アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

錬金術の知的理解

2006-11-30 05:23:16 | 錬金術
◎彼らにとっては謎に非ず

知的理解と言えば、錬金術ほど人の知的理解の限界をあらわにしたものはない。

錬金術では、いろいろな寓意で説明されてはいるが、定番の謎と言うべきものがいくつかある。それは、錬金術を行うための容器・炉であり、賢者の石であり、金の原料となる第一物質であり、あらゆる物質を溶かす液体アルカヘストなどである。

これらが謎のままとなっている理由は、錬金術師が、常に生命の危険にさらされていたからだと一般には考えられている。

錬金術師は、しばしば王侯に召し抱えられており、安価な原料から金を作ってみせることで、軍資金や秘密活動の資金を捻出したに相違ない。ところがこうした技術は常に悪用され易いもので、自分が私的にその技術を独占してうまく立ち回りたいと考える輩が必ず出てくるものである。

そうするとやがて王侯から錬金術師に対して、その錬金術のノウハウを公開しろと迫られることになる。錬金術師は、その要求を拒否して、投獄され、拷問され、死刑になったりしてきたものだ。だから正気の社会人が見てもわからないような寓意に満ちた内容で、錬金術書は出来上がっているという説明をされていることが多い。

おそらく真相はそうではなく、人間の世界観では理解できないビジョンを、ありのままに描写しただけであって、ありのままであるからには社会常識をベースにした頭では、当然理解できないだけのことではないだろうか。

バラ十字会会員で錬金術師だったクンラートの「永遠の知恵の円形劇場」の版画のひとつがこれである。

左のテントである聖なる室で、膝まづくのがクンラートで、 テントの上には「悟ることなくして神を口にすることなかれ」と書かれてある。なるほど悟りのない人間が口にする神は、たわごとに過ぎない。

テントのテーブルには二冊の本があり、聖書の方は詩篇の「かくて彼ら大いに恐れたり、神は正しき出生とともにあればなり」正しき出生とは、一度死んだ後の再生のことだろうから、自分が一度死ぬ大死一番というものを人は本能的に恐れるものだ。人は一度死ななければ正しい出生はない。

もう一冊の本には錬金術の処方が載っている。

左下の香炉から立ち上る煙には、「祈りは煙の如く昇るだろう。煙は神の好みたもう捧げ物なれば」と書かれてある。人は無力な存在だが、ただ神に至るよすがとしてはただ祈りだけが有効である。

広間の右側には壁付き暖炉があって、実験室になっている。その梁には、聖なる霊感なくして偉大なるものなしと書かれている。世の中には、がらくたの霊感は数多いが、聖なる霊感だけが偉大なるものであることを、この絵の作家は知っている。

という訳で、錬金術も悟りが大前提となっているわけで、東洋の曼陀羅図と相違する点は、高級神霊が全く登場しないことである。高級神霊は悟りへの邪魔になるというデメリットの方を重く見て、錬金術師たちは、徹底的に高級神霊の表現を排除したのか、あるいはキリスト教の異端審問を恐れて、高級神霊の表記を断念したのだろうか。

観想をするにしても、このような何か口伝のようなものがあったのだろう。


    1日1善。1日1クリ。

実験室内の錬金術師

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修験道フリー・ウェイ-13

2006-11-29 04:29:06 | 修験道
◎修験三十三通記-11
(深秘分第二-螺緒(かいのお)の大事))-2

続いては、大峰修験中興の祖聖宝僧正の口伝。

螺緒は、理・智・事(母・父・子)の三点を表す。
左の緒は胎蔵界の理であり、母の陰。長さ二丈一尺でこれを曳き回しという。
右の緒は金剛界の智で、父の陽で慧。長さ一丈六尺で、これを螺緒という。

修験者は、(陰陽とも備えた)不二であり、(三分法で言えば)、理は母であり、智は父であり、事は(母と父から生れた)行者である。このことは、理をもって体と為し、智をもって性と為し、和合をもって(大日如来の)身と為す。つまり理と智が和合すると即身(自性=大日如来)であるということ。

他の宗派は、理と智は、もとより備わっていることを言うが、自性身(大日如来)がもとからあることを許しているものはない。

修験の意義は、人も仏法も仏法そのものであるから、理・智・事の三点がもとより備わっている。故に理である母、智である父から生れた我が身は、理智が合体した金剛不壊の法身の大日如来である。

禅定と智慧の二つの法は、コラボレートして、五智の種を生ずる。陰陽の父母は和合して五行(木火土金水)の子を成す。

経典では、梵字のバン(鑁)の字の法界は、種の形で、円塔のようである。理と智が異なるものではないことでこれを法身の体(大日如来)と名付ける。

まさにこれは、父母誕生以前の根源であり、仏法のままに徳を備えていることの内的証明である。あらゆる生きとし生ける者は、一つとしてこの螺緒を曳かない者はない。
これで、自性法身の窮極とは、金剛界、胎蔵界が合体したものであるということが、既にわかった。

