アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

被害者と同じ体験をする

2007-01-31 05:49:36 | 冥想アヴァンギャルド
◎共に地獄に落ちる

PTSD患者の精神科医や、グル、メンターやメンタル・トレーニングのコーチやヒーラーには、こうしたトラウマが伝染するものである。こうした残虐な行為や災害の経験の話を聞いているうちに、話に引き込まれ、患者と同様の怒りや恐怖や絶望を体験することになる。これは外傷性逆転移と呼ばれる。

患者のエピソードによって呼び起こされる心の動揺により、治療している医師やヒーラーの精神的健康が脅かされるのである。

1.患者の孤立無援感
精神科医が自分も味わう孤立無援感からの防衛のために、ただ話を聞いてあげるという原則を時に忘れ、救済者の役を演じようとしたり、「自分は特別だ」と思い込んだり、救済のために患者と深い仲になったりする。

この孤立無援感につけ込んでくるのが、マルチ商法だったり、高額セミナーだったり、カルト宗教だったりする。

2.患者の怒り
精神科医は、患者の怒りにも同化してしまう。その怒りは、加害者に向けられ、何もできなかった傍観者にも向けられ、世間のすべての人に向けられるものだが、この怒りを聞いているうちに、精神科医が怒られすぎて精神科医が卑屈になってしまうと、その怒りがこわくなったりする。

3.深い悲しみ
精神科医は、その悲しみの証人として立つが、しばしばその絶望感に圧倒されてしまいがちになる。圧倒されてしまうと治療にならないので、圧倒されないようにがんばるんだそうだ。

4.加害者の感情
余りにも絶望的なストーリーを聞いているうちに精神科医は加害者の感情にも同一化することがある。これは精神科医自身が自分の悪の部分に気づいてしまうことである。
だからレイプ被害者の女性の治療で、精神科医が性欲の高まりを感じるのはごく当たり前のこと。

5.傍観者の罪悪感
衝撃的な事件の傍観者には、自分だけ無傷でいたことの罪悪感があるものである。

以上のように一通り衝撃的な体験の告白を聞いた、精神科医、グル、ヒーラー、メンタル・コーチ達は、すっかり患者の心理状態と同化してしまう。患者と一緒に地獄に落ちてしまうのである。このような逆転移が起こると、精神科医は、この世ならぬ不気味な空想をしたり、夢を見たり、離人感や非現実感まで出ることがあるという。

精神科医の立場はこの世という足場から出ることなく、その足場のそばを滔々と流れる川に押し流される患者をロープで引っ張っているようなものだ。患者をその足場に引き上げるのが治癒だが、逆転移では、精神科医はその足場が実は不安定なものであることを多面的に理解させられる羽目になっている。

PTSD患者の社会復帰は、本人にとって大切なものだということを否定するものではない。でも正統的冥想修行は、この足場が不安定なものである現実を認めることから始めるので、狙いどころが少々違っている。正統的冥想修行は、現世利益とあまり関係ないというのはこの所以である。


    1日1善。1日1クリ。

宇宙船ボイジャーに載せた宇宙人への手紙
/NASA Astronomy Picture of the Day

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これが不条理だ-2

2007-01-30 05:42:15 | 冥想アヴァンギャルド
◎ベトナムの米兵ジャックの体験-2

ベトナム帰りのジャックの思い出話。
『俺は怒りを生かし続けても、ちっとも困らない。第二回目のベトナム遠征の時に、ある大きな村の攻撃に加わった。村の周囲の三分の二は陸軍が包囲していた。陸兵はたこつぼ壕の中に入っていた。

わが軍のヘリコプター一機が村の外側に着陸した。俺がヘリコプターにもたれてタバコを一服した時に射撃が始まった。コブラ型ヘリコプター・ガンシップ(機関砲を備えた攻撃用大型ヘリコプター)が機体を傾けながら降下して村に大量の砲火を注いだ。煙のために何も見えなかった。

いやーな臭い、ありとあらゆる物が燃える臭いがした。。村に入った。至るところが死体、死体だった。俺の近くに老婆と少女がいた。老婆は死んでいたが、少女は生きていた。少女は片足を失って地面の上を円を描いてのたうち回っていた。涙を流していたが、こそとも音を立てなかった。

俺と肩を並べていた海兵は、拳銃を取り出して少女の頭を撃った。俺はことの全体、このすべてに全く憂鬱になった。いらいらした。俺は人間をめちゃくちゃにしてやりたいという他は考えもしなくなった。そしてそのとおりにした。相手が誰かは気にもかけなかった。米兵も殺したでしょう。

ヘリコプターに乗って帰還したが、操縦士を殺したくなって、抑えるのに苦労した。
ヘリのドアを開けてM16軽自動小銃で一匹の豚に向かって弾装を撃ち尽くした。

今の俺は誰彼なしに憎い。俺の怒りには特に誰彼という標的はない。』
(PTSDの医療人類学/アラン・ヤング/みすず書房から引用)

