アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

罪を真に免れる

2006-06-30 05:30:18 | 老子
◎老子第62章 道者万物之奥

不善人の保(やす)んずるところとは、最後の部分の、その不善人の罪を「この道によれば、真に免れる」ことができるところ。不善人の犯した罪は、カルマ論的に言うならば、善なる行為を積んで消して行くしかないが、ここではそのような悪業の漸進的な消滅をいっているのではなく、罪があるままそれを免れるとし、あくまで個人的・人間的な感覚を越えた道(タオ)というものを賛嘆している。

罪などどこにあったのか、いやどこにもなかった。カルマの法則は昧(くら)ますことはできず、悪い行動をすれば、悪い報いがある。しかし悪い行為も悪い報いも、ひっくるめて、すべて道(タオ)の現れてあると言い切る時には、もはや人間個人という見方はなく、道(タオ)が個人として現れて、悪行も善行もあるドラマを演じているという見方である。

『道は、万物の最も根底的なものである。

それは善人にとっては無上の宝であり、不善人にとってさえも、彼の守られているところのものである。

だからこれはどんなに美しく言い飾って、売っても差し支えなく、またどんなに尊び行って、人に加えても差し支えないのである。かくの如きだから、その人が不善であるからといって、その為に道は棄てるべきものではない。

この故に天子を立て三公を置くならば、四頭立の立派な馬車で名玉をこれに献上するよりも、むしろこの万物の根底たる道を居ながらに奉るに如くはない。

古の人々がこの道を貴ぶ所以のものは何であるか。言っているではないか。この道によって求めさえすれば、得られないものなく、罪があっても、この道によれば、真に免れることができると。だからこの道こそ天下の宝なのである。』


    1日1善。1日1クリ。

hideaway/Inga Nielsen

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ポワ

2006-06-29 05:43:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎技術の核心部分

ポワという言葉は、インド後期密教の経典のひとつチャトゥシュピータ・タントラのウトクラーンティという行法のチベット語訳である。
オウム真理教事件のおかげで、ポワは殺人の別称になってしまったが、本来は、クンダリーニ覚醒の核心技術である。 

以下のテキストでは、完全呼吸法をやって、アナハタ・チャクラに風の種字を観じて、ヘックと唱え、二十一回の激しい呼吸を行って、意識を上に引き上げるとある。ところが、このような精妙なる技法は往々にして、呼吸がほとんどないような鎮静した状況で初めて行われるもののはずなので、『二十一回の激しい呼吸を行って』という件りは、おそらく真実ではないだろう。だから、このテクストどおりやったのでは、期待されることは、起こらないと思う。

そもそもポワを操れる技量のあるグルが指導することが絶対条件なのだから、テクストどおりやったからと言って、できるはずもない。

『ウトクラーンティを行ずるに際しては、まず呼吸を制御するクンバカ(完全呼吸法)を修し、九門をふさぎ、体内に風(プラーナ)を充満させる。「クンバカ」というサンスクリットは、「瓶」や「壺」を意味する。そして胸には風輪、性器の根底部には、燃え上がる火の種子を観想する。

いよいよ意識を遷移させる時が来た。ウトクラーンティを行ずる行者は、胸の風輪(チャクラ)に風の種子を観じ、「ヒック」という掛け声とともに二十一回の激しい呼吸を行い、意識を風に乗せてなるべく上へ上へと引き上げ、意識が頭頂から抜け出るように努めるのである。

『チャトゥシュピータ』は次のようにウトクラーンティの功徳を説いて、次第を締めくくっている。

九孔の上部から、即座に意識(マーサナ)が遷移すれば、日々バラモンを殺し、
五無間罪を犯した者も、窃盗を好み楽しむ者も、この道によって浄化され、罪に汚されることなく、生存の難より遠く離れる。

あたかも泥沼から生じた蓮華のつぼみが汚れなきように、泥沼である肉体から、智慧の身体を望みのままに成就する。』
(インド後期密教/松長有慶/春秋社から引用)

※九門(眉間、臍、頭頂、目、鼻、耳、口、尿道、肛門)


    1日1善。1日1クリ。

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クンダリーニとウパニシャッド-10

2006-06-28 04:37:12 | クンダリーニ・ヨーガ
◎坐法と調息-1

ここでは、印とプラーナ(体風)の上下が問題となる。食事の節制と坐法の工夫が基本であるが、イダーとピンガラーの区別をつけてプラーナを流すので、既に脈管の区別がつく程度の感受性は開発されていることが条件となる。

従ってこれより先は修行のプロ用のテキストということになる。

シャーンディルヤ・ウパニシャッド(ウパニシャット全書)から以下引用。

『さてヨーギは煩悩を征服し、食事を節制し、坐法を工夫して、しみじみと坐ること。ヨーギはスシュムナー脈管に停滞している。濾滓物を払拭するために、未敷蓮華坐(蕾の蓮華坐?)で坐し、月(イダーか?)によって体風を吸満し、できる限り止息し、太陽(ピンガラーか?)によって呼出せよ。再び、太陽によって吸満し、止息し、月によって呼出せよ。

このように呼吸を交互に持続しなさい。これについて、ここに偈がある。

1.最初にプラーナ(生気)をイダーによって吸入し、更にこれをピンガラーによって呼出せよ。ピンガラーによって体風を吸入し、次いで止息し、イダーによって排棄せよ。
太陽と月の暦において、かの手順に基づき、絶えず修行を凝らせよ。
このように3月を越えれば、この制感者(ヨーギ)に清浄なる脈管の交絡があるだろう。

2.実際に、早朝、日中、薄暮、真夜中に、止息法を行じながら、八十に到るまで静かに、一日に四回実習しなさい

3.最初に身体より発汗するだろう。中間に震えを覚え、最後に気息がまったく止んで、大