アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

一日中嘘を言わないで過ごす

2006-10-31 05:43:34 | 冥想の準備
◎自分を守らないのが基本

私は、嘘をいうのは一~二週間に1回程度のものではないだろうか。嘘を言った後は心の中でしこるものであるから、そのしこりがいつまでも反響を繰り返してあまり気分の良いものではない。

嘘を言う時は、自分を守るためだったり、自分の立場が正しいと主張するためだったりして、自分のためにつくというのが、少なからず気に入らないのだ。

ずっと一日中家庭の中にいる人なら一日じゅう嘘を言わずに過ごすというのはそう難しいことではあるまいが、一日に仕事の中で何人もの人と目的を持った話をすることがあれば、なかなか嘘を言わずに一日を終わらせるということは難事である。

というのは、いろいろな人に話をする経過の中で、先の人に言った説明と、後の人に言った説明が食い違う形になり、結果的に嘘を言ったことになることがあるからである。

正直であることは、冥想修行者として当然の習慣であるが、自分が嘘を言わないという戒行を守るために、説明や言い訳を多くするのでは、本末転倒。しかし相手も善意の人ばかりではない。昨今は、行列のできる法律相談所みたいなものの悪影響で、隙あらば自分の権利を主張して利益を得ようという手合いが多いので、なおのこと話には気を使うことになる。

こうした話し方というものは若い頃は、不器用なこともあって、全くできなかったのであるが、最近はようやく人並みにできるようになった気がする。

善悪の基準本である功過格では、嘘を言うことそのものは一悪として数えてはいないが、「二枚舌を使って人の仲を離間すること」を三悪としたり、明らかに嘘を契機とするものがいくつか挙がっている。

嘘をつくことはシチュエーションによってはやむを得ないものだ」という考え方が今の時代は支配的だが、それは、「自分の利益のためには相手を犠牲にするのは当たり前という考え方」と同様に、人間本来のあり方から言えば倒錯的なものであり、現代文明だけに特徴なものである。

「自分の利益のためには、その場その場で嘘をついても構わない」などという考え方こそが、この社会のあらゆる混乱の原因そのものであると言っても過言ではない。

いじめ問題にしても、関係者のほとんどは、その事実を自分の利益のために嘘をついて隠し通すのがよくある風景の一つになっているのではないだろうか。その考え方がいじめを拡大再生産しているのに。


    1日1善。1日1クリ。

いれずみ

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修験道フリー・ウェイ-9

2006-10-30 04:50:42 | 修験道
◎修験三十三通記-8
(深秘分第七、無相六度之事)

およそ修験でいうところの無相六度とは、自分の心に、あらゆる存在を備えて、本質的な差別というものを見ることがなく、色も形もないもの。

そして精神性の中にある「あらゆる存在レベルで、正しいものに依ると、窮極の仏が生ずる」という唯だ一つの性質を持ったものなので、自分と他人の区別もなく、能動と受動の区別もないことである。

あらゆる時間、空間、物質すべてが、窮極のニルヴァーナそのもの(法身の当体)であって別の心の働きではない。ゆえに無相という。

無相六度とは、以下の6種のこと。
1.布施:本来の自分(自性)の輝きはあらゆる存在を照らし、その光は、自己も他者も、平等に応え用いることができること。

2.持戒:仏性という人間の本質は、本来清浄なものであって、肉体も心も相い応じて邪念が発生することがないこと。このことを正戒の相とする。

3.忍辱:仏性という人間の本質は、無為であって、個人という人間に属する性質ではない。

4.精進:仏性という人間の本質は、もともと沢山のメリットを備えており、あらゆる行動を成就させることができるということである。

5.禅定:仏性という人間の本質は、いつも変わることがなく、動くとか止まるとか変化するということとは、異なるものである。

6.智慧:仏性という人間の本質は、一本だけの灯火だが、凡人も聖者もあまねく照らすということである。

したがって古人は、「突然に如来の禅を悟りきってみれば、六種類の修行を満了し、心身どこにも欠けることがない」という。

このように布施、持戒などの六種類の修行(六度)とは、修行の心得やコツのことではなく、大日如来と一体になったときの、もはや人間の体験と呼べない体験から、六種それぞれの修行の最後の有り様を、時間のない世界から解説しているのだ。


    1日1善。1日1クリ。

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振り向いたあなたは誰?

2006-10-29 05:30:29 | 冥想の準備
◎癒される自分はどこ?