これは、自分が虐待された訳ではないが、村の老婆や少女の運命が、決して自分の運命と本質的には異なるものではないということを直観したために、自分のどうしようもない無力感を感じ、それがあらがい難い力への無意味な怒りとして、「誰彼なしに憎い」という攻撃衝動に転化していったのだろう。

これを語り始めるジャックは、しおれて打ちひしがれた様子で、「信じられないくらい年を取った。自分のことを老人だと思った。」などとつぶやいていた。これと似たようなことは旧ユーゴでの戦争やイラクでも起きたに違いない。イラクで米兵による捕虜虐待が繰り返し報じられるが、いくらでもネタが尽きないほど、戦場では日常的にこうしたことは起きてしまうものなのだろう。

外国兵だけにこうしたことが起きるわけではなく、旧大日本帝国軍にはこうした精神医療チームはなかったようなので、PTSDになった日本兵にとっては悲劇的な環境であったと思う。特に沖縄や硫黄島では、激しい塹壕戦が繰り広げられたことからPTSD患者が多数出たはずだが、PTSDは「恥」の一言でかたづけられ、配慮されることはなかったのだと思う。

こうして世の不条理を直視させられた人は、社会に対して高い確率で不適応になるものである。そうした人を再適応させようとするのが精神医療である。

正統的冥想修行は、逆に不条理を直視する方向で進む。不条理を直視している自分個人は、絶望的な無力感を味あわされるが、そこから逃げないでいて、あきらめないでいると、ある時すべてを解放してくれる何かに出会うことがある。

けれどもそいつに出会う保証は何もなく、出会わなかった人は、また社会になんとか適応する道に向かったり、運が悪ければ発狂したり、自殺したりする。

世界の見方としてはこうした不条理が実は我が身にいつでも起こり得るという見方の方が正しいが、そんな人の人生観は世俗的な感覚では面白からざるものになる。でもこうした見方の中に人生の真実があることを釈迦もイエスも呂洞賓も示唆している。


    1日1善。1日1クリ。

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これが不条理だ-1

2007-01-29 05:21:34 | 冥想アヴァンギャルド
◎ベトナムの米兵ジャックの体験-1

不条理は人の気持を不安定にするものだ、PTSD心的外傷後ストレス障害とは、不条理な体験の後に起こる。若い学生にとって「不条理」という言葉は、サルトルやカフカの専売特許みたいな印象を持つものだが、実は不条理な体験は、児童虐待、家庭内暴力など意外に身近なところにも潜んでいるものであるが、わりと具体的なイメージを結びにくいものである。

精神医学では、第一次世界大戦の戦時PTSDから不条理な体験が注目され始め、戦争の他レイプ、犯罪被害体験、事故、災害(阪神淡路大震災など)、身体的虐待、親しい人の死などの不条理な事件に直面することがPTSD発症の原因となることが知られている。

ここでは、そうした心理的不安定性が、深い冥想体験の後にも起こることにも思いを致して、典型的な不条理な体験を一例見てみたい。これはジャックというベトナム帰還兵の体験。

『僕もアンシャウの大殺戮の後の戦場掃除を手伝った。---米兵3千の戦死だ。あの臭気。

兵士は泣いては反吐を吐いていた。一切を終えた時、僕が感じたのは一種の空虚感だ、何かが去ってもう戻って来ないみたいな。僕は牧師の葬礼には欠席した。葬礼はもっと悪くする。もっと空虚にするだけだ。

僕は戦友二人と共にベトナムに来た。ずっと訓練を共にしてきた奴らだ。二人とも着いた月の終りに戦死した。パトリックスは、ヘリコプター作戦で未帰還だった。もう一人は首を撃たれた。弾丸は頭の天辺に抜けた。僕は今38歳だが、幸せだった思い出は18歳が最後だ。』
(PTSDの医療人類学/アラン・ヤング/みすず書房から引用)

最初は死体処理だが、gooブログのランキングのベストテンに死体処理業の方のブログが入ってきている。死体処理はPTSD発症の可能性が高いのではないだろうか。ベトナム戦争従軍者のうち15%から30%がPTSDを発症しているようなので、死体処理業の方もそれに近い確率でPTSDになってしまっているのではないだろうか。

こうしてジャックは18歳から20年間、人間的なものに幸福などないという状態に留まったままになった。


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アメリカの核戦略

2007-01-28 04:06:38 | 時代のおわり
◎核を廃絶しても武器が変わるだけ

日本でも北朝鮮が核実験をするに及んで、ようやく核軍備が如何なるものか、現実に差し迫った知識を得ようとする動きが出始めた。しかしながら大方の議論は、テレビタックルやワイドショーに見られるように、軍事専門家が核兵器の性能についての情報は提供してくれるが、核兵器というものをどう取り扱って、どう対処していくかについては、あまりこなれた議論にはなっていないようだ。

