アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

董仲君の尸解(しけ)

2006-08-31 05:05:34 | 現代冥想の到達点
◎アンチエイジングと幸福

これは,神仙伝にある話。

『董仲君は臨淮(安徽省)の人であった。若年より呼吸を整え、身体を鍛練して、歳百余歳になっても老けなかった。

ある時無実の罪で誣告され、牢に繋がれたが、死んだふりをして、腐爛して蛆がわいた。牢役人にかつぎ出されてから生き返り、尸解して去った。』
(平凡社/中国の古典シリーズ/神仙伝より引用)
尸解には、注がついてあり、魂が肉体を捨て、肉体のままで昇仙することとある。

さて、中国ものの常として個人的な感慨は記載されることが少ないので、この話でも董仲君がどう感じたかは書かれていないので推し量るしかない。

およそ尸解するほどの実力の持ち主なら、牢獄の中でも尸解できたはずだが、わざわざ死んだふりをして、肉体を損ねてまで脱獄して、それから尸解している。そこに董仲君の行動の自由に対する憧憬があったとみることができる。100歳までアンチエイジングして生きても、獄舎にあっては何の甲斐もない人生だと考えていたのだと思う。


    1日1善。1日1クリ。

沈黙の書

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暗夜から光へ-5

2006-08-30 04:56:55 | 究極というものの可能性
◎バーナデット・ロバーツの第三夜-2

バーナデット・ロバーツは、自己の中心が消え、そこに残った空虚と沈黙と歓喜こそ神自身に違いないと踏んで、その内部を見つめていた。

『ある時このように喜びを求めて内部を見つめたところ、突如この空虚が急速に拡がり始め、今にも爆発しそうになりました。

そのとき私はエレベーターで100階も落ち続けるような気分を胸元に感じ、生きている感覚がなくなってしまいました。落下し尽くして底に着いたときに、はっきりと分かったのは、人格的な自己がない時は、人格的な神もなく、この二つは互いに相伴うものだということでした。その二つがどこに行ってしまったかは、ついにわかりませんでした。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用)

これ以後、彼女からは、「生きている」という感覚が失われ、内部がないということを知ったので、内的生活は終りになった。夕食の支度をしても動作がひどく機械的でロボットになったようであり、自分で自分が何かをしているという感じがなく、すべて条件反射で動いていた。

「生きている」という感覚が失われる状態は、神との合一の前段階として、しばしば現れるものであるが、生の感覚を確認するために自傷・リストカットする人もいて、それが精神病の一症状に過ぎないケースもあることはいうまでもない。

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求めることになった。


    1日1善。1日1クリ。

NASA Astronomy Picture of the Day

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暗夜から光へ-4

2006-08-29 05:38:41 | 究極というものの可能性
◎バーナデット・ロバーツの第三夜

カトリックの冥想の進行は、例の冥想十字マップでいえば、垂直方向ではなく、水平方向に進む。十字架の聖ヨハネの第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的な段階のことであるが、ヨハネは詳述してはくれなかった。

ここに第三夜の一つの例と思われる世界を見つけた。それは、バーナデット・ロバーツというカリフォルニアの中年女性が入った世界である。

『私が住んでいたところの近くの海のそばに修道院があり、わたじは午後暇があれば、よくそこの静かな聖堂で過ごしました。事の起こった日の午後もそこにいて、いつものように深い静寂に引き込まれ、それを破る恐怖の来るのを待ちましたが、それがなかなか来ないのです。

恐怖の期待か潜在的な恐怖によるのかわかりませんが、私はしばらくのあいだ不安定な状況に置かれ、自己と「不可知のもの」の間にある断崖に渡された一本の綱の上に立っているようでした。今度は向こう側に行ってしまうのか、それとも恐怖が起こっていつものように戻れるのか、それは自分で決定することができません。

身動きできないまま、内ではすべてが静まり停止しています。そのうちいつのまにか緊張が消え、それでも何か変化が起こるのを待っていましたが、それも起こらないまま深い沈黙の中に留まっていました。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用)

その後の三日間は、深い沈黙の中に呑み込まれまいとする意識的努力を繰り返しながら家事をするが、疲れ切って座り込んでしまい、その途端に意識を失い、夢も見ず、周りを意識しないのが数時間も続いた。