九世紀の中国。雲巌は、まず先に.百丈禅師の下で修行した後、薬山禅師に師事していた。ある日薬山は、「百丈禅師はどんな教えを説いていていますか」と雲巌に問うた。

すると雲巌は「ある日、百丈禅師の法話を聞くために、みんなが講堂に集まっていました。

さてそこに百丈が現れるやいなや、持っていた拄杖をぶんぶん振り回し、全員を追い立てました。たまらず全員が逃げ出しましたが、百丈がそこで、「おい、みんな」と呼ぶと、弟子たちは首を向けました。

すると百丈は、「その振り向いたものは何だ?」と言いました」

薬山禅師は、「どうしてこの話をもっと早くしてくれなかったのか。
だが今日、君の話で、私は百丈禅師の真髄を見ることができた。」と語った。

雲巌はこの言葉を聞いた途端に、振り向いたものにはっと気がつき、大悟した。

法話に何か本当のものがあるに違いないという野次馬根性で集まった弟子たち。拄杖で追われて野次馬根性が逃げ出し、心底から本当のものに触れ合いたいという願いがある、深いレベルがこれでやっとむき出しになった。

百丈の語る法話は、他人の無駄話。本当のものは、その振り向いた奴だ。

肉体は、痛めつけられるのを避けるべく逃げ出しているが、それでも出会ってみたいのだ。本当になつかしいもの、限りなく爽やかなもの、比類なき力強さ、無上の解放感に。

毎日の仕事や家事や勉強や付合いに逐われる日常生活は、杖に追い立てられる弟子たちと変わらない。けれども精神性とか、癒しとか、本当の自分とか、深い意識とか、インナーチャイルドとか、前世とか、オーラというものに関心を持っている自分って、何?

人を癒す方法は数多いが、癒される自分って、何。


    1日1善。1日1クリ。

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イエスの洗礼

2006-10-28 04:45:23 | キリスト者の秘蹟
◎低い方への流れ

『そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
(マタイによる福音書3章13~17節)

この洗礼は、密教の灌頂にそっくりである。修験では、法水を新参の人の頭に注ぎ頂くやや形式ばった終生灌頂と、いわゆるクンダリーニ覚醒である本有灌頂に分かれるが、これは、本有灌頂の入口なのだろうと思う。

霊的な実力では、ヨハネよりイエスの方が上なので、ヨハネは、その意味から洗礼を与えることに躊躇するが、イエスが敢えて洗礼を勧めるのに従った。ここでヨハネは、人間として、求道者の先達としてイエスに洗礼を与えたのではなく、神の一個の示現としてイエスに洗礼を与えたのだと思う。

天がイエスに開くとは、洗礼をきっかけにして何かが降りてきたわけではなく、父なる神の属性の一つの愛である聖霊が鳩と見え、その聖霊の個別性の現れがイエスであったことを、マタイがアジナー・チャクラで確認したというようなものだろうと思う。

オームは、キリスト教だとアーメンだが、密教だと阿吽。神から人への下方に向いた流れをキリスト教ではアーメンと聞いた。


    1日1善。1日1クリ。

キリストの洗礼/フランチェスカ

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第三の目で見る

2006-10-27 00:01:34 | 現代冥想の到達点
◎自分を外から見る

第三の目の中心、つまり眉間に注意の焦点を合わせると、二つのことが起こる。第一にあなたは突然観照者となる。

それは二つの仕方で起こる。あなたが観照者となり、そして第三の目に中心が定まる。
まず観照者になるのだ。--何が起ころうと観照者でいる。病気になって、身体が痛み、苦痛に苛まれていようと・・・・・・不幸なり、苦しみなり、どんな状態にあっても、それに対して観照者でいる。何が起ころうとも、出来事と自分とを同化してはいけない。観照者、観察者でいる。観照できるようになれば、第三の目に焦点が合うようになる。

その逆もまた然りだ。第三の目に焦点を合わせていれば、人は観照者になる。この二つは同一物の二側面だ。まず第三の目に焦点を合わせることによって、観照する自己が出現する。すると自分の想念に直面できるようになる。これが第一の点だ。

第二点、呼吸の微妙で精細な波動が感じられるようになる。呼吸の精気そのものが感じられるようになる。』
(和尚/内なる宇宙の発見/市民出版社から引用)