以上は、修験者にとってのアヴァンギャルドな見解であるが、後世に修行する機根の劣った者を導くために、両流の秘伝を注記した。
境涯の高い修行者に対してでなければこれを示してはいけない。まして新参や大衆に示してはいけない。深く心に秘めなさい。

まあ、クンダリーニ・ヨーガの悟境の解説なので、あまり公開してはならないということです。でも、こんなことを知的に理解するのは容易だが、知的に理解できたからといって、何かが変わるわけではないところに、知性が発達したクールなリアリストである現代日本人の無神論的世界観の問題がある。

よって、修験の窮極の二元性と三元性から見た原理のところが知的理解できたとしても、冥想をする経済的、社会的な合理性を直観するのは極めて困難なので、ますます人は冥想しない。その上、冥想しようとする人は、変わり者や世間体が悪いものとして扱われ、肩身の狭い思いをすることが珍しくないのである。ところが冥想をしないことは、実は人として決定的な判断であったと、後に思うことがあるかもしれない。


    1日1善。1日1クリ。

螺緒

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修験道フリー・ウェイ-12

2006-11-28 05:27:43 | 修験道
◎修験三十三通記-10
(深秘分第二-螺緒(かいのお)の大事))-1

以下は、山伏の持つ法螺貝にことよせて、即身成仏というか、この身と大日如来が何一つ異なることがなかったという境地について、六大(地水火風空)などを用いて説明をしているもの。理屈で理解しただけでは何にもならないので、クンダリーニ覚醒でもってこの状態を自ら確認することが期待される訳である。

螺緒とは、法螺貝を包む紐組のこと。
法螺貝の貝は、梵字のバンの字のことで、智慧の本体であり、ありのまま(無作)の姿(三身=法身、報身、応身)の教義(法門)のこと。
螺緒とは、ア字のことで、出入りする呼吸のことであり二つにわかれた水が和合する源である。故に両方の緒をバンの字の形にこれを結ぶ。これはつまり二バン和合の形である。

経典では、二つの水が和合して、一つの円の塔となる。一つのバンの字となって斉しく三業(身業、口業、意業)を運ぶ。

口伝にいわく、根緒の5寸であるのは、五智のこと。両方の緒の長さを合わせると三十七尺となるのは三十七尊のこと。赤い色は智の象徴。緒が大きいことは、中身が空であるが、量ることができるから、智の働きのシンボル。

以上金剛界の智の門を表すが、この中に5色の区別がある。
黄色は胎蔵界の理を表す、赤は金剛界の智を表し、白は水輪のこと。黒はあらゆる存在(諸法)が未分化である極点を表し、青は五大(地水火風空)の窮極の色。

裏書きでは、片緒は、生の世界が分かれている様子。両緒は円満であり、衆生と仏が一体である意。

彦山の宝蓮上人の伝では、螺緒は、陰陽が同じものである(不二)事の根源で、金剛界、胎蔵界をつなぐ糸である。だから臍にへその緒がある。そこで腰下は、胎蔵界のア字で、腹は金剛界のバン字である。とすると真ん中にある臍は、金胎不二の位置にあるということになる。金剛界、胎蔵界は、我々の肉体と精神の異なる呼び名でもある。

色とは、五大(地水火風空)である物質であり、それが如来の身体そのもの(本有の理体(胎蔵界))である。
心とは、識大(精神)であり、もとより悟っていることで本覚の智徳(金剛界)と言われる。物質(色)と精神(識)で金剛界と胎蔵界の両部なので、凡夫であろうとも、その身以外のものに仏体を求める必要はない。

迷いも悟りも、凡夫も聖者もそのままであって動ずることがない。だから修行者の肉体も精神も大日如来の本体であり、金胎両界を包含する円い密壇である。四重円の諸尊は、それぞれの自性の蓮に坐している。九会曼陀羅(金剛界)の輪光は、もとより備わっている日輪を広くしている。

蓮華三昧経では、

もとより悟っている大日如来の本体(法身)に帰依します。
常に妙法心は蓮台に坐しています。
本来人は、釈迦のような三身(法身、報身、応身)の徳を備えている。
三十七尊は心の中におわします。
(続く)

金剛界曼陀羅は三十七尊というが、数秘術で、666の反キリストの数字も、777の十字架の数字も、888のイエスの数字も素数37の倍数となっている。金剛界は物質側ではなく、精神側であるが、37がこの世のいろいろなものの基本となる数字であることは、なぜか洋の東西を問わず知られている。


    1日1善。1日1クリ。

緒が組紐になっていませんけれど

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八幡大菩薩とは何か

2006-11-27 05:48:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎神道と仏教の混淆

神道と仏教の混淆の結果、神社の祭神を寺に祀った神宮寺があり、神道の神々の本地仏(八幡大菩薩は実は阿弥陀如来だったというようなものが本地仏) を祀った神宮寺ができた。