アメリカ軍部の指導者であったマクナマラが回顧録を出していて、自分が主導してアメリカをベトナム戦争の泥沼に引き入れていった癖に、実は自分の本意ではなかったという内容であり、潔さのないことを言うものだとまず思ったものだ。戦死した米越軍人の遺族は浮かばれない思いだろう。

マクナマラ回顧録(共同通信社/ロバート・マクナマラ:フォッグ・オブ・ウォーという映画にもなっている)では、米軍人、政治家の意見の大勢は、「核戦力は破壊力が大きすぎて、軍事的な効力はないので、核戦力を使用する意味はない。従ってアメリカが核の先制攻撃をすることはない」というものである。

これに対し、NATO(北大西洋条約機構)の基本的な考え方は、ワルシャワ条約機構(ソ連を中心とした東側軍事機構)に対する通常戦力での劣勢を挽回するために、「ヨーロッパの同盟国のために核の先制攻撃があり得る」というものであった。

このようにNATOは、冷戦期においては一貫して、アメリカの優位な核戦力で全般的な戦力バランスをとる方針であった。冷戦終結後ワルシャワ条約機構軍は解散したが、NATOは、最後の手段としてではあるが,核の先制使用の可能性を依然として保持している。

核は、破壊力が大きすぎて軍事的効用はないというのは、もともと相手国の物資や人材を戦争で勝つことによって獲得しようとするのが本来の戦争の目的だが、核兵器の使用は、相手国の物資や人材を著しく損耗するという意味である。

特に社会インフラや人材の損失が大きければ、その国の復興は大きく立ち遅れることになる。つまり核戦力を使用したら戦争の目的が達成できないことはおろか、単にその国の文明を破壊しただけに終わるのである。

結局核を持つ意味は、敵対国の核への報復力を持つことが敵対国に核を使わせない抑止力になっていることだけなのである。

そこで、核兵器を全世界から全廃することも1950年代から検討されてきた。しかし核を全世界から廃絶した場合、通常兵器や生物化学兵器での戦争を全世界に蔓延させるだけに終わる。

それでは、アメリカの軍事的優位性は確保できないので、核兵器廃絶は、アメリカにとってはあり得ない選択肢となった。他の国にとっても、通常兵器や生物化学兵器での戦争が手軽に勃発する環境は決して好ましいものではない。戦争が戦争を終わらせることはない。

このように核兵器廃絶は、単に取って戦う武器を変えるだけのことになるので、戦争を本当になくするためには、我々一人一人が戦うことを止めなければならない。戦いを止めるのは、智慧や力によるものではない。だけがそれをやめさせることができる。

そして愛は、人間の感情や気分に属するものではなく、意識の絶対的な極限状況を超えたところ、人間を一歩飛び出したところにある。


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日米開戦の真実

2007-01-27 07:30:50 | 時代のおわり
◎不断の緊張感とストレス

日米開戦の真実(佐藤優/小学館)は、A級戦犯の大川周明の『米英東亜侵略史』にコメントを加えた本である。

英国の戦争のやり方に共通しているものは、
1.自国を絶対に戦場にしない。
2.敵を利権が競合する最強の国に絞り、その国以外とは友好に努める。英国のそれは、スペインだったり、オランダだったり、フランスだったりしたが、常に勝利してきた。

3.最強国との戦争が起きても、決してその国を壊滅させることはなく、余力を残したままで、戦後はその国を英国の友好国に押し上げる。

4.その旧最強国は周辺のいまだ英国に屈従していない国を侵略する英国の先兵として使役する。たとえば、清とのアヘン戦争を戦った英国軍は大半がインド兵だった。

5.敵国を周辺国と戦わせ、英国が漁父の利を得るようにする。インド統一では、ヒンズー教徒と回教徒を対立させ、藩王同志を対立させる手法を駆使した。この手法は中東でも用いられ、中東の複雑な政治情勢の淵源にもなっている。

米国も自国を決して戦場にしないことから、外征の軍隊と呼ばれる。しかしながら英国ほどの狡猾で非道な戦略は取ってこなかったように見える。ペリー来航以来、極東では米国は日本と権益を争ってきたが、日本はインドや中国よりは交渉相手として手強かったため、結果的にインド・中国に対するほど露骨な政策は採り得なかったということだろう。ただし、日本の敗戦以後は別である。

こうして見てみると、米英とも自国を決して戦場にしないというところと、当時の最強国とは敵対するという原則がある。この原則で行けば、戦争で弱った英国を、立場の強い米国が権益を奪いにいくものだろう。にもかかわらず、米英同士は敵対する政策を採らないということは、単に第二次世界大戦で同じ連合国側にあったという理由だけでは説明がつかない奇妙なことである。

第二次大戦後は米ソの対立。その間は、軍事的にはソ連が最大の米国の敵国であった。ところが、この冷戦の間に英国は、世界帝国の座をすべり落ちてしまった。所謂大国間の植民地分捕り合戦は、交通通信手段の発達により、冷戦の間に実質的な意味を失ったのではないか。それと同時に大英帝国の植民地主義的侵略の意義は失われ、凋落することになったのだと思う。