9日くらいたって、段々普通の生活ができるようになって来たが、何かが欠けているという感じがあってそれを特定することはできなかった。

この感じは最初は記憶が失われたと感じ、後に「不可知」なるもの、つまり神に引き込まれたと解釈していたが、それでも納得できず、図書館へ行き、この体験を説明してくれていると予想した十字架の聖ヨハネの本を読みあさったが、この神秘体験について書いてはいなかった。

つまりこの神秘体験は、十字架の聖ヨハネの暗夜の第三夜以降のものと考えられるのである。第三夜特有の受動性もある。

バーナデット・ロバーツは、図書館の帰途、自分の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽであることを知った。
その瞬間、静かな喜びがあふれてきて、なくなったものは自分の自己であることが分かった。


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恐怖を克服する修行-3

2006-08-28 05:40:48 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
◎心霊を信じない

この事件について、別の学識経験者であるデルゲ(東チベット)の街の博士は、また違ったコメントをしている。

ここでは、心霊の存在を信じないことを不信と呼び、
不信は、まま起こることじゃ。確かに、それは神秘家の最終目的の一つだが、弟子が一定の期間が経つ前にこの境地に至ってしまえば、この修行から得られるはずのもの、つまり恐れを知らぬ心を失ってしまうことになる。

それだけではない。師は単なる不信を容認してはいない。それは真理に反することだ。弟子は、信ずる者にとっては神々も悪魔も確かに存在することを理解しなければならない。敬う者には恵み、恐れる者には害となる力を彼らが持っていることを。

とはいえ、修行の当初から不信を懐く者は滅多におらぬ。大抵の入門僧は、現に恐ろしい亡霊に出会っているのだ。』
(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

デビッドニールは、こうした儀式を行う中で、現実に魔物が出現するというオカルトな出来事が起こることは、稀であることを知っていたが、彼女は、そうした心霊的存在が幻覚ではなく、実際にいるのではないかと考えていたようだ。

デルゲ(東チベット)の街の博士の見解はこれに対して、心霊が実際にあると見るレベルもあるし、ないことを知っているレベルもあるとして穏当な見解となっている。心理レベルが落ちていけば、チベットのような荒涼たる大地で冥想しなくとも、何でも起こるものである。


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恐怖を克服する修行-2

2006-08-27 06:46:34 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
◎観想法から現実の操作へ

デビッドニールは、悪霊を招き寄せているときに当の術者が急死するケースをいくつか見聞きしていた。

彼女がこのケースの見解について質問すると、学識経験者であるクショグ・ワンチェンは、いつもとは違う声で次のように語った。

『「死んだ者たちは、死に至らしめられたのだ。彼らの見た映像は想像の産物である。悪霊を信じないものは、彼らに殺されることは決してない。

従って虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。

それが自発的なものであろうとなかろうと、心に像を描き出すのは、もっとも神秘的な術なのだ。そこに形成されたものはどうなると思う。肉に生れる子と同じく、これらの心の生んだ子らもまた、われわれから生命を分離し、われらの支配を離れて、独自に動きだすのではないかね。

またこうしたものを作り出せるのは、我々だけであろうか。そのようなものが世界に存在するとすれば、作り出した側の意志あるいはその他の原因によって、これらと接触する可能性がありはしないか。

われわれが思いか行いを通して、これらのものが活動しだす状況を作り出すことが原因のひとつではないのか?

たとえを使おう。

あなたが、川岸から少し離れた乾いた土地にいるとする。この場合、魚はあなたに近づくことはない。だが川とあなたの間には溝を堀り、乾いたところに池を作れば、水がそこに流れ込み、魚は川から泳いで来て、あなたは自分の目で魚を見ることもできる。

不用意に径路(チャンネル)を開かぬよう、よくよく用心することだ。実際無意識という巨大な倉に何が納まっているのかを知っている人間はほとんどいないのだ。』
(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

この事件は、残忍な悪霊トゥオに立ち向かう修行の半ばで、食い殺されてしまった弟の事件である。

観想法においては、ありありとイメージを想像するが、その当のイメージにも本物とにせものがある。本物というのは、どんな場所どんな時代においても変化することのないイメージであり、第六身体のイメージである。にせものというのは、第四身体(メンタル)以下の霊界のイメージであり、どんな素晴らしいイメージであろうと、天人五衰と呼ばれるように、いつかは滅び、死する時が来る性質を持つイメージである。