9世紀には、菩薩号をもらった八幡神が、延喜式神名帳に、「八幡大菩薩筥崎宮」などと見え、神社に祀られている例がある。

八幡神の源流は、大分県の宇佐八幡宮であり、神社は通常一氏族が神官を勤めるのに対し、3氏が神官を勤めてきているところから朝鮮渡来の神であるという説が有力である。

八幡神はこのように輸入神であるから、地域性もなく、土着性もないので、他の地方で勧請されやすいことになる。この結果、京都に勧請されたのが石清水八幡宮であり、鎌倉にドラフトされたのが鶴岡八幡宮である。

宇佐八幡は、東大寺建立の時に全国の神々に支援を要請したり、神輿が上京して建立を見守った。また元軍が来襲した文永の役、弘安の役では、戦勝を祈願するなど、宇佐八幡は国家事業に積極的に関与する護法善神の位置を占めてきており、当時から一貫して、神社としては伊勢神宮に次ぐ日本国ナンバー2の神社として存在感を示してきた。

9世紀には宇佐八幡に菩薩号が奉られ、仏教のヒエラルキーの中への取込みが図られたのである。

神々が寺に祀られる過程で、注目すべきポイントは、神は人間と同じく神としての苦境を脱出したいという誓願をもっているので、それを動機として寺に祀られたいと発心し、神は徐々に修行が進み、やがては菩薩に上がり、最後は仏と同体になるという考え方があることである。東大寺要録では、天照大神と東大寺盧舎那仏を同体と見ている
(底本:神仏習合思想の研究/菅原信海/春秋社)

神仏習合の最大の眼目は、誰がその全容を、霊眼で確認したかということに尽きるが、それに対する明確な回答にはまだ出会っていない。


    1日1善。1日1クリ。

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神仏を拝まない

2006-11-26 07:13:14 | マントラ禅(冥想法7)
◎どちらでもOK

日本には、もともと八百万の神々がおはしまし、その上仏教伝来後は仏教系の神々も輸入されてきたので、神々や諸仏のいることは、とてもにぎやかなことであった。

法然や親鸞が出てきて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動を始めたのは、非常に革命的なことであったに相違ない。何しろ天照大神、素盞鳴命から大日如来など数しれぬ大物神祇をさしおいて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動だったからだ。実際に法然や親鸞の当時は阿弥陀仏以外は拝まなかったようだ。

そうすると他の神祇を拝まないのは、拝んでくれない神祇からの天罰仏罰があるのではないかという不安がかき立てられ、親鸞直系の存覚の頃になると、「阿弥陀仏は、すべての神祇の本地つまり、あらゆる仏菩薩の総元締めであり、かつ天津神、国津神、八百万神の総元締めであるから、阿弥陀仏以外を拝むことは、阿弥陀仏を拝むことである」という理論づけに変わり、他の神仏を拝むことも容認して行った。

こうした流れからすると、日蓮の法華経に帰依しましょうという運動は、更に一歩大胆に踏み出したものに思われる。日蓮は、神仏ではなく、法華経への帰依を打ち出したからである。もっとも日蓮の大曼陀羅には、釈迦、多宝仏の他、天照大神や八幡大神も出てくるので、日蓮のイメージの中には諸神祇を排斥するつもりはなく、取り込んでいたつもりだったのだろう。日蓮自身も、虚空蔵菩薩に願をかけたり、諸神霊の加護に祈念している

なお、このブログでは、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もマントラ禅の分類にしており、マントラになりきることによるマントラ・シッディによる大慈大悲・愛の直観が本質と見ているので、神でも仏でもどちらでもOK。


    1日1善。1日1クリ。

祈りの時間

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薊子訓が道を語る

2006-11-25 07:01:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎出会いは一瞬

『薊子訓(けいしくん)は、中国漢代の斉の人。親孝行で素行が清廉であったとして、政府から表彰された人。田舎で易経を読んで閑居していた。ところが三百年たっても老けなかった。

ある日、隣家の人が赤ちゃんを抱いているのを見て、子訓も抱かせてもらったところ、子訓が手をすべらせて地面に取り落とし、赤ちゃんは即死した。
隣家の人は子訓を尊敬していたので、怪しむことなく、これを埋葬した。

20日ほどたって、子訓が隣家の人に、「いまでも赤ちゃんのことを思い出しますか」と聞くと、隣人は「あの子の運勢から見て成人できそうもなかったことですし、それに死んで何日もなるので思い出すことはありません」と答えた。

答えるやいなや子訓は外に出て、すぐに赤ちゃんを抱いて戻ってきて、隣人に赤ちゃんを返した。隣家の夫婦が赤ちゃんを埋めた墓を掘り返してみると長さ6、7寸の泥人形が残っているばかりだった。