目を閉じ両目が真ん中へと向かうままにして、そのポイントを感じて見て、そのポイント近くに来ると目がピタッと止まるそうだ。第三の目の位置はこうやって発見できる。

このアジナー・チャクラは、我が近代西欧文明のテーマの部分ではないが、自己中心主義と拝金主義という現代人の通弊から脱却する大きなてこにはなり得るだろう。


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老子第六章 谷神不死

2006-10-26 05:11:09 | 老子
◎白髪を黒く、抜けた歯を再生

谷神(無の別名)は死することがない。この玄妙不可思議な母性の万物を生み出す所は、天地の根という。その根によってすべてのものを生み続けているが、それでいて終わる時がなく、且つ疲れる時がない。』

ここには、人間という視点はない、谷神は、死の側にあるものであり、死の側には生と死を含んでいるもの。生は死の一部であるので、谷神は死することはない。

列仙伝に出てくる容成公は、周の穆王に、「黄帝の師」として謁見した人物として知られている。彼は房中術に精通しており、女性から精気を取るのに巧みであった。その房中術の要諦は、いわゆる「谷神は不死、生を守り気を養う」であった。頭髪が白くなっても再び黒くなり、歯が抜けても再び生えかわったそうだ。

これはクンダリーニ・ヨーガの技術でもって自分の肉体を変成したものだと思うが、一旦白髪になったところでわざわざ黒くして見せたり、歯が抜けた所で再生してみせるところに、ある種の心意気を感じる。それは人間の本質的な自由というものに通じるような何かである。そこには、リーブ21とか美容整形とは全く違う地平線が拡がっている。


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人はかくの如くして犯罪を犯す

2006-10-25 05:46:13 | 時代のおわり
◎私の治安対策

小学生を狙う犯罪が全国津々浦々に発生していることから、通学を守るボランティアの人が立つことが当たり前になり、小学校の校門にも警備員が構えるようになり、土日の校門は閉ざされるようになった。おまけに、小学生を狙う怪しい目つきの男を見かけることも時々あるものだ。

政府が唱える治安対策は、このような起こり得る犯罪に対する警備の強化というディフェンス面が中心。私の考える治安対策はオフェンスのことである。オフェンスとは、犯罪を犯す側の人を減らしていくことである。

まず最強無比のオフェンスとしての治安対策は冥想である。冥想の中で神、仏、ニルヴァーナという窮極に出会うことにより、人は悪を犯すことはなくなる。このことは、このブログの至るところで詳述している(衆善奉行諸悪莫作)。

次なるオフェンスとしては、あらゆるレベルの洗脳対策である。人が洗脳された影響を何年で払拭できるのかということを仮に3年であるとしても、同じような洗脳を毎週ないし毎日繰り返されるとその人は、常時洗脳されている状態なのだ。

人が犯罪を犯してもよいと無意識が受け取ってしまう洗脳プログラムには次のようなものがあると考える。

1.テレビの犯罪を取り扱ったニュース
毎日殺人や窃盗などの犯罪ニュースに接していると、表層意識の倫理的反発とは裏腹に、いつのまにか潜在意識では、「人間が、殺人や窃盗や弱者に対する性犯罪を犯すのは通常のことである」という観念ができ上がる。それがとても素直な潜在意識の法則

ニュース番組を一週間見て、犯罪のことを取り上げない日はない。番組によっては、20分程度のニュース項目すべてが犯罪のこともある。

2.犯罪を取り扱ったドラマ、映画
昼メロでも夜の連続ドラマでも、殺人をテーマにするのはごく日常的なことであり、映画でも殺人や暴力は日常的に発生している。表面意識では、本来の道徳感から、これは娯楽ドラマ、娯楽映画だから殺人をテーマにしても謎解きが楽しいからいいやなどと思っているかもしれない。

ところが深層意識では、「殺人をしても、被害者はものを言わなくなるだけで、自分に痛みはない。自分の功利や利害によって人を殺すのはやむを得ない選択肢としてあるものだ。自分がそういうシチュエーションにおかれて、人の目がなければ、人は暴力や殺人を犯すものだ」という世界観ができあがるものである。

とんでもないことを言っていると思うかもしれないが、アメリカ軍は、第二次世界大戦以来の新兵に対する洗脳手法として、ハリウッドのB級娯楽戦争映画を長時間見せることで、殺人に対する罪悪感を麻痺させ続けてきた事実もある。

3.犯罪をテーマにしたテレビ・ゲーム、オンライン・ゲーム
これは若い人が中心だろうと思う。暴力をテーマにした格闘ゲーム、敵の殺戮や殺人をテーマにしたアクション・ゲーム、ロール・プレイングゲームなど、ゲームだから仮想現実ではあるが、潜在意識では、殺人や暴力に対する感覚を鈍麻させる効果があるものだ。