1960年代には、核ミサイルの総量が全世界の壊滅可能な量に達したことで、それまでの大航海時代的な世界観が一掃されてしまった。要するに1960年代以降は、核戦略が直接個々人の生存と意識を脅かしている時代になってしまったのである。

そして今は米中の軍事的二強の時代と核拡散の始まりの時代。核ミサイル・ボタンのワンプッシュで一民族が壊滅に瀕する危機は、ますますその闇を深めて来ている。その絶えざる緊張感というものは、実は我々個人の無意識に相当に影を落としてきているのではないだろうか。


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なりきる

2007-01-26 05:37:31 | 老子
◎老子第71章 知不知上

『知っていてもなお知らないと思うのが、最上の知である。知らぬくせに、知ったと思うのは、病である。

さよう、病を病とする。知らないことを知らないとする、そうすれば、もう知らないことが病ではなくなる。

聖人に病がないのは、病を病とするから、知らないことを知らないとするから、だから病がないのである。』

只管打坐していると足が痺れてどうしようも時がある。最初はこの痺れから逃れたいと思うが、それでなんとかなるものではない。そこで老師は言う、「痺れになりきると消える」と。病を病とするとか、言い回しは大時代的だが、ここは、自分が自分に直面して自分になりきることを言っている。

南無妙法蓮華経になりきる、南無阿弥陀仏になりきる、不動明王になりきる(修験)、聖音オームになりきる、持病になりきると、coolな何かが起きる。

『知っていてもなお知らないと思う』のは、アートマンである自分を知っている感覚だから、人間個人の感覚のことではあるまい。


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山家

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変性意識の定義

2007-01-25 04:35:29 | 現代冥想の到達点
◎逆さまの世界観

変性意識(Alterd States of Consciousness)には、いろいろな定義がある。チャールズ・タートのそれは、以下。

『われわれがものごとを比較する何らかの基準となる状態と不連続的に異なっている場合、その状態は変性状態である。一般に我々は日常的な目の覚めた意識を比較の基準にしているところから、たとえば夜夢を見ている状態は一つの変性状態となる。

他のよく知られた変成状態の一例としては、催眠状態、アルコールなどの向精神性ドラッグによって誘発される状態、たとえば激怒、パニック、落ち込み、高揚などの強力な感情にまつわる状態、瞑想修行によって誘発される状態などがあげられよう。』
(処女航海/吉福伸逸/青土社)

変性意識状態のすべてが望ましい悟りの前駆的段階ではなく、むしろガラクタ的意識状態であることのほうが多いのは間違いない。だからPTSDを原因とするトランスだって大方はガラクタだろうし、霊能力で出会う神霊ですらガラクタに出会うことが大半だろう。
けれどもその精神状態が、悟りと呼ばれる奇跡的なシーンの戸口に手を掛けている状態であることは想像できるだろう。

また、変性意識状態にいることが、覚めている状態であるという覚者の視点から見れば、今の常識人間たちこそ、偏狭な世界観した持たない奇妙キテレツで『変性意識』みたいなものだろう。


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洗礼のヨハネ/ランブール兄弟

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日本人伝道士バスチャン

2007-01-24 05:23:04 | キリスト者の秘蹟
◎絶対者は一つ

バスチャンとは、セバスチャンが縮まったもの。バスチャンは1657年に殉教したが、その予言と、教会こよみでその名を残した。

その予言は次の四つ『
1.お前たちを七代までは我が子とみなすが、それから後はアニマ(魂)の助かりが困難になる。(ちょうど七代後にフランス人神父とキリシタンが220年ぶりに再会した。)
2.コンヘーロ(告白を聞く神父)が大きな黒船に乗ってやってくる。毎週でもコンヒサン(告白)ができる。
3.どこでも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代がくる。
4.道でゼンチョ(教外者)に出会うと先方が道を譲るようになる。』
(日本キリシタン殉教史/片岡弥吉/時事通信社から引用)

バスチャンの活躍したのは、外人宣教師がいなくなった直後の数十年。こうした展望の見えない時代に七代後に新たな時代が来ることを幻視していた人が出現したのは、隠れ切支丹の信仰全体にはずみをつけたと思う。

ところで、フランシスコ・ザビエルが薩摩で布教を開始した直後に、島津氏の支援があったとはいえ、あまりにも急速に改宗するものが多いので、そのことを怪訝に思った。そこでよく調べてみたら、デウス(神)のことを大日如来と同じものであるとして入信していることに気づいて愕然としたそうだ。

けれども大日如来とデウスが違うといっても、どう違うのかザビエルがうまく説明できたとも思えない。近代的自我形成以前の当時の日本人にとっては、絶対者はそもそも一つであり、その名がデウスであっても大日如来であっても構わなかったというのは、極く自然な心情であったのではないだろうか。