ある時子訓は、政府要人の23家に招かれた。子訓は、23家を同時にバラバラに訪問し、かつ面会した時間がすべて同時で、服装も容貌も異なることがなかった。その時、要人たちは、子訓を訪問してもっと話を聞きたいと、揃って希望したが、

子訓は、
「もうわしに会ってしまったからには、私にはもう道について語るものがない。わしは帰るぞ」と驢馬に乗って東の大通りをゆっくり帰って行ったが、追いつこうとした23家の車馬はいくら追いかけても追いつくことはできなかった。』
(平凡社/神仙伝から引用)

本物の覚者との出会はこのようなものなのだろう。道は最後には自分で掘り起こしていくものであって、他人から教えることなどできない。とても現代風であっさりした応対だが、覚者と出会うのは難しいことである。


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ワーキングプアの増加

2006-11-24 05:58:56 | 時代のおわり
◎冥想する余裕もなく

ワーキングプアの問題は、ニート、引きこもりと並んで日本人全体の貧困層増加の一つのシンボルである。自民党が再チャレンジを重要課題と位置付けなければならないほど、日本人の貧困層の巨大化がのっぴきならないところまで来ているのだと感じさせられた。

ワーキングプアは、いわゆる正社員でない人で、一生懸命働いても年収300万円以下の人達のことで、全国に650万人いると推定されている。これは、ニート64万人、ひきこもり41万人と合わせれば、約750万人という埼玉県の人口並みの大勢力である。

今年ももうすぐ冬のボーナスの時期で、戦後最長の景気回復期の真っ只中にあるという政府マスコミの宣伝とは裏腹に、都道府県の地方公務員の冬の平均ボーナスの金額は80万円弱であるのに対し、民間の平均ボーナスは半額30万円代であるという状態である。北海道や沖縄県や和歌山県などの特定不況地域と目される地域の民間ボーナスはもっと低いのだろうと思う。つまり公務員の豊かな生活を素寒貧の民間が支えているという構造が、ここ数年続いている。

マスコミは、主要企業のボーナスが公務員のボーナスを上回っていることしか報道しないから、このようなお寒い世間相場の実態は、新聞やネットを注意して見ないとわからない。

公務員から見れば、ワーキングプア、ニート、引きこもりがもっと高額の賃金で働いてもらわないと自分たちの税収が上がらず、所定の年収も確保できない。だからこんな人達に再チャレンジしてもらわないといけないと考える。

逆にワーキングプア、ニート、引きこもりについては、政府の金による福祉の充実が必要であるという視点も勿論ある。生活保護申請の門前払いをやめるのもそのひとつ。

いずれにしても、世の中全体の高い収入を得ている人達が、構造的に、自分たちの収入をワーキングプアの人達に吐き出す制度なり、覚悟なり、社会的通念・合意なりができていかないと、それは治安のますますの悪化につながっていくことになるだろう。

能力も意欲もあって、毎日奴隷のような最低限の食べて寝る程度の生活しかできない若者や中年がこのように増えたままになれば、その社会や政治に対する不満を背景として、やがて安直なイデオロギーやカルトを中心として糾合され、反政府、反社会的活動に組織されていくのは、どの国の歴史でも繰り返されてきたこと。

政府もバカじゃないから、較差社会の容認政策を継続した結果、貧困層が増えすぎたので、再チャレンジという対策を打とうとしている訳である。

日本全体では、全員が食べられて、『人並みの生活をしている』という実感がなければ、人並みの生活水準に到達するまで、仕事をかけ持ちしたりしてみるものだが、それも限度がある。

最も問題なのは、食べることだけに追われる人にとっては、『本当に生きたい』とか、『本当の自分とは何か』とか、『何のために生きるのか』という人間にとって最も本質的な問題に取り組む心理的、時間的余裕がなくなってしまうことである。近代的自意識がここまで発達した人間が、そうした余裕を奪われた場合、人は簡単に自殺や発狂に追い込まれてしまいそうなことは、なんとなく想像ができるのではないだろうか。

アセンションだ、フォトンベルトだ、ピースフルだという以前に、自分も世間も貧しい生活をする覚悟があるかどうかがまず問われてしまう時代に入ってしまっているのだ。

こうして、日々冥想する余裕のない人が増えていき、カウントダウンが進んでいく気配は高まっていく。


    1日1善。1日1クリ。

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一言主の神の由緒

2006-11-23 07:31:22 | 修験道
◎善事も一言、悪事も一言

役行者を伊豆大島に島流しにした勢力は、一言主の神であるが、一言主の神の出自も実に不思議である。これは古事記に出ている話。

雄略天皇が葛城山に登った時、お供は紅い紐をつけた青摺り染めの衣服を賜って着ていた。そのときその向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあり、天皇の行幸と同じ隊列、装束で登ってきた。

それで雄略天皇は、「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と問うた。すると先方の行列も「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と同じ言葉で問い返してきた。

それで雄略天皇は、怒って矢を弓につがえ、お供も矢をつがえた。すると向こうの人たちもみんな矢をつがえた。
雄略天皇は、「それでは、まずそちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放ちましょう。」と言った。