クショグ・ワンチェンのコメントは、観想法におけるイメージは、取扱に注意すべきことを語ったものであるが、この分類では、にせもののイメージの取扱ということになる。にせものという呼び名ではあるが、霊界深部に作り出したイメージは、現実に実現していくものがある。だから観想法を修する人間は、よくよく注意しなければならないという警告がまず一つある。

そして、霊的な感受性・チャンネルを開いてしまった人間には、そうしたもの(イメージ、霊、波動)が「実在」するものとして干渉してくるのでその危険性を認識せよと二重の意味で警告している。

クショグ・ワンチェンのコメントは意味深長である。「虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」これは、「神の存在を信じない者は、たといこの神は出会ったにしても、自分が神に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」という言い換えも可能である。現代人の無神論の心理的な原型がここにある。

大衆のイメージをマスコミのニュース・コマーシャルで操作し、そのイメージを大衆・国民の深層心理に定着させ、やがてはそのイメージを、知らず知らずのうちに現実化させるというやり方は、この原理を知悉した勢力が、政治や経済を誘導する場合の「観想法」を利用した常套手段である。

このストーリーは、チベットの山奥で、初心者の坊さんが、トンデモ修行に失敗して、虎に食い殺された気の毒な事件にとどまるものではなかった。


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恐怖を克服する修行-1

2006-08-26 05:14:24 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
◎深山幽谷での殺人事件

これは20世紀初頭にチベットに入ったデビッドニールおばさんが出くわしたストーリー。チベットでは入門早々の僧が、山深い峡谷に入り、木や岩にからだを縛りつけ、残忍な悪霊トゥオに向かって呼びかけるように命ぜられ、どんなに恐ろしくなっても自分の体を縄から解いて、逃げてはならないという修行をさせられることがある。

ある兄弟が、一人の師匠(ラマ)について修行をしていた。これはその兄の回顧談。
師匠のラマは、サグヤンという魔物がとりついていることで知られる森の中に行き、首を木に縛りつけるよう、弟に命じた。サグヤンは虎の姿をとって現れ、この野獣の獰猛な性質もそこから来ていると言われている。

木に首を縛りつけたら、自分はサグヤンをなだめるためにつれて来られた牛であると想像することになっていた。その考えに一念集中し、さらに牛と同化するために泣き声をあげる。集中力が十分強まれば、こうしているうちに自我意識を失ってトランス状態になり、食われかけている牛の苦しみを体験できるというのだ。

この修行は、まる三日間続けられることになっていた。ところが、四日目になっても弟は戻って来ない。ついに五日目の朝になってラマは兄に言った。
「昨晩変な夢を見たので、行って弟を連れてきなさい。」
兄はこれに従ったが、森では恐ろしい光景が待っていた。弟の死体が半分食いちぎられた状態で木にぶら下がり、血だらけの肉片が付近の茂みのあちこちに飛び散っていた。

恐れおののいた兄は、大急ぎで弟の遺骸を集め、師匠のところに持ち帰った。

ところが帰って見ると、師匠の庵はもぬけの殻であった。師匠のラマは、経文に祭具、三叉鉾、それに身の周りのものを抱えて、どこかへ行ってしまったのだ。』
(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

迷信を信じないデビッドニールおばさんは、この森では豹がよく徘徊するところを目撃しているので、その豹が襲ったのではないかと推理した。

もはや古老となったこの兄は、「師匠のラマは、人間の姿をとって獲物を引き寄せる、魔性の虎そのものだったに相違ない。人間の姿のままでは弟を殺すことはできない。わしが眠っている間に、きっと虎に変身し、森に走って、弟を食ったのだ」と主張している。
これでは、単なる幻想奇譚=迷信物語である。

学識経験者の見方はやや違っている。(続)


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暗夜から光へ-3

2006-08-25 05:51:37 | 究極というものの可能性
◎第二夜について

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。
知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

1.理性の暗夜
十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

2.記憶の暗夜
神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』
(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

3.意志の暗夜
  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。
「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。


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暗夜から光へ-2

2006-08-24 04:22:51 | 究極というものの可能性
◎第一夜について

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガにはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。
まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。
その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