このように治安のディフェンス面の強化とは裏腹に、世の中全体が、犯罪を安易に犯す方向へ皆さんの潜在意識を誘導しまくっている。つまり一週間に一回でもテレビを見れば、そういう洗脳を多少なりともされることになるので、心得た人は、このようなものには触れないで過ごすものだと思う。

蛇足ながら、政府の考える治安対策でオフェンス面と言えるのは、たとえば若者の失業対策であり、二百万人の多重債務者の救済である。これもとても大切なことである。

貧すれば窮すと言うが、生活が安定すれば、犯罪は減り、治安は改善するものだ。連続した景気回復の報道とは裏腹に、治安がますます悪化しているのは、景気が大衆レベルでは回復していないことの証明である。富の二極化とは、貧困層の急増であることは誰もが知っている。


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モンローの幽体離脱テクニック-3

2006-10-24 05:25:09 | 超能力・霊能力
◎見るには見たけれど

ロバート A.モンローは、創造主の光を見て、完全なる自由を記憶し、窮極への道をかいま見たと述べる。しかし、彼のその体験の語り口には、今一つ欠けている印象がある。窮極の七つの属性を感じたならば、必ず語られる感動、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)がないのだ。

このツアーで彼が得た知識は、次のようなものである。
『この、我々の創造主とは、
1.我々が人類として生きている限りは、我々の理解を超えている。
2.我々もその一部として参与している進行中のプロセスの設計者である。
3.我々の理解の及ばないことにも、目的を持っている。
4.右のプロセスにおいて、必要に応じて調節、微調整を行う。
5.万人、万物に適用される単純な法則を定める。
6.崇拝も賛美も、己の存在を認めることも要求しない。
7.「悪」や「あやまち」を罰しない
8.我々の人生での行いに関して、進めたり妨げたりしない。』
(窮極の旅/ロバートA.モンロー/日本教文社から引用)

上の条項で、たとえば、悪やあやまちという人間にとって深刻な問題について、いささか不用意な表現をしている。「創造主が悪やあやまちを罰しないで、人間の行いについて妨害しない自由を与えている」というのを窮極の知識であると宣言しているので、これを読んだ人の中からは、単純に「どんな悪事をするのも自由なんだ」という考え方の人が出現しがちなものとなる。本当の覚者であるならば、そうした誤解を避ける配慮が、通常はあるものである。

また彼は、人間としての悲しみ、人間であるが故の絶対的な不条理などは、ほとんど問題にせず、その反作用たるべき大きな歓喜を知ってはいない。窮極は、真摯な求道者にとって、苦悩に満ちたこの世に対する恩寵として現れるものだ。

だから、モンローは見るには見たけれど、精神の成熟度がそれを感じるには、それを知るにはいま一つ不足していたのではないだろうか。つまり彼は、あくまで一旅行者として、たまたま創造主の居る放出口と呼ぶ、無上の垂直道に到達したのであって、その意義を深めるのはこれからなのだろうと思われるのだ。


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CMは面白いけど毒だらけ

2006-10-23 05:50:18 | 時代のおわり
◎心脳コントロールの日々

最近のテレビCMには、良くできているものが多いので、却って考えさせられるものが多い。

まず、わかりやすいものはDHC。ナントカナントカ第一位、ナントカナントカ第一位、ナントカナントカ第一位と第一位を連呼する。それでもって大概の人は、ナントカナントカの所は記憶に残っていなくて、第一位だけ覚えているから、無意識の中で「DHCは第一位なんだ」と記憶する。

次は花王のシャンプー。中国人の女優チャンツィイーが、西洋人を相手や背景にしてドラマチックな展開で注目を集めるパターン。これを毎度見せられる我々は、髪がチャンツィイーみたいになって、ラックス・スーパーリッチやモッヅ・ヘアーの、目が青くてガタイがデカイ西洋人にも負けない目立ち度になりますってことをひたすら主張している。

ライス国務長官が、(核ミサイルが飛んで来ようが、生物化学兵器が町にばらまかれようが)日本をあらゆる角度で守ってあげると宣言したように、日米安保条約で守られている日本だけど、そうかこのシャンプーを買えば、西洋人に負けないんだって思って買ってしまう。