向こうは答えて「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、善いことも一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神である。」と言った。

雄略はこれを聞いておそれかしこまって、「おそれおおいことです。わが大神よ。この世の方であろうとは存じませんでした。」と言って、自分の太刀や弓矢を始めとしてお供の者着ている衣服も脱がせて、拝んで献上した。

このときその一言主の大神は、手を打ってその献上されたものを受け取った。そして雄略が帰る時、山の麓に一言主の大神一行が集まって、長谷の入口まで送ってくれた。
この一言主の大神はその時に初めて顕れたのである。

『善事も一言、悪事も一言、言い離つ神』とは何か。天皇の行列に、わざわざ贈り物欲しさだけで登場してくる高級神霊はまずいない。

これは死者の書や臨死体験でよく出てくる、自分の人生が鏡に一連のドラマとして見せられて、次に一瞬で、その人の行く先を地獄、極楽に振り分ける閻魔大王のことではないのだろうか。あなたの一生で為した数々の善事を一言で、また数々の悪事を一言で、計量、評価してみせられるのは閻魔大王しかいないだろう。

だから、これは単に奈良の葛城山のローカル神仙のことではあるまい。

従って雄略天皇は、葛城山中で神事を行ったところ、閻魔大王のビジョンを見て、恐れ畏しこみ、太刀、弓矢など献上したというのが真相に近いのではないだろうか。

これは、大燈国師が花園上皇に召された時に、上皇が「仏法不思議、王法と対座す」と問うたのに対して,大燈国師が即座に「王法不思議、仏法と対座す」と切り返した様子とシンクロしている。

後世に一言主の相対的地位は、日本書紀や日本霊異記などで、徐々に天皇より低いものにされていくが、天皇が民間勢力にへりくだるのはまずいという理由があったのだろうが、そもそもはこのようなことだったのではなかろうか。

なお、全国の一言主神社は、一言だけ願いを叶えてくれる、人気の神社だそうです。

    1日1善。1日1クリ。

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物質と現象を超えた純粋無雑

2006-11-22 04:52:33 | 老子
◎老子第21章 孔徳之容

道そのものの説明として、は、有るのでもなく無いのでもなく、永久に存在し続けており、純粋無雑なものとしている。有も無も知り得る者は、それを超えたものを知る者のみである。老子がそれをなぜ知っているかというと、老子は道を体得しているからである。

ここで老子の居る高みを確認することができる。

『盛徳を身にもっている聖人の生き方(孔徳之容)は、そのすべての行動が、無為の大道と全く一体である。

この無為の道なるものは、原来手にもつかまえられず、眼にも見えないものである。それでいて、ないものかというとそうではない。それは存在するものでありながら、われらの感覚によって捕まえることのできないものである。

従って道なるものは、常識的な科学的な概念としての有無にかかわらない存在でありながら、その中に万物の象(すがた)をあらわし、形をあらわすのである。

道なるものは、そのように、有るのでもなく、無いのでもない、感覚的にはとらえがたい、定かならぬものであるが、しかもその中に物象を超えた純粋無雑なあるものを持っている。

そのものたるや天地を貫いて存在する真実なものだ。その中に古今にわたって欺かざる信(まこと)がある。

だから、古から今に至るまで、その道なるものは存在し続けていて、この世界の万物の生々化々をあらしめているのだ。

そもそも私が万物の生々化々の原理を知っているのは、この道なるものを体得、認識しているからだ。』

    1日1善。1日1クリ。


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蔵王権現の謎

2006-11-21 05:59:33 | 修験道
◎人工的イメージの匂い

金峯山秘密伝によれば、天智天皇の御世に、役行者が金峯山の大峰山頂で修行をしていた。役行者は、末法の世にふさわしく、濁世に現れる魔物を退治できる強力な仏の登場を祈願したところ、まず過去仏として釈迦が現れ、次に現世仏として千手観音が現れ、次に未来仏として弥勒菩薩が出現した。

役行者はこの三仏の出現に納得せず、更に祈念を凝らしたところ、突然忿怒の顔をした青黒い蔵王権現が出現したので、これを降魔の尊像としたとされる。

一方最も早く金剛蔵王が登場するのは、天平の頃。

天平19年(747年)大仏の鋳造が開始された。その時、聖武天皇は良弁法師に、「金峯山の土地は皆黄金だという噂なので、金剛蔵王に祈って金を手に入れて、大仏鋳造に役立てたらどうだ」と申しつけた。

良弁は、早速金峯山に登って祈願したところ、金剛蔵王が夢に現れて、この山の黄金は採掘してはならぬと禁じたという。

このようにして当時から様々な人の潜在意識下に登場したはずの蔵王権現であるが、その彫像を見るとほとんどすべてが右手を上げ右足を上げたスタイルなのはどうしたことだろうか。