第一夜に該当する詩句

『暗き夜に
炎と燃える、愛の心のたえがたく
おお幸いなその時よ
気づかるることもなく出づ、
すでに、我が家は静まりたれば』
(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)


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暗夜から光へ-1

2006-08-23 04:15:15 | 究極というものの可能性
◎暗夜について

カトリシズムの巨星、十字架の聖ヨハネは、著書「カルメル山登攀」において、神との合一に至る直前の段階での、精神の暗夜には三夜あると説明する。マラソンで言えば、最後の直線のラスト・スパートの部分である。

この中身は、あらゆる神秘体験や神秘的ビジョンの正邪の見分け方、聖書の出来事の解釈の方向性など、示唆に富むものが多い。

第一夜
これは、感覚の暗夜と呼ばれるもの。すべてのものに対する欲求の楽しみつまり感覚的欲望から、心をはぎ取ってしまえば、霊魂は暗い何もない状態になる。これが第一夜。
観想の初歩にある人がこれに該当する。

第二夜
これは、精神の暗夜と呼ばれるもの。
精神の機能を、理性、記憶、意志の3種類と見て、信仰が進むにつれて、それぞれの機能に暗夜が到来する状態。

既に感覚からは暗夜状態であるが、さらに理性、記憶、意志についても暗夜を加えた状態。

つまり信仰、神というものは、決して理性でもって理解はできない。従って理性でもってアプローチすればするほど、信仰、神というものは、暗黒と観ぜられるのである。記憶、意志についても、核心に迫るほど暗夜に陥っていくことになる。

第三夜
これは夜明け前にあたる。第一夜第二夜においては、個人の魂が能動的に神を求めて進んで行った暗闇であったが、第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的なものとなるのである。これも暗夜であり、神との一致以前である。

十字架のヨハネの著書「カルメル山登攀」においては、第一夜、第二夜は詳述されているが、第三夜はほとんど何も記述されないで終わっている。「神の御心の許されるままに」書き進めて行ったが、第三夜については、神の御心の許されるままに筆を置いたということになるようだ。

カルメル山登攀は、登攀の途中で終り、最後は自ら挑戦してみる方のお楽しみということになっている。


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関牧翁の死の恐怖

2006-08-22 05:58:35 | 丹田禅(冥想法8)
◎死ぬのがこわい

珍しく夜中にテレビを見ていたら、”NHK映像ファイル あの人に会いたい”で、臨済宗天龍寺派の管長であった関牧翁(故人)が出ていた。

関牧翁は、あろうことか、「ちょっと死ぬのがこわい。」などと発言していた。正直で結構なこととは思うが、自分が死ぬのがこわいのでは、死の問題に直面した人にきちんとした応対ができないのではないかと思った。

がん患者の多くが、死の恐怖によるPTSD(死の恐怖が突然、浮かんでパニック、精神的麻痺、不安)になることがあるという。また、うつ病にもなる。そんな人に出会ったら、関牧翁は、気休めは言うかも知れないが、手の施しようはなかったのではないだろうか。一個の真面目な求道者であったのではあろうけれど。


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肉体から意識を後退させる

2006-08-21 07:14:48 | 現代冥想の到達点
◎強盗に重傷を負わされた老ラマ(僧)

ベテランのクンダリーニ・ヨーギならば、重傷を負った時に、意識を肉体から後退させて、冷静に会話をする程度のことはできるものだ。これは、重傷を負ったチベット僧の例。

『この聖なるラマは、ブータンの隠居所で神秘的瞑想をする世捨人だった。弟子の一人が隠居所に同居し、師に仕えていた。

ある日のこと、経験な篤志家の人が訪れて、冬場に備えて喜捨をしていった。ところが弟子は欲にそそられ、師を刃物で切りつけた挙げ句、銀を持ち逃げしてしまったのだ。

老ラマはまだ生きていて、弟子が逃亡した後に意識を回復した。傷が激しく痛み、この拷問のような苦しみから逃れようと彼は瞑想に入った。

この時の凝念によって、体は無感覚になり、何も感じなくなる。少なくともかなりの程度、痛みを和らげることができるのである。

さてもう一人の弟子が二、三日後に訪れると、師が毛布にくるまって転がっているのを発見した。化膿した傷から漂う臭気、そして毛布にべっとり付着した血痕に気づいた弟子は、師に事の次第を尋ねた。師は起こったことを話して聞かせたが、近くの寺から医師を呼ぼうと弟子が申し出ると、これを禁じた。