最後は、ドモホルンリンクル。これはどんなきれいな工場で作っているかをひたすら流したり、お婆んになっても綺麗肌を主張するのはいいとしても、高価そうなお試しセットは無料ということで、視聴者を驚かせることに成功している。先日、近所のスーパーに買い物にいくと入口近くの道路で、「おしょうゆ只で配っています」という集団催眠商法の人たちがいたことがあったが、そこはかとなく、それを連想させるものがあった。

このように最近は心脳マーケティングと呼ばれる、人間の無意識の記憶をコマーシャルによる暗喩・メタファーで操作してしまえというやり方が徹底している。

見たところその操作の原則は次のようなものであって、仕組みはわりと単純だが、組み合わせると、視聴者にそれを選んだという自覚なく選ばせてしまう巧妙なものである。

1.無意識の記憶を短期的記憶、中期的記憶(数年前)、長期的記憶(10年以上前)に3分類する。
2.流し手の望む長期的記憶をCMによって呼び起こさせることにより、「その長期的記憶は、もともと自分が持っていた選択肢の中から選んだのである」という自覚を持たせることで、その願望が正当なものであるということを、視聴者に意識的に認識させる。

3.快・不快原則によって、流し手の希望する商品が快である印象・イメージを持つように仕向ける。(好ましい画像と商品が結びつけられる)
4.そのイメージを持ったら、その商品についての思考を停止するように仕向ける。

細切れ情報をバラバラに与えて行く中で、その都度わかりやすい選択肢を出し続けていった結果、その商品をイエスと選んだならば、視聴者は「その商品は総合的な判断で選んだので思考する必要はない。」と思い込み、その思考を停止する。

昔はテレビ番組の精神年齢は12歳とか8歳とか言われていたものだが、テレビを政治宣伝、商品宣伝の場に過ぎないとみれば、番組内容の精神年齢はスポンサーの関心事ではないのだろう。

ここでは商品宣伝を題材にしたが、政治宣伝でも同様のことがまかりとおっている。多くは、政治家がやろうとする政策(たとえば郵政民営化)が、好ましいイメージであることを主張し、それに反対することは無条件に好ましくない判断(改革を止めるな)であるというイメージを宣伝しまくり、その政策のメリット・デメリットを思考させない。これは、常套手段である。

また新聞やテレビが世論調査結果の中身をいじるのは、最近バレバレになりつつあるが、これもいつものことではある。とてもクレイジーな社会。


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モンローの幽体離脱テクニック-2

2006-10-22 05:27:32 | 超能力・霊能力
◎すさまじい光を浴びる

モンローは、放出口の出口の孔ですさまじい光を浴びた。ということは,チベット密教流の言い方をすれば、無上の垂直道の最後の付近までいって創造主の光を浴びるところまで行った。クンダリーニというエネルギーコードに乗って、中心太陽(創造主)がもう少しで見えるというところまで行ったが、中心太陽(創造主)そのものを見るところまでは一歩及ばなかったようだ。

モンーローのトリップは、宇宙人に出会い、死んでいる人に出会い、生きている人に出会いというエピソードが中心で、ほとんどが霊界の中での出来事である。この創造主への旅で特筆すべきなのは、旅の始まりから終りまでしばしばツアーガイドが付いていて、旅の仕方について何くれとなくアドバイスを提供し続けていたことである。

そのアドバイスの受け取り方は、最終ツアーにおいては、大いなる者から”小さい者”であるモンローが受け取るという方法であり、大いなる者はモンロー以外の人格として存在する。要するにモンローは、自分と他人は違うという個別性の枠を抜けることはなく、個別性を保持したままで、中心太陽(創造主)の近縁まで迫ったということになる。

密教系の行者の体験では、大体一人で個別性を抜けるか、中心太陽に迫る話が多いものだが、モンローには、しばしばツアーガイドが付いていて孤独ではない。大いなる者とは高級神霊のことだと思うが、このことにモンロー自身の霊媒的体質を感じる。

ただし放出口に迫ったときだけは一人になり、大いなる者と連絡がつかなくなって、肉体は仮死状態になっていたようなことが書いてある。これらのことから、この体験は正統的な無上の垂直道を昇る体験と見ることができるように思う。