霊界の永続するイメージとして蔵王権現が存在しているならば、いろいろな人が、生き生きと活躍する蔵王権現を見て、その塑像が作成されているはずだが、そうではなくこのポーズだけである。その理由としては、見た人が良弁や役行者に限られ、蔵王権現を見なかった人が説話から想像のみで制作してしまったか、あるいは、実際蔵王権現のビジョンを見た人がいないか、どちらかではないかということである。

蔵王権現は、金峯山のローカル神霊ではあるが、鎌倉から南北朝にかけていろいろな説話が付け加えられてはいるが、全くポーズが同じということから、人工のイメージの匂いを感じてしまう。単純に忿怒ポーズのバリエーションが少ないということでもないと思う。


    1日1善。1日1クリ。

蔵王権現/奈良 如意輪寺

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月と太陽のイメージ

2006-11-20 02:31:48 | 錬金術
◎智慧と慈悲
    
ラーマクリシュナ流の言い方をすれば、太陽を岸辺のない海とすれば、その中のとても冷たい氷の塊が月である。月とは決まった形を持たない太陽が、人間の願いに応じて形をとったものであるが、太陽が昇ってしまえば、智慧の覚醒とともにその氷は溶けて、無限にして形のないブラフマンとなる。それで人は慈悲を冷たい月の光にたとえ、智慧を太陽の燃える光線にたとえる。

このように月は自分を犠牲に供して、死の世界である太陽にはいることによって永遠の命を得ることができる。月は死と生というどちらか一つの側面を選ぶ運命を持っているが、太陽は最初から死も生も含んでしまっている。満月の日には、月が西の地平線に沈み死を迎えた瞬間、東から太陽が昇る。これがこの世の秘密のダイナミズムとされる洞察なのだろうと思う。

勿論表面的には、月は生成流転する現象世界の代名詞でもあり、太陽は永遠に変わらぬものの代名詞でもある。しかし世界の宗教的な絵画やシンボルで太陽と月が並んで登場する時には、このようなダイナミックかつ深遠な意味で登場してくるものと見て間違いないのではないだろうか。


    1日1善。1日1クリ。

錬金術書・太陽の輝き


アルブレヒト・デューラー/受難

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正力松太郎と禅

2006-11-19 07:41:31 | 丹田禅(冥想法8)
◎WBCと臨済禅

今年の正力松太郎賞は、「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)日本代表の王貞治監督(66)(ソフトバンク監督)が、受賞した。WBCでは、疑惑のタッチアップ判定による米国戦の惜敗や、韓国に2度破れた後、準決勝では圧勝し、決勝に駒を進めるという劇的な展開で、日本人の注目を集めた。

王采配は、準決勝韓国戦での代打福留のホームラン、決勝キューバ戦での渡辺投手の早めの交代など随所に冴えを見せた。イチローも、かつてないリーダーシップを見せ、松坂や、上原、小笠原、福留らスター選手をまとめて優勝に貢献した。

さて正力松太郎(1885~1969)は、戦後日本のテレビ界の盟主であり、プロ野球界の盟主であり、芸能界の盟主であった。
正力は、旧内務省の警察官僚出身の人、大正13年難波大助が、昭和天皇(当時摂政宮)のお召し自動車に発砲した事件の責任を問われて免職となった。
これを契機に読売新聞を買収し、これから終戦まで読売新聞を大新聞として育て上げた。

昭和10年には、暴漢に首筋を切り付けられる大怪我を負った。酒も飲まず、タバコもほとんど吸わず、毎朝冷水浴をする健康的な生活と、柔道で鍛えた首の筋肉により、この怪我は致命傷とはならなかったとされ、事件の4か月後には社会復帰した。

終戦後A級戦犯として巣鴨に収監されたが不起訴となった。終戦後は日本テレビを中心に活動し、衆議院議員当選後、岸内閣で科学技術庁長官兼国家公安委員長となる等したが、フィクサー的な活動も多々あったようだ。

人生全般としては、幾多の障害に出会っているが、その度にそれをはね返し、元警察官僚としてのネットワークと持ち前の一貫した権勢欲により大をなしたという印象がある。

東京帝大を出ているが、当時の学生が禅寺で修行するのは珍しいことではなく、禅というものが、精神形成に役立つということが、当時は社会で広く認知されていたことがうかがえる。今とは隔世の感がある。

というわけで正力松太郎も在学中に講道館で柔道するかたわら、下谷の臨済宗勝峯大徹の膝下で修行を始めた。最初は数息観から入って、後に無字の公案を与えられた。勝峯大徹は、正力のは見込みがあるので、大学を卒業しても就職を焦らず、禅をやることを勧めた。就職を一年延ばしても、百万両には替えられないぞ、みっちり教えてやるとまで大徹和尚は言ったが、肝心の大徹和尚が正力が大学を卒業する年に亡くなった。