「ラマや村人が、わしの状態を知れば、犯人を追い詰めるじゃろう」と老師。「あれは、まだ遠くにまで行っていない。きっと捕まり、死刑にされてしまう。そのようなことはさせられない。逃げる時間を与えてやりたいのじゃ。いずれ正道に目覚める時が来る。だからお前がここで見たことは、誰にも言うてくれるな。行け。わしは一人になりたい。瞑想していれば、苦しまずに済む。だが、意識が戻れば苦痛に耐えられない。」

東洋の弟子は、この種の命令に逆らったりはしない。弟子はグルー(師)の足下に平伏し立ち去った』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店から引用)

自分の身を傷つけた不肖の弟子に対する恨みごとなど一言もなく、その弟子の将来に対する思いやりだけが残っている。そして自分の命が助かるかどうかなどということは、発想の第一番目には来ないどころか、関心がないかのようだ。死を克服して、肉体の性質と限界をきちんとわかっている者だけがこのような応対ができる。

クンダリーニ・ヨーギ(行者)とは、このようにありたいものだ。生存競争しないという生き方だけれど。


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サマリアの女との邂逅

2006-08-20 06:51:56 | キリスト者の秘蹟
◎知っているものを礼拝する。

サマリア人というのは、当時ユダヤ人から差別されていた。このサマリアの女は夫を5人も替えて、今は別の男と同棲していることをイエスに見抜かれてしまった。当時サマリア人は、ゲリジムの山で礼拝をしていたが、ユダヤ人はエルサレムの神殿での礼拝を求めていた。

イエスは、これらに対して、自分の内にある、自分が知っているもの、すなわち「霊と真理」に対する礼拝を勧める。イエスは、この世の終りの時代がすぐにでも到来するかのように思い込んでいたので、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時」と強調した。

もっとも「今がその時」と強調するのは、今しかないという信仰の決意を示してもらう効果を期待した言い方でもあるとも考えられる。イエスはこの言い方で、時間の概念のない世界から、サマリアの女に語りかけたのだという見方もできる。

イエスは神は霊だと説明する。自分とは別に神が存在するという説明の仕方を、2千年前の、言葉がこれほど氾濫していない純朴なパレスチナの人々に対して採用したのだ。

自分とは別の存在として神が存在しているが、その神は自分の内にあり、自分がよく知っているものである状態とは、少なくとも見神体験がある状態なのだろうと思う。磔刑の前夜、三度イエスを知らないと言った弟子にも、そういう体験はまだなかったのだろう。

見神体験もない人(サマリアの女)に、ただイエスを信じることを求めたイエスの愚直さが、その後の2千年のキリスト教の成功の源になった。

『イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女(サマリアの女)は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。

イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』
(ヨハネによる福音書4-7-24)


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アンリ・ミショーのメスカリン実験

2006-08-19 06:37:41 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎メスカリンの小さな死

メスカリンは、メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ドンファン・マットゥスのエピソードで有名になったカルロス・カスタネダのシリーズで頻繁に用いられるペヨーテ・サボテンの抽出物。

フランスの作家アンリ・ミショーは、酒も飲まない人であったが、意識の拡大の地平線を見るべく、メスカリンを友として旅に出てみた。

これを見ると、トリップの間、様々なイメージ、ビジョンを見るが、常に「見ている自分」が失われることはないこと。そしてパックリと大きな割れ目が頭に開く感じがあることが一つの特徴であるように思う。

割れ目がパックリと頭に開く感じは、見性や見神とは別のものであるが、見知らぬ世界をかいま見るというショックから、そのことを見性や見神と勘違いする人がいても不思議なことはないように思う。そしてこの感じは、薬物によるトリップによる特有のものである可能性があるので、これからは注目してみることにしていきたいと思う。

いずれにせよ、薬物トリップは、見え方のバリエーションはあるのだろうが、ほとんどの人では、自分の潜在意識を、自意識から出ることなく見るに留まるのだろうと思う。
従って薬物より、まず自意識の深まりの方が先決であり、そのためには冥想による感受性の深化が先だろうと思う。

