から急速に天皇の神格化と国家神道を進めていったが、これも大規模な戦争ができる態勢づくりの一貫。

先の大戦は、関東軍の暴走や東條英機の専横など、とかく軍部の独走が戦争の悲劇に国民を追い込んだが如く言われるが、真相はそうではなく、財閥も、政治家たちも大規模な世界侵略戦争ができる態勢を、何十年もかけて意図的に作り上げていったものであることがわかる。

昭和天皇は、たとえば大本営と出先の戦艦上の司令官間の無線のやりとりを傍受していたりして細かい戦況までよくご存じで、御前会議に臨んでいたらしい。マニングによれば、GHQはこのように実質的に天皇が戦争を細かく指揮していたのは知っており、天皇が戦争責任を結果的に問われなかったのは、GHQの政治的な思惑によるとしている。

昨今社会保険庁のでたらめな仕事ぶりなど日本の権威を意図的に失墜させようとする一連の動きがあるが、次の日本の戦争への巻き込まれ方では、アメリカの軍事指揮権のもとに日本を戦争させようとする大きなうねりがあるように感じる。


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徳川家康の謎-2

2007-06-24 06:00:49 | 時代のおわり
◎松平元康になりすます

明治時代の出版直後に、その影響の大きさから、何者かに買い占められ、世に知られることのなかった史疑徳川家康によると徳川家康の生い立ちは、次のようなものである。

父親は上州新田郡徳川の庄出身の江田松本坊。彼は、加持祈祷などで口すぎをして、放浪の末に静岡に流れてきて、ささら者(賤民)の於大という女とわりなき仲になった。この二人の間にまもなく一子が生れ、これが徳川家康である。

江田松本坊は雲水のことゆえ、まもなく於大の許からいなくなったので、於大は生活できなくなり、石田村の久松土佐と再婚した。これをきっかけに3歳の家康は、於大の母源応尼に預けられそこで育った。

家康9歳の時、又右衛門という悪党の手により家康は、五貫文で、静岡の願人坊主(肉食妻帯の修験者)酒井常光坊の家に売られた。ここで19歳までの間、文字を習い、諸国を跋渉した。

家康こと、世良田二郎三郎は、19歳の時、松平元康の長男信康(2歳)を拉致した。この信康の母が、後に惨殺された築山殿である。この事件の詮議により、家康の育ての親である祖母源応尼派、静岡市狐が崎の刑場の露となって消えた。

家康は当時野武士軍団の長ではあったが、城を持たなかったので、信長の支援をもらうネタとして、拉致した信康を織田信長に差し出した。しかし信長は援軍を出さなかったので、やむなく家康は、方針転換して、松平元康の同盟軍として刈谷などを攻略した。

こうした最中、永禄四年十二月、岡崎城主松平元康が、家来の重臣阿部大蔵の子息弥七郎に討たれるという変事が出来した。

翌年二月家康は、主君を失った岡崎城に、織田の援軍と共に攻めかかったが、落城寸前に岡崎側に寝返って和議を結び、岡崎城主となることに成功した。この時に家康は、その死がいまだ秘密とされていた松平元康になりすますことにしたのであった。

従って家康と、信康の母築山殿とはもともと夫婦でもなんでもなく、また信康とは親子でもなんでもなく、ただなりすましの消息を知る邪魔な存在になっていたので、十九年後に謀叛やご乱行の名目で殺してしまったようである。
(参考:史疑徳川家康物語/榛葉英治/雄山閣)

家康は天下を統一したのだから、その出自が賤しいものであっても、その実力と権威は揺るぎないものであるはずなのに、地方の名家松平の名を借りねばならなかったのは、日本人の門地門葉を信用する気風によるものであろうが、もう一つは、自らは戦国時代の潮流に乗って成功したものとはいえ、我が徳川家の安寧を脅かす者が自分と同じ賤しい出自の者から出て来ることへの予防策であったとも考えられる。

それと修験の布教者とは、貧しく卑しい身分だったのですね。


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多賀城の石碑

2007-06-23 07:20:28 | 時代のおわり
◎渤海国の影響

宮城県多賀城の石碑は、江戸時代に土中から掘り起こされ、今では重要文化財になっている。

碑文の中味は、簡単で、京を去ること一千五百里、蝦夷国の界(さかい)を去ること一百廿里、常陸国の界を去ること四百十二里、下野国の界を去ること二百七十四里、靺鞨国の界を去ること三千里などと、里程標の如き記載となっている。後は、724年に誰が建てたなどと書かれている。

京都や、蝦夷国(岩手県)や常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)から何里あるかについては、特に変ではないが、問題は靺鞨国。靺鞨は、沿海州を根拠地とする契丹などの民族とされる。