この心情があるからこそ、洗礼などの秘蹟を授ける人が誰もいなくなった中でキリスト教が220年も命脈を保ち得たと思う。バスチャンのキリスト教暦が切支丹の信仰にリズムを与え、その予言が希望を与えたとしても、それだけでは信仰が続きはしなかっただろう。


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PTSD-10

2007-01-23 05:48:36 | 冥想アヴァンギャルド
◎児童虐待と自傷(リスカ)

ブログを「リスカ」で検索すると千件単位でヒットしてくることに驚かされるものだ。リスカとは、手首などを自傷することである。自傷には児童虐待が大きく関係している。

DV・家庭内暴力は、日本全体の1/10の家庭に及んでいるのではないか、と推定したが、DVがこれだけ広範に行われているならば、その結果として児童虐待も行われ、児童虐待の被害者が長じてリスカをする数も膨大なものになっていることに何の不思議もない。

児童虐待経験者の発作的な自傷は、まず深い解離状態(意識が現実から飛ぶ)に入り、これは現実でないという感じや感覚がないという感じなどがまず起こる。そして堪えがたい苛立ちとともに自分の身体を傷つけたいという衝動が起こる。

自傷の始まりは痛みを余り感じることがなく、最後に穏やかなほっとした感じが明瞭にやってくるまで自傷が続けられる。これにより、自分が生きているという確認を取るようだ。従って自傷は、自殺を目的としたものではなく、なんと逆に自分が生きていることを確認する手段になっている。

児童虐待による心理的痛みを緩和する手段として、トランス(忘我)に入ったり、解離できない場合、浣腸、嘔吐、強迫的なセックス(乱交乱倫)、生命の危険があるような行動(肉体運動・冒険)をとることがあるが、リスカは、そうした一時的な心理的痛みからの逃避手段の一つなのである。

人によっては、時々リスカすることで自分が生きている意味を確認している場合もあるのだろう。そのことを想像すると、毎晩トレンディ・ドラマで流される若者のちょっと幸福な風景がひどく皮相的、一面的に思われ、今の日本人の病根の根深さにぞっとするところがある。これは、アポロン的な現代文明の影の部分とでもいうべきものである。


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転び切支丹ジュゼッペ・キャラ

2007-01-22 05:03:47 | キリスト者の秘蹟
◎絶対者への帰依

1642~43年、イエズス会の日本巡察使のアントニオ・ルビノは、棄教したフェレイラ神父を奪還して回心させるために、自らとジュゼッペ・キャラ神父を含む10名のチームを、マニラから日本にそれぞれ五人ずつ二回に分けて送り込んだ。

マニラやマカオのイエズス会も日本の切支丹弾圧の厳しさは承知の上で、このチームを送り込んだに違いない。この10人には3人の非聖職者か含まれていたが、勿論全員が殉教を覚悟していたはずである。異端審問・魔女裁判はキリスト教の十八番だが、立場が逆転するとさすがにイエズス会も慎重である。

最初のチームにはルビーノ巡察使自らが参加し、中国人に変装して薩摩に上陸したが、2、3日後に全員捕縛され、長崎に移送された。

さて長崎で入牢した翌日、奉行の前で取り調べを受けたが、その通訳をやっていたのが、転び切支丹のフェレイラであった。ルビーノは奉行の取り調べにおいて、フェレイラにその背教を諫めて回心するように勧めたが、フェレイラは恥じてか取調べの場所から立ち去ったという。

ルビーノのチームは7か月の長きにわたり水責めの拷問を受けた後、全員殉教した。

次のチームは、ジュゼッペ・キャラ神父を含む五人のチームで、筑前の梶目大島に上陸した。月代をそり,衣服も日本人風にしていたが、目つきと鼻の高さで見破られ、捕縛されて長崎奉行所に送致された。このチームは、江戸に移送され、何と五人全員がキリスト教を棄て、日本人妻を娶ってしまった。

ジュゼッペ・キャラは、日本名岡本三右衛門を名乗り、それから42年間小石川の切支丹屋敷で生き延び、遠藤周作の小説「沈黙」のモデルとなった。

安土桃山時代の最盛期には、キリスト教徒は最大2百万人いたと推計されるが、度重なる弾圧によりその数は激減した。これから約220年間、日本には神父がいないまま「隠れ切支丹」の信者のみが存続するという異常事態が続く。

1865年長崎大村天主堂で約220年ぶりに隠れ信者が発見された時、その隠れ切支丹の教義が正統的なものと著しくかけ離れていたとフランス人神父は驚いたが、信仰が教義により形式に堕してしまえば、220年間の長きにわたりキリスト教が日本で生き延びることはなかったのではないだろうか。

これは、組織宗教における教義が絶対的なものではなく、デウス信仰という絶対者への帰依の方でも信者を救うことができるということの、一つの典型的な例と見ることができよう。
(参考:日本キリシタン殉教史/片岡弥吉/時事通信社)