それ以後正力は禅から遠ざかったとされ、どうも正力は、見性までいかなかったのではないだろうか。

というのは、正力の日蓮信仰である。正力は、襲撃事件で命を助かったのは日蓮への信仰のお蔭と考えており、それが終生の口癖だった由。また襲撃事件後の下部温泉療養中に、日蓮ゆかりの身延山に参拝して、日蓮の悪戦苦闘の一生を忍び、思親堂ではらはらと落涙にむせんだとも伝えられる。高級神霊である日蓮の慈愛を体感して落涙することについては、人としてあるべき感性ではある。そういう見方も勿論あると思う。

しかしこれは、日蓮信者であれば何も問題ないが、禅者としては、いかがなものか。禅者ならば、釈迦に逢ったら釈迦を殺せ、達磨に逢ったら達磨を殺せと言うくらいなので、日蓮に出会ったら日蓮を殺せというに相違ないからである。日蓮は自分の外にはないからである。

禅がフィットする人もあり、日蓮がフィットする人もあり、自分にマッチしたのを人は選び取る。

    1日1善。1日1クリ。

ニューヨーク・タイムズスクエア


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修験のパワー・スポット

2006-11-18 06:22:31 | 修験道
◎人が去れば、地を巡る

修験で基本的な疑問点がひとつあって、それはなぜ峰々を経めぐって修行の場としなければならなかったのかということである。

奥駆けなど峰々を廻り歩くことが第一義的に必要なことであれば、役行者は37歳まで待つことなく、肉体の力の横溢した20代から回峯しているのが常識的な手順になるのではないだろうか。役行者はそれまでに箕面山、葛木山を主たる修行場としてはいたが、奥駆けへのトライは遅かった。

そしてもう一つ考慮すべき点があって、修験はクンダリーニ・ヨーガなので、そのステージがある程度深まったところで、働いたり托鉢したりして食を入手するという、「日常生活」ができなくなる段階が到来する。それは、冥想にしか専念できない時期ということになるのだが、そういう時期には、山の峯々を縦走しながら、露命をつないでいくことは困難だろうと考えられる。誰か他の人に生活の面倒をみてもらわないとならない。そうした施設があることも条件。

さて、ある程度精妙なるものについての感受性が開くと、この寺社は神気が高いとか、霊的パワーの評価をやるものである。そういったことに関心が高いブログは非常に多く、ヒーラーを称する人達が、頻繁にそうしたパワー・スポットを訪問して感想を述べる中にそのパワーの評価が入っているものである。

どうもパワー・スポットには2種類あって、地のパワー・スポットと人のパワー・スポットがあるようだ。地のパワー・スポットとは、修験で巡礼地とされているところで、出羽三山、鳥海山、早池峰山、伊吹山、石鎚山等々日本全国北から南から、修験の聖地とされている場所。そうした聖地には人が集まるものである。

人のパワースポットとは、覚者のこと。大日如来(仏、神)に出会えば、その人のバイブレーションは、不退転の精妙なるものになるので、その人はいわば「人のパワー・スポット」となる。そして、人のパワー・スポットにも往々にして人が集まるものである。

たまに、いろいろな新興宗教遍歴をしている人がいるが、こうした人は、新興宗教の教祖廻りという、いわば人のパワー・スポット廻りをしているようなもの。パワー・スポットであった教祖が亡くなると、往々にしてそのパワーに集まっていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなるのは、そのパワーに依存して修行していたのであるから、当然の流れということにもなろう。世間では、教団内の権力闘争だけが関心を呼ぶが、真面目な求道者にとっては、パワースポットがなくなることの方が死活問題である。

従って人のパワースポットがなくなると、やむなく地のパワースポット巡りを開始するということは、どうもありそうなことである。人のパワースポットが生きていれば、そんなことをする必要はなかったのだろう。

今の時代はすべての人が、人のパワースポットとなることを期待されている時代とも言えるが、如何せん人のパワースポットは、あまり出ているとも思えない。
いずれにせよ修験は、地のパワースポットを巡るカリキュラムであると考えられる。役行者が37歳で奥駆けをスタートしたのも、師匠が亡くなったなど、そうした事情があったのかもしれない。


    1日1善。1日1クリ。

インドの聖者祭りKumbh Mela


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ラーマクリシュナのクンダリーニの上昇

2006-11-17 06:15:06 | 究極というものの可能性
◎サハスラーラへかろやかに

これは、19世紀インドの聖者ラーマクリシュナの言葉。
『ある時は、霊的な流れが、蟻が這うように背骨を通って上昇する。

ある時は、三昧(サマディー)において、魂が神的な恍惚の大洋の中を魚のように悦ばしげに泳ぐ。

ある時は脇を下にして横になっていると、霊的な流れが私を猿のように押して、私と楽しそうに遊ぶのが感じられる。

私はじっと動かないでいる。するとその流れが猿のように突然飛び上がり、サハスラーラに到達する。君たちは、私が出し抜けに飛び上がるのを見ることがあるだろう。これがその理由なのだ。