則天武后が武周革命(690-705年)で天下を取ったことを契機として、696年中国遼寧省営州にあった契丹人大祚栄が叛乱を起こし独立した。後に唐もこれを無視できず、玄宗は713年、大祚栄を「渤海郡王」に封じた。これが渤海国で、926年まで存続する。

この渤海国が、多賀城石碑の靺鞨ではないかと思われる。渤海国が日本と盛んに交流していたことは知られており、友好国ではあったものの、多賀城石碑に意識的に記録する必要があるほどに、軍事的にも日本に対する影響力があったと見るべきだろう。

要するに新羅でも百済でも唐でもなく、靺鞨を記録する重要性が多賀城にはあった。日本-渤海間の渤海使の開始は728年なので、この石碑のできた当時は、渤海による現実的な軍事的脅威が残っていた時代ではないだろうか。つまり多賀城にとっては、靺鞨=渤海国とは、海路での軍事的緊張が生々しい時代の名残の碑文と思われる。

唐は道教の時代なので、当時の日本も大いに道教移入の圧力を唐から受けたに相違ないが、がんばり続けて道教を余り入れなかったのは、日本では仏教擁護勢力が優勢のまま推移したということになろう。


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徳川家康の謎-1

2007-06-22 06:36:36 | 時代のおわり
◎第三の家康

の一休ゆかりの南宗寺に徳川家康の墓がある。これには二代将軍秀忠などもひそかに参拝したと言われ、そもそも日光でも静岡久能山でもないこの墓は、何と家康が大阪夏の陣の時、地雷火で負傷し、亡くなった時のものという。

徳川家康は、一般的には、今川義元の人質だった松平元康が長じて家康になったとされるが、八切止夫説によれば、後の家康は、上州新田郡世良田の徳川の庄出身の世良田二郎三郎であるとする。群馬県の上州新田郡尾島町大字世良田に家康とゆかりの深いとされる東照宮まで立派に現存している。

あろうことか、松平元康は、世良田二郎三郎と交戦したこともあり、明らかに別人である。世良田二郎三郎がどうやって成り上がったかの詳細はわからないが、本来の三河者ではないよそ者の世良田二郎三郎が、三河譜代の旗本を召し抱えるには様々な無理があり、それが、明治維新後まで、波紋を投げかけたようだ。

旗本の中でも三河出身者は、不思議に大名や小名に持ち上げられず、一万石以下に押さえつけられているのは、三河譜代の者を遠ざけてきた証拠である。

さてそう致しますと、堺の南宗寺の墓は一体どの家康のものか疑われる。八切止夫説では家康は二人というが、早々に元康が亡くなり、大阪夏の陣で世良田二郎三郎が亡くなったとすれば、第三の家康がいたことになる。

こうした隠されたディテールが、明治維新などの政権交代時の密約に反映してくるもので、ひいては現代政治にも影を落としているものだろう。マスコミ報道だけでは論理的には理解できない政策決定の背後には、こうしたデリケートな原因があることがままあるものなのだと思う。

こうした権力闘争を原因として、五代将軍徳川綱吉は、神仏習合策をとり、仏教側に神道を取り込もうとし、明治維新では、廃仏毀釈で神道優位となり、明治後期に本願寺から皇室に入ったことで仏教も勢力を盛り返しと、なかなか日本の精神世界は、神道・仏教が入り乱れてやり合った歴史であることを感じさせる。


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名古屋グランパス・エイトの謎

2007-06-21 05:59:30 | 時代のおわり
◎八の者

グランパスはシャチなので、名古屋城のしゃちほこ。では、エイトって何だろう。

エイトは八のこと。名古屋の市章は、丸に八だから。
丸に八とは何か。豊臣秀吉が若いときは、丸に八の旗印で諸国を転戦していたからそれをしのんで名古屋の市章にしている。

でもなぜ八なのか。
戦国時代に当時飛ぶ鳥をも落とす勢いであった織田信長の末路を「高転びに転ぶ」と予見したのが、毛利の軍師安国寺恵瓊であった。安国寺恵瓊は、木下藤吉郎を評して「さりとて秀吉は『八』の者にて候らわば」としており、秀吉は『八』の者であったことが世間に知られていたようだ。

八は、鉢屋者と呼ばれる忍者であったとする小説もあるが、この八は、天皇を中心とする勢力に支配された種族を総称して八と呼ぶのであるという説がある。あんな奴(やつ)の奴はやっこであり、蔑称。奴は八(やつ)に通じる。