モンローの話は、大抵はアストラル・トリップであるが、メンタル体でないとできないところに行くテクニックもなぜか持っていたということになる。

『・・・ぐんぐん内側に向かっている
・・・・IT集合体の流れを通りすぎる
・・・・もう見えない
・・・・信念体系領域も過ぎる
・・・・瞬いて消えて行く
・・・・青い惑星も通り過ぎて
・・・・塵の輪に還って行く
・・・・すべてが動いて、動いている
・・・・今度もまた流れに逆らい、物事の始まりまで遡るのだ
・・・・分子と光の巨大な花がつぼみに還える
・・・・一筋の光線に
・・・・光線に
・・・・あの中に入るのだ、あそこに
・・・・耐えられるだろうか、余りに強烈だ
・・・・ほら、あった
・・・・「放出口」だ!そうビッグバンなどなかったのだ
・・・・始まりは「放出口」だったのだ。
・・・・ホログラムが創造され、
・・・・ほら一方向に流れ出て行く
・・・・サイクル
・・・・閉じた輪
・・・・円環だ!今こそわかった
・・・・「知る」ことができた。』
(窮極の旅/ロバートA.モンロー/日本教文社から引用)

モンローは、この体験をした後、肉体機能が元に戻るまで何日もかかったそうなので、いわゆる社会人としての日常生活を送りながらでは、こんな体験はできないことを承知しておきたい。


    1日1善。1日1クリ。

NASA Astronomy Picture of the Day

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モンローの幽体離脱テクニック-1

2006-10-21 07:21:09 | 超能力・霊能力
◎振動をつかむ

ヘミシンクで有名なロバート A.モンローの幽体離脱テクニックは次のようなものである。幽体離脱には3種あるが、彼は、そのうちのアストラルでのトリップを推奨した。

1.恐怖心を取り除く
未知への恐怖や肉体に戻れなくなる恐怖は起こるものである。また肉体とアストラルが分離したことに気がつくとビックリするものだと思う。

2.心身のリラックス
トランスというか睡眠と覚醒の境界の状態に入るためにまずリラックスする。これは、初心のうちはすぐ眠ってしまうそうなので、これが極めて難しいとのこと。辛抱強く練習すれば、次第にできるようになるそうです。

3.振動をつかむ
(1)暗く静かな部屋で頭を北に向けて仰向けになる。
(2)次にリラックスして睡眠と覚醒の境界状態に入る。
(3)頭の真上2メートル付近に意識を集中して振動をつかむ。振動をつかんだらそれを頭の中に導き、その振動の波を頭から爪先へ、爪先から頭へと往復するように念ずる。
この時振動の波が10秒で往復するようにする。
次にこの振動の振動数を粗い振動数から滑らかな振動数に高めるように念ずる。

ここまで来ればいつでも幽体離脱できるとしている。この振動をつかむというところがコツの部分で、おそらくは、モンロー自らが指導しないとわかりにくい部分だったのだろうと思う。

またモンローは、横臥姿勢が、アストラル体で肉体を出る姿勢として、最適な姿勢と考えていたのだろう。これは、禅の高僧の末期(まつご)は、病臥していても付き添いの侍者に身体を起こしてもらってから逝去するという、メンタル体から肉体を離脱するというシーンとは好対象を為す。

この後は手や足など部分的遊離をして、次に全身を脱離し、目標とする場所や人のことを念ずるだけで移動できる由。飽きたら、自分の肉体に意識を集中すると肉体に戻れるそうです。

アストラル体で肉体を出るだけでは、人間の本当の幸福や、この世にあるあらゆる悲惨や不条理の超克とは何の関係もないので、やがてモンローはその世界最奥への探求を始めることになる。


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修験道フリー・ウェイ-8

2006-10-20 05:19:12 | 修験道
◎修験三十三通記-7
(極秘分第一、峯中本有灌頂之事)

一般には、師の阿闍梨が法水を新参の人の頭に注ぎ頂くことを伝法灌頂と呼び、是れを阿闍梨位を継承したことを証明するセレモニーとしているが、修験三十三通記では、これは終生灌頂と呼び窮極の灌頂とは見ていない。修験では、本有灌頂が、儀式ではない、実質的な窮極の灌頂であるとする。

本有灌頂とは、普通の人(凡人)であっても、聖者であっても、どちらも一点の欠けることのない大日如来(毘盧舎那)であることを確認すること。
修行者の行い、言葉、意識(身口意の三業)が、それがそのまま悟りの姿(自性の法体)を現すことである。大日如来から帰還すれば、その人の行動はそうなるものだと思う。

そもそも修験の道理とは、我々の姿は、人は本来もとより清浄なさとりそのものの姿である(本覚毘盧)ということである。その境地は、とてもディープであり、一定の外見がなく、至極のものであって、役の行者から伝えられるような代物ではない。