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転び切支丹クリストヴァン・フェレイラ

2007-01-21 06:59:49 | キリスト者の秘蹟
◎観想法対逆洗脳

クリストヴァン・フェレイラは、1580年ポルトガルの産の宣教師。1610年頃来日して上方地区のイエズス会の布教責任者として20年以上の長きに渡り活躍した。ザビエル以来、豊臣秀吉の1587年の伴天連追放令までは、いわば順風満帆で布教が展開していったのだろうと思うが、フェレイラ来日後の活動は地下活動だった。

1633年、宗門奉行井上筑後守にクリストヴァン・フェレイラは、小倉において捕縛され、長崎で他の四人の宣教師(ジョアン・アダミ神父、アントニオ・デ・ソーザ神父、ルカス・デ・エスピリト・サント神父)らと共に穴吊りと呼ばれる拷問にあった。

穴吊りとは、汚物を入れた穴の中に身体を縛って逆さに吊るすもので、血が頭に逆流して時間が立つとその苦痛は言語に絶するものとなる。
(参考:切支丹時代/遠藤周作/小学館ライブラリー)

5時間後フェレイラは、キリスト教を棄てることを誓い、戒めを解かれた。同時に吊るされた神父達はいずれも殉教した。

棄教したフェレイラは沢野忠庵を名乗り、日本人妻をめとり(子孫までいる)、幕府の通詞として、以後は他の転び伴天連(棄教した聖職者)と共に キリシタン取締りにあたった
以後17年存命したという。

イエズス会にとって、日本の重鎮であったフェレイラの棄教は、大事件であり、その事実が確認された時は、イエズス会とヨーロッパのキリスト教界に衝撃を与えた。

この事件は、カトリックにとっては都合の悪いものであるから、彼の事蹟をまとめて書いたものはない。遠藤周作が小説「沈黙」で脚光を浴びなければ、転び切支丹にも大物宣教師がいたことなど、あまり世に知られることはなかったろう。

この事件は、イエズス会創始者のイグナティウス・ロヨラの編み出した観想メソッド「霊操」によって堅固な志操を確立した宣教師がなぜ布教をやめることに同意するに止まらず、キリスト教を捨て去るに至ったかというところが問題である。

何しろ「霊操」で鍛えられたイエズス会宣教師たちは、中国、インド、チベットまで入るは、人跡未踏のアマゾンの奥地にも平気で分け入って行ったので、いわば当時の地上最強のカトリックのセールスマン達だった。マーフィの観想法みたいに、霊操の中にも「目標が必ず達成することをありありと想像しなさい」みたいな文言があったと思う。こうして潜在意識に布教成功を植えつけた彼らが未開地の布教に次々と成功を重ねて行ったのは当然のことであった。

さてこうして鍛えられたイエズス会宣教師にも殉教する者と転ぶ者が出た。この差は結局本当に神を見た者と見ない者の差なんだろうと思う。本当に神を見ない者でもその人の適性が合えば優秀な宣教師になれるが、穴に吊るされた段階で、その人が本当に神に出会ったかどうかが確かめられてしまう。自分というものが少しでも残っていれば、ダメ。

それはとても残酷なことだが、一度でも神に出会った者は、不退転であるから、諸悪莫作衆善奉行(悪いことはしない、善いことだけをする)となるので、神を棄てることなどはないことを逆に証明してくれているように思う。

このテクニックは、拷問ではあるが本質は逆洗脳である。逆洗脳はカルトからの脱出手段として、現代ではよくあるものだと思う。ただしこの事件では、拷問する側が圧倒的に有利な状況なので、通常の逆洗脳とは同列には論じられないけれど。


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タロット

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最も効率的な利殖方法

2007-01-20 07:28:34 | マインド・コントロール
◎神仏の禁忌(タブー)を犯す

株だ投信だと利殖にさとい我々は、神仏についても、より効率のよい神仏を求めたいと思うものだ。ここは宗教が禁止されている中国ではなく、信教の自由の認められている天下の日本だから、そう考えるのは当然のことである。またできれば、宗教行事に事よせて御布施や寄付を沢山持っていくところは避けて、少ない金額で大きなご利益(りやく)のある宗教がよいというのはとても合理的な判断である。

でもこういう考え方って、全然宗教味がなくて、ほとんどグローバル分散投資戦略を考えるトレイダーみたいな、ひたすら資金運用成果を求めるだけの、単に利己的な自分中心主義に見える。

そうた考え方では、自分の欲望を全人的に叶えてくれる手段が神仏でないということがわかれば、あらゆる願望をできる限り実現するという目標に向かって、自ら努力していくことになる。そういう人にとっては、神仏はちょっとした迷信の一つに成り下がる。

日本では一般的な考え方ではないが、南米なんかの国では、複数の宗派に入信すれば、御利益は入信した宗派の数の分だけ増えるという考え方の下に、キリスト教系、仏教系、土着シャーマニズム系を問わず、複数宗派に平気でガンガン入信するを良しとするところまである。神仏による願望成就効果が、若干ではあるが確かなものであると見る場合の極点は、そういう姿になるだろう。