江戸時代の参勤交代では、名古屋城下を通る陸路は通らず、なぜか必ず熱田の宮から桑名まで海路七里を使うことに定められ、いわば名古屋を通ることそのものが忌み遠ざけられている。これは、徳川政権は、徹底して豊臣政権を弾圧してきたからという説明もあろうが、八の土地である名古屋に忌避すべき何かが、当時の人にとっては公然とあったのだと思う。

今の名古屋は、世界に冠たるトヨタグループの城下町みたいになって、東海地区の景気の牽引車となっており、誰に後ろ指さされることもないが、エイトの謎は解けない。


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アイヌ古文字

2007-06-20 05:47:57 | 時代のおわり
◎オーパーツと文字

アイヌは無文字社会であって、ユーカラのような膨大な叙事詩は、文字に依らず口述によって成っていると聞いて、アイヌ人の記憶力は恐るべきものがあると子供心に感じたことを覚えている。

ところがアイヌにも文字はあった。北海道小樽市の手宮洞窟に、六角石に彫られたアイヌ古字たる手宮古字が発見された。金田一博士は、一アイヌ人のいたずらであると一顧だにしなかったが、鳥居龍蔵博士は、古突厥文字であるという説を唱えた。また中目覚教授は、靺鞨(まっかつ)語(沿海州付近の民族)であるという説を唱え、『我は部下を率い・・・・大海を渡り・・・、戦い・・・、この洞窟に入った』のように解読文をつけている。(参考:日本神代文字研究原典/吾郷清彦/新人物往来社)

靺鞨語であれば、唐代前後の比較的新しい文字であるが、古突厥文字となれば、数千年前の文字ということになり、時代が全く異なり、例の古ウイグル巨大帝国の文字ということになる。

超古代文字というものは、結局進んだ文明が現代だけしかなかったという先入観を打破したところで初めて認められ得る。要するに現代より進んだ超古代文明が過去に何回か繰り返していて、その遺物が超古代文字であるという立場に立つものである。これは個人に前世があるなしの議論と似た理屈である。

超古代文明が存在したあかしは、各地で出土するオーパーツであり,日本で言えば、全国各地に散在する山頂付近の巨岩巨石の日本のピラミッドや、あひる文字などの超古代文字などということになろう。

もともと日本は6世紀までは、文書は神代文字がメジャーであって、聖徳太子の頃に中国軍侵攻の結果、神代文字文書を全部漢字に翻訳、書き換えしたという説があり、これによって神代文字の命脈はほぼ絶たれたのであろう。言葉も文字も長い年月の間に変わったり、滅びたりするものなのだと思う。


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古代文字で何を書き残すか

2007-06-19 07:04:16 | 冥想アヴァンギャルド
◎冥想メソッド

時の為政者や精神世界の指導者が、最も必要性の高い情報を文字にして広めるとすれば、外的物質的には、時の政権の正統性を示すことになる「歴史」を書くことになろう。また精神面では、人間の幸福というものの根幹である冥想技法と冥想原理を書き残していくことになるだろう。

中国の秦の始皇帝の時代にも焚書坑儒があったように、日本にも焚書があった。仏教が伝来した時に神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏が激しく争って、その結果蘇我氏が勝利した。蘇我氏はその勢いに乗じて、神道関係の古文献が大量に焚書された。

この焚書された古文献が、神代文字で書かれていたのではないかと見られているものである。神代文字は、江戸時代の平田篤胤が、神代文字の代表格として、アヒル文字とアヒル草文字に注目したことで世に知られることになった。

神代文字は、今でも神社の神璽(神社スタンプみたいな)に多数見ることができ、ハヤスサノオノオホカミなどの神名を神代文字で記したものが多い。その他古鏡、石碑、宝剣などに記されたものがある。

その中でも特に整然としたものが、対馬の阿比留家に伝わったとされるあひる文字である。これは偏と旁(つくり)に分かれていて母音が5、父音が10あり、これを組み合わせると50音になり、後に朝鮮の諺文(ハングル)の元型となっている。

神皇正統記には「古来、日本は三韓と同じ系統だったが、桓武天皇(即位781年)の頃にそれらの史料は焼き捨てられた」という「桓武焚書」と呼ばれる伝承がある、とあり、またまた焚書があって追い打ちをかけられている。

神代文字研究者は、古代日本の歴史の真相ばかり追い求めているが、神代文字文献の中にクンダリーニ・ヨーガの系統である古神道の冥想メソッドが必ずや体系的に記載されたものがあるに違いないと想像している。というのは、冥想はその文明の華であるから、それが記録されないはずはないからである。


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立山中宮雄山神社の神璽

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ペドロ・アルペ神父

2007-06-18 04:56:39 | キリスト者の秘蹟
◎イエズス会もなかなかに

ペドロ・アルペ神父は1907年、ザビエルと同じく、スペインのバスク地方生まれ。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世にも被爆の惨状を進講した人。