この境地から出てくる動作や言葉は、作為のない仏法そのままであることの証明である。また出入りの息は、阿吽であり、行住坐臥、睡眠の時も含め24時間断絶することのない阿吽の2音の念誦である。

最後に、人は本来もとより清浄なさとりそのものと主張するのならば、女性とセックスしたり、人を殺してしまったりしても、それは、そのまま悟りの姿といえるのかという質問が来る。回答としては、根源(大日如来、仏、ニルヴァーナ)を知らない者が何を語っても、何を行動しても、悟りに即したものとはならないと、何も知らない者が、好き勝手な行動に走ることを戒めている。

あくまで、人は本来もとより清浄なさとりそのもの(本覚)という状態は、大日如来とは自分のことだったという極限状態から帰還して初めて語れる言葉であって、その体験のない者がそのことを正しいというのは、でたらめ(妄語)である。

この章については、人は本来もとより清浄なさとりそのものであるということをひたすら説明している章であるが、本有灌頂という言葉は、儀式としての灌頂ではないので一つの神秘体験を指していることがわかり、またそれは修行によって至る体験であることがうかがえる。

ところがその境地は、もともと人は大日如来なのだという境地であるので、そのまま読めば修行なんぞ要らないと考えてしまう人が必ず出る。そこで最後の問答で勝手な行動を戒めるという構成になっている。

全体としては、例によってどうすれば大日如来になれるかは書いてはいない。


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老子第5章 天地不仁

2006-10-19 05:03:29 | 老子
◎天の心は石ころの心

人間的視点から見れば、天地は命を与えてくれるし、衣食住も与えてくれるとても「仁」に一見思われる。しかし人の命を奪うのも天であり、人を虚無の絶望に陥れるのも天である。したがって、天地が個々の者に対して仁でないという視点は、人間的な好悪や苦楽の感情を越えたところで初めて言える。

戦争は繰り返され、生別死別等の苦しみは止むことはないことを指して、人間的な視点に降りてきて、仁ではないと言って見せている。鞴(ふいご)のたとえを用いることで無への意識がうかがえるのでニルヴァーナを前提にしている。

天の心は石ころの心

『天地は個々のものに対して仁ではない。その万物に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々のあの態度と同じである。
聖人の人民(百姓)に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々の態度と同じである。

天地の間は、例えばちょうどあのふいごや笛のようなもので、そのままでは中には何もないが、鞴(ふいご)は押せば空気が出るし、笛は吹けば音色が出る。そして音色が尽きることがないし、動けばますます出てくる。

大道は、理詰めで計算してこれをつかもうとしても、行き詰まってしまう。中すなわち己を虚しくして無為と一体になるに如くはなし。』


    1日1善。1日1クリ。

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フリーメーソンをどう見るか-2

2006-10-18 05:35:18 | 時代のおわり
◎出口王仁三郎の石屋観-2

出口王仁三郎は、ユダヤ人は善良で神に従う心が深いとポジティブに評価して、ユダヤ人の七不思議として以下のものを挙げる。

1.万世一系の皇統を戴きつつ自ら、その国を亡ぼした事、
2.亡国以来二千六百年なるにも拘らず、今日も尚依然として、吾等は神の選民也と自認している事、

3.二千六百年来の亡国を復興して、たとえ小なりと雖もパレスチナに国家を建設した事、
4.ユダヤの言語を忘却し、国語を語るものを大学者と呼びなす迄になつて居つても、ユダヤを忘れず、信仰をまげない事、

5.如何なる場合にも決して他の国民と同化しない事、
6.亡国人の身を持ちながら、不断的に世界の統一を計画している事、

7.今日の世界全体は、政治上、経済上、学術上、ユダヤ人の意のままに自由自在に展開しつつある事

これに対して日本の七不思議として次のものを挙げる(戦前に書かれた文章なので、今から見ると違うところもあります。)
1.万世一系の皇統を戴き、終始一貫義を以て立ち、一度も他の侵略を受けず、国家益々隆昌に赴きつつある事、
2.自ら神洲と唱えながら、自ら神の選民又は神民と称えるものの少ない事、

3.王政復古の経歴を有するも、未だ一度も国を再興したる事なき事、
4.国語を進化せしめたるも、これを死語とせし事もなく、従つて国語を復活せしめた事のなき事、

5.同化し難い国民のやうに見えるけれども、その実、何れの国の風俗にも同化し易く、且つ何れの思想も宗教も抱擁帰一し、ややもすれば我が生国を忘れようとする国民が出る事、
6.一方アメリカは、世界統一の為には手段を選ばないが、日本は常に正義公道、即ち惟神(かむながら)によつて雄飛せむとする事、