でも何事も理知的合理的に解釈する日本人は、○○祈願のため神社に絵馬を奉納しに行ったりする癖に、その効果については半信半疑である。日本では、人によっては、神仏はおらず、勿論神仏がその願望を引き受け実現することすら眉唾ものだと考えている人も、我々の周辺には決して珍しくないものだ。

したがって私のように実体験はない癖に、真面目に神仏の実在を確信している人は、そのような合理的常識的な人から見れば、「変な人」「浮いた人」と捕らえられているものだ。

ところがその合理的常識的な人達が多数決に基づいて作り上げた日本の国家、社会、家庭のあり様にあらゆる問題が噴出して来ている。政党が悪い、制度が悪い、法律が悪い、教育が悪いとマスコミ報道では毎日繰り返すけれど、本当の問題の根源は、自分自身のその常識的・合理的とされる彫りの浅い考え方にある。

労せずにもうけることを最上とする功利的考え方そのものが問題なのである。利息をつけて金を貸すことはキリスト教でもイスラムでも禁止されてきたように、神にもとる行為だった。物事は、霊界で実現して、後に現実に実現する。労せずにもうける場合、霊界で労せずに儲けることが先行するが、ここに神仏の(禁忌=タブー)を犯す部分があるのではないだろうか。神仏の(禁忌)とは利己のこと。


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あらゆる願望が叶う方法

2007-01-19 05:12:53 | マインド・コントロール
◎ちょっと得しない何か

人は何かちょっと実現しそうもない願望を持って、簡単な努力で手が届きそうもないことがわかると、ショーウィンドウの商品をじっくり覗き込むように、「さて一体どの宗教やメソッドに入れば、自分の気持が美しく崇高なままで願望を成就することができるのか」と、いろいろな宗教書を読みあさったり、グルを捜してみたりするものだ。

でも、そんなこんなで、神様が自分の願いをすべて聞き入れてくれるわけではないことがじわじわと判って来ると、それでも「こんなに純粋な思いの俺の気持を、神様が聞き入れてくれないはずはない」などと、いろんな聞き知ったことや読んだことの中で自分に都合よく解釈できることだけを覚えていて、きっとこの神様・この仏様を一生懸命信心すれば、どんな願いも叶わないはずはないなどと思い込んでは、いや待てよと思い返し、その繰り返しを何回でもやるものだ。

やれ人間には無限の可能性がある、やれ思う一念巌(いわお)も通す、どんな欲望でも必ず実現する方法がある、などと耳に快いコピーフレーズはいくらでも有るものだ。

でもそんな自分に都合がよい方に考える癖も、何年か経つうちに、自分でも徐々に嘘っぽく感じられていくにつれて、次第次第に底が割れて正体が見えてくるものだ。要するに神・仏とは、自分のすべての願いを叶えてくれるわけではなく、本当の願望しか聞いてくれないちょっとケチな野郎じゃないかとわかり、むっとしたりすることになるのだ。

自分の本当の願望が何かってことすらわかっていない自分にとっては、これは結構ショックだから、このことを受け入れるには何年も、いや人によっては何百年もかかるんだと思う。

だから人によっては、狼狽して「神・仏とあろうものが、人の願いを選別して少しだけ叶えるなんてことはない。うちの神はすべて叶えます。」などと安直な宣伝に走ったり、「当教団の信者の願望は、信心が足りていれば、すべて叶う」などと安うけ合いをしたりすることもあるのではないだろうか。

現代人が本当に期待するところは、無条件に我が欲望をすべて実現してくれることではあるが、その手段が見あたらない。このように現代人の欲望は極大にまで来ているが、それをすべて実現する手段はないという慢性的欲求不満の状態に常にある。

このようなロジックは、知性が発達して、ともすれば神仏を自分にとって「ケチな野郎」の一人とまで見がちな現代人の大方の見方というべきものに相違ないのだと思う。実体験がなければ誰も神・仏のことなど信じないほど知性が発達してしまい、もはや神仏の絶対性も希薄なものに感じるのが当たり前の精神状態にいる。神仏ですら、自分のすべての願望を叶えてくれるわけではないことを皆知っているのだ。

本来人間にとって、見返りを期待した信仰は、見返りを期待した瞬間にその真実味はなくなってしまうものだと思う。本当の信仰の最後には自分を捨てるステージが出てくるものだから、その時に堪えられなくなってしまう。

ところが、現代人にとって見返りを期待しない行動は論理的でないから、世間からはちょっとお馬鹿な行動であるとくさされる。「ちょっと得する何か」がない限り、他人を納得させることができないし、只働きする人は愚かなだけだと思われてしまうのだ。