アルペ青年は医学生であった十九歳の時、ルルドへ巡礼してイエズス会への召命を受けた。1938年秋に来日して、最初は山口にいて、後広島に移った。

1945年8月6日、広島市にあるイエスズ会修練院「長束黙想の家」は爆心から3・5キロ離れていたこともあり、柱3本、爆心地側の窓の大破など被害を受けたが、倒壊に至らず、被爆直後は病院として機能した。ペドロ・アルペ神父はこの時被爆したものの、解剖学などの医学の心得を生かして、被爆直後から負傷者の救護に当たった。

ペドロ・アルペ神父は、原爆とは、時間とは関係がない不動の永遠に属しているとも言い、非人間的な悲劇だともいう。

彼は、原爆の発生原因は、自分自身の技術を誇りたいための人間の自己破壊衝動と見ており、広島の閃光は、人類全体の破滅の可能性を示す予兆として記憶している。

その後1965年から83年までイエズス会総長を務めたので、意外なことに最も明瞭に原爆の悲惨さを知る人間を18年の長きにわたり有力カトリック組織のトップとして戴いていたことになる。

まだ彼の著書にはあたっていないが、カトリック組織トップなので、ローマ教皇同様に最低でも神を見た体験を有している人と思う。

イエズス会は、植民地主義の先兵として批判されるところもあるが、さすがにロヨラの伝統を継ぐ人はいるものだと思う。


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傷つけられない自分

2007-06-17 05:31:43 | 老子
◎老子第60章 治大国

『大国を治めるには、小魚を煮るのと同じようにせねばならぬ。道に従って天下にのぞむならば、鬼神がいても彼(鬼神)は決してその霊異な力を持たない。

鬼神が霊異な力を持たないのではないが、その霊異な力が人を傷つけることができないのである。

その霊異な力が人を傷つけないのみでなく、聖人も亦人を傷つけない。左様、このように二つとも相傷つけることがないから、だから徳が交々相合して大国が立派に治まるのである。』

為政者は政治の乱れの結果、スピリチュアルでネガティブなパワー(鬼神)に民が頼るようなことがないように無為に基づく政治をすべきである。無為の政治ができていれば、ネガティブなパワーが民に影響を及ぼすことはない。

現代のネガティブなパワーとは、マスコミだったり、教育だったり、社会制度だったり、様々なものが複雑に入り組んでいる。春秋戦国時代ならば迷信ということになる。

来る千年王国では、悪魔的なものは力を持たないと言われているが、それは悪魔がいないのではないが、その力が千年王国の時代の人々には及ばないということだろう。それはどんなに傷つけられても、傷つけられない自分があることを承知している人ばかりいる時代ということになるだろうか。


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ゾイゼが天の学校で学ぶ

2007-06-16 05:50:17 | キリスト者の秘蹟
◎未熟な自己放棄

ゾイゼが、ある朝椅子に坐って冥想していると、天から立派な若者が降りてきて、「ゾイゼは初級の学校に長期間通ったので、その聖なる初心が至福の域に達するために、これから天の最高の学校につれていって上げます。」とお誘いがあった。

ゾイゼは、若者に手を取られ、霊の国の聖職者の住まいのようなところに入っていった。ゾイゼは若者に、この最高の学校とそのテクニックとは何かと問うた。

すると若者は、
「たとえば喜びだろうが苦しみだろうが、神が人に対してどのように現れようと、またその被造物を通して人に対してどのような振る舞いをしようが、人は自分自身を捨て去って無になることが最高の学校での最高のテクニックである。」と説明した。

ゾイゼはこれを聞いて、このテクニックのために生きよう、そしてここで一所懸命に励もう、またこれを断念させるような辛いことが起きないようにと願った。

ところが、天の若者は、この考えに反対し、この術は自分自身を完全に放棄していることである。ここでは行うことが少なければ少ないほど、ますます多くのことを行ったことになると語った。
(辛いことが起きないようにと願うようでは、まだまだ。辛いことが起きようが起きまいがそれは自分の知ったことではないと、いきたいものだ。)

ゾイゼはこれを聞いて、自分の苦行は外的なものであり、自分自身はちょっとしたことにもびくびくする臆病な兎のようなもので、まだまだ自己放棄が完全にできていないので、上級の学校が必要であると啓示されたものだと悟った。

天の学校は、三次元の空間、時間、宇宙を超えたところにあり、アストラルレベルかなんかに存在するのだと思うが、ゾイゼのような、相当に修行を積んだ人が、訪問することがあるようだ。他にもこうした天の学校に至った話を聞いたことがある。


    1日1善。1日1クリ。

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