7.世界は寄つてかかつて、日本を孤立せしめむと計画しつつあれども、日本は、未だ世界的の計画を持たず、ユダヤとは趣を異にしている事
(霊界物語64巻上より)

とユダヤと日本の神秘的コントラストを述べた後に、天消地滅という実質的な最終章を設け、「父母の愛にも勝る無我の声」などと、無我という人間の中にはないものを打ち出して、無我つまり天が消え地が滅するという、「自分もなくあらゆる現象もない」という境地が目的とする境地であることを暗喩している。

父母の愛にも勝るという言い回しは大時代的であるが、情に勝った当時の世相にマッチしていた言い方だったかと思う。

この世の立替立直し(アセンション)は、戦いの果てに刀折れ、矢尽きたところで、人間だけの力ではどうにもならないところまで追い込まれた時に発動するという。そこでこうした日本とユダヤの特徴とは、そのどうにもならないところまで追い込むための、神のグレート・ゲームのメカニズムであるかのように見える。

すなわち出口王仁三郎は、日本とならんで、フリーメーソンも同じグレート・ゲーム=大神業を遂行する重要な組織と見ているのである。したがってユダヤの評価を自ずと前向きなものとしているように思う。
そして立替立直しは、無我とセットものなのである。

日本は神国だったはずが、今や最も神から離れてしまった国民性となってしまった。一方ユダヤも自ら神の選民と自負していたが、2600年をへて、果たして今も選民のままかどうか。さて両国民を待つ運命や如何に。

次の和歌は出口王仁三郎が大正時代に詠んだものだが、今はどうだろうか。

神職は神をさとらず僧侶また仏を知らずあさましの世や
宗教家の数のみ増えて神聖の宗教ことごとくかげ失せにけり


    1日1善。1日1クリ。

エルサレム嘆きの壁

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フリーメーソンをどう見るか-1

2006-10-17 05:42:23 | 時代のおわり
◎出口王仁三郎の石屋観

昔、麻生さんが外務大臣だった頃、日本をユダヤ人の金持ちが「住みたい」と思う国にしたいと発言して物議をかもしたことがあった。ことほど左様にユダヤ人の金持ちというとフリーメーソンと絡んで何かと話題にされるものである。

出口王仁三郎は、ユダヤ問題がわからないと駄目だ、私はユダヤのことを悪く書いたことはないと語っている。これは実に不思議なことである。

というのは昭和10年までに彼が詠んだ和歌には次のようなものがあり、とても好意的とは思えないからである。(マッソンとは石屋のことであり、フリーメイソンのこと)

マッソンは世界の隅々おちもなく 世を乱さむとたくらみており、
世の中の万事万端マッソンの計略のわなにおちいりており

地の上の国のことごとく占領し壊さむとするフリーメーソン
外になき是れの尊き神国を乱さんとするフリーメーソン

しかし他方では、非常にユダヤに同情的であり、エルサレムの嘆きの壁で慟哭するユダヤ人を見て、一種名状すべからざる悲哀の感じに襲われている。それは勿論宗教的なものでも無く、また憐愍や同情に由来するものでも無く、それは気味悪い程、根深いもので、たとえば執拗な運命に対する恐れとでも言つたら良さそうな本能的なものである。

その上、これも同情的である。
『是もキリストを十字架に付けた彼等(ユダヤ人)の祖先の罪業の報いとも言ふべきものだらうか。夫れにしては余り残酷過ぎると思ふ。

キリストを釘付けにしたのは彼等ばかりで無く、人類全体なのである。キリストを救世主と仰がなかつたものは彼ユダヤ人ばかりで無く、世界人類の大多数である。

聖書の予言にかなはせむが為とは云へ、余りに可哀相だ。彼等はキリストの懐に帰つて罪の赦しを乞ふこと無しに、何時までメシヤを待望して世界を放浪するのであらうか。』
(霊界物語64巻から引用)

このように、出口王仁三郎は、ユダヤ・フリーメーソンが日常生活の安寧、平和な市民生活を脅かすひとつの元凶であることも指摘しながら、他方で本音は同情的擁護的である理由はどこにあるのだろうか。(続く)


    1日1善。1日1クリ。

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