冥想とは、「ちょっと得しない何か」そのものなのである。でも冥想の無限の可能性はそこにあるが、誰もそこに可能性のあることすら証明することができないのだ。

神や仏の体験と呼べない体験をした人は、必ず「いまここで、あなたに対してすべてが与えられている」などと語る。でも了見の狭い我々は、その言葉が文字通りのものであることは、少しは想像することはできても、『本当にそうであることを確認する手段が、「ちょっと得しない何か」である冥想だ』なんて、非合理的なことは、他人に口にすることもはばかられることだと感じている。

ここに唯一の解決手段である冥想が、現代人には全く省みられない合理的ロジックがある。

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願望成就法・開運法をチェック

2007-01-18 05:33:29 | 究極というものの可能性
◎欲望のレベル
人には実現すべき深いレベルの欲望と、思いつきに近い浅いレベルの欲望がある。大方の人にとっては、自分の魂の伴侶、魂の愛人をも見分けることができずに、二番手、三番手以下の異性を、一生懸命恋愛の対象と見たりするものだ。そのように自分のもっとも深いレベルの欲望が何であるかを自分ではっきりと自覚している人は、それほど多いものではないと思う。

思いつきに近い浅いレベルの欲望とは、たとえば金、名誉、地位、権力、セックスのようなものだが、このどれもが万人にとって絶対に達成しなくてはならない欲望として、意識の最深部に定着しているものかと言えば、決してそうではないことがわかるだろう。

世の中には、運気を良くする方法や、願望が簡単に叶う方法というのがあって、その原理とするところは、それなりに根拠がまったくないものだとは言えないと思う。ところが、運気を良くして実行しようとする事が曲がったことであったり、簡単に叶えようとする願望そのものが歪んだものであったりした場合には、運気改善し、願望成就することは、本人にとって歓迎すべからざる結果になる可能性が高い。

つまり最初にチェックを入れるべきところは、運気でもなく、願望成就メソッドでもなく、自分の本音で一番やりたいこととは何かという最深の願望とは何かということなのである。

イエスでも釈迦でも、人の思いは現実に実現することを認めている一方で、必ずどんな些細なものでも個人の勝手な思いだけでこの世に実現するものなどないこともまた強調しているものである。とどのつまりは、人の思いの中で実現するものは、最深の思いだけなのだ。

このあたりに、開運法や「簡単に希望が叶う方法」の限界と問題点があるように思う。


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虐待と開運

2007-01-17 04:16:58 | 究極というものの可能性
◎意識の深まり

およそ家庭内暴力で虐待される人は、妻だったり、子供だったりするのだろうが、それは、占い者や前世のカルマ好きの霊能力者から見れば、不運そのものである。

でも人間にとって不運とは、限りある肉体を背負って、限りある寿命の中で、目的のわからない旅を、つまり何のために生きるのかわからないという人生を送ることこそが不運という言うべきものだろう。そして何のために生きるのかわからなかったままに死ぬ。

その旅路の中で、毎日のように継続的な言葉の暴力、肉体への暴力が繰り返される場合、これを虐待と呼ぶ。虐待経験者にとっての虐待される環境から脱けだすことが、開運ということになるのだろうが、開運とはその人にとって本当に幸福といえるのだろうか。開運することも不運であることも、人は生れて、生きて、死ぬというのに、その上、何を問題だと評価するのだろうか。

現代文明というものは、せんじ詰めれば、欲望満足のマニピュラ・チャクラから終着点である愛のアナハタ・チャクラに至る中途の中有レベルである。
現代人の一生という問題で、この中有に留まったままで死んでしまえば、またアナハタ・チャクラに到達するまで輪廻転生を繰り返すことになるだろう。

金、名誉、地位、権力、セックスを思いのままに手に入れることは、開運そのものだが、それらをすべて手に入れたとしても、アナハタ・チャクラ=本当の愛=大慈大悲というものに触れることがなければ、何の開運の意味があるだろうか。

その逆に金、名誉、地位、権力、セックスもない、家庭内虐待の被害者である自分は、世間的には不運そのものだが、どれもないままで、愛が世界に満ち満ちていることを確認できることがある。それが宗教の役割というべきものだろう。

困っている人に対して、とりあえず金、名誉、地位、権力、セックスを手に入れる手段を提供するのは、決定的な手法ではななく、回りくどい手法というべきもので、その人が金、名誉、地位、権力、セックスという目先の欲望満足できるものを失えば、もとの木阿弥となり、また目先の欲望を追いかけることになり、常に最後の目標である愛には目を向けないままとなる。

つまり世間的な開運手法である金、名誉、地位、権力、セックスを手に入れる手段の提供は、本質的な意味では、本当の幸福とはほとんど関係ないのである。

愛とは、神の七つの属性の一つであり、「それも愛、たぶん愛、きっと愛」という情緒的ないい加減なものではなく、そもそも人間の側のものではない。愛を知るには、冥想による意識の深まりによることが近道になるだろう。

そうはいっても、人には実現すべき深いレベルの欲望があって、それを実現しないことには次のステップへ行かないという欲望もあることは実感している。


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米兵の遺品

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