『小さな死から小さな死へと、何時間もの間難破から救出へと、我々は運ばれる。三、四分間に一回ごとに、何の不安もなしに打ち倒され、すぐにまた、ゆっくりと、奇蹟のように蘇りながら。ただ長い溜め息だけが、--それを知っている人々にとっては長いと言える--新しい救出を告げるのだ。

だが、航海が続くとまた新しい死が用意される。そしてその死からまた、われわれは再び同じようにして出てゆくのだ。それはまるで収縮と拡張が一時間に十五回か二十回しか起こらないもう一つの心臓を、我々自身が持っているかのようである。

しかしながら存在するのかしないのかそれは知らぬが、この倦むことのない器官は自分の力と自分のドラマとを繰り返し誇示し、我々は既に疲れているにもかかわらず、そのドラマに参加しなければならないのだ。そしてそのサイクルの四分目毎に、われわれはほっとして、われわれの頭の中で行われるこの抱擁の終りを表す安堵の溜め息をつくのである。

わたし自身このようにして運ばれて行き、最後にはわたしは、私の肉体と人が私の頭と呼ぶ道具とをそれにゆだねた。これはまたパックリと開いた、多分いつまでも開いたままでいる大きな割れ目が自分の中に作られる機会であった。』
(アンリ・ミショー全集/みじめな奇蹟/青土社から引用)


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Le Journal,Pablo Picasso

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空手と空

2006-08-18 05:48:24 | 時代のおわり
◎空手に先手なし

沖縄は、500年ほど前の尚巴志王が庶民に武器を禁じた。その後慶長14年に島津家が沖縄を制圧してからは、一切の武器を取り上げたので、これが沖縄で身体のあらゆる部分を鍛えて武器のように扱う空手が発達する原因となったといわれる。

日本本土に沖縄の拳法を最初に持ち込んだ人は、明治三年沖縄首里生れの船越義珍である。義珍は、唐手の奥義を極め、後に沖縄尚武会会長となる。

義珍は、唐手が悪用される場合を恐れて、禅語のを意味を採って、空手と改称し、「空手に先手なし」という指針を打ち出して、空手の神髄は心の道であるとして、粗暴な振る舞いを厳禁した。

昨今は、フルコンタクト空手であるK1もあるが、「空手の悪用をおそれる」という視点を厳しくとるならば、そうしたものは、あまり感心したことではないように思う。

むしろフルコンタクト空手のようなものを歓迎する人が極めて多いことのほうが、より尖鋭な刺激でないと満足しない世上の心理を反映していて、TV視聴者も含めて、大衆の心理が、より深刻なもの、より激烈なものを求めていくようになっていることのほうが世相全体の危うさの反映でもあるように思う。

また感動が薄いから、演出過剰になるのは、どの分野でも見られる傾向。


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ユダ福音書の天地創造

2006-08-17 05:46:03 | キリスト者の秘蹟
◎いかなる名前でも呼ばれたことがない

ユダ福音書に、イエスがユダに対して、世界の創造を述べた条々がある。

『イエスは言った。「来なさい」未だかつて何人も目にしたことのない秘密をお前にお教えよう。

それは果てしなく拡がる御国だ。そこは天使たちも見たことがないほと広大で、ひとつの目には見えない霊がある。

そこは天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない。

「そして、そこに輝く雲が現れた。彼は言った。『一人の天使を、わたしの仕え手として生じさせよ。』云々」』
(原典ユダの福音書/日経ナショナルジオグラフィック社/から引用)

「天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない。」こうしたものは、老子道徳経の第一章に「無名天地之始」(無名は天地剖判以前のものを無名と言う)とあり、同じ”無名”をイメージしていると感じられる。

つまり「果てし無く拡がる御国で、名前もなく、いかなる思念によっても理解されないもの」とは、個が現れる以前の唯一の言葉で表現できない一人称でしか語り得ない神そのものであり、仏教でいう空でもあり、道教の無名=タオでもあるとみることができる。ここにあなたと私という二区分のない世界が拡がる。これは、宗派によらず、体験している自分、見ている自分のない、ただの一人称の世界である。

個の現れは、輝く雲が現れて、天使を生じさせるところから始まる。ここで、一人称以外のものが登場して、天地創造がスタートするのである。

このように、グノーシス系の世界観にも、それなりの正統性がうかがえる。


    1日1善。1日1クリ。

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