またある時は、霊的流れがひとつの枝から別な枝に飛び移る鳥のように、舞い上がることがある。それが止まった場所は、火のように熱く感じられる。(中略)

ある時は霊的流れが蛇のように昇って行く。ジクザグの道を通って最後には頭に到達する。すると私は三昧(サマディ)に入る。人間の霊的な意識は、そのクンダリーニが活性化されて初めて覚醒するのである。』
(宇宙意識/人文書院/J・キャンベルから引用)

霊的な流れは、クンダリーニのこと。クンダリーニは、まだムラダーラ・チャクラに眠っている時は、とぐろを3回半巻いた形で眠っているとされる。

クンダリーニとか、サハスラーラを求める人は、この世の成功や、開運や、暗剣殺や、縁起が悪いとか、家庭環境が悪いとか、財産をもう少し増やしたいなどの、あらゆるものを捨てて修行に入ることがまず前提。

サハスラーラへの道とは、この世のあらゆるものを踏み越えて冒険に出る、真の勇者の道なのだ。それは肉体サハスラーラやエーテル体サハスラーラ・チャクラに留まるものではなく、まずメンタル体上のチャクラが目標となろう。。

金も欲しい、異性も手に入れたい、名声も権勢も操ってみたいという状態では、その修行過程で求められる精妙な感受性以前である。まずこの世のあらゆる楽しみを見切ったところがないと、『おいでになる場所が違っている』ということになる。

そういう人は、開運・健康・癒し・デトックス・利殖など現世ご利益をプロモートする所に行くべきであって、決してチャクラとか、クンダリーニに手を出してはいけないと思う。


    1日1善。1日1クリ。

青銅の蛇(ムラダーラ・チャクラに眠るクンダリーニと同様に3回半とぐろ/パリのギメ博物館/中国の春秋戦国時代の作品)

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他人の不幸を喜ぶ

2006-11-16 05:49:46 | 時代のおわり
◎日本のマスコミの根本精神

長距離列車に乗る時など、週刊誌を熟読するときがある。読後に必ずと言っていいほどの不快感に襲われ、なんでこんな雑誌を編集するのだろうと辟易することになる。

みんながみんなそう感じるとは思わないが、ここに日本のマスコミの根本精神が隠されている。その根本精神とは、「他人の不幸を喜ぶ」という気持のことである。

学校のでのいじめをテレビ、新聞、雑誌で大騒ぎするが、根本的な解決策を示さず、当事者である学校を糾弾するだけ。生徒の父兄は、直接の当事者ではないので責任はないとされる。じゃあ、何のために大報道しているのかと見れば、一種の権威である学校が困るところを見たいという「ねたみ」「やっかみ」が見え隠れする。

幼児の虐待事件も、法的な権限も人手も足らない児童相談所と虐待の加害者が糾弾されるだけ。再発の防止策も、加害者がどのような生い立ち、心理形成を経てそのような虐待に及んだかを分析して、たとえば「そうした境遇に育つ人の○%は必ず幼児虐待に及ぶものだから、そうした境遇の人をなるべく作らないようにする」などの根本解決策の提示はなく、ただテレビ、新聞、雑誌は騒ぐだけ。

給食費を払わない人のことも、学校側がその経費負担に困る面と、払わない人の妙な理屈は、繰り返し報道されるが、
1.そもそも払わない人がそこまで追い詰められたのは単純に社会のルールを守るという道義心が欠けているだけなのか、
2.またその道義心はどのようにして欠けるに至ったか、
3.本当は2百万人と言われる多重債務者と給食費を払わない人たちは近い人達なのではないか、
などという検証の試みはなく、その場かぎりの座談ネタに終わっている。

マスコミの最もディープな報道方針とは、「他人の不幸を喜ぶ」「他人の不幸は蜜の味」という大衆共通の性質に訴えかけて、視聴率を上げ、販売部数を伸ばすという方針。そこに真実を伝達することにより政治や社会を正していこうとする、崇高なものはほとんどない。中にはまともな記事もあるが、とても少ないように思う。

「他人の幸福へのねたみ、やっかみ」は、日本の会社や役所の人事制度の根本精神でもあり、人事評価の平等公正や実績主義という名目の裏で、実は生意気な奴は出世させない、組織の安定・温存という本音の方針として脈々と存在している。

翻って、マスコミがその妙な報道方針を維持できることについては、愚劣な大衆である我々にも責任の半分がある。つまり、他人の幸福をやっかんだり、ねたんだり、不幸を喜ぶ気持がある限り、それはマスコミの問題ではなく、自分の内面の問題である。

そしてそうした気持が正しいものでないことを確認する手段は、その人に合うそれぞれのタイプの冥想を一日のうちに数十分でも持つことから始めるしかないのだが、残念ながらこの議論にあまり説得力はないのも現実。ただ冥想の中で、自分で実感してもらうしかないのだ。

    1日1善。1日1クリ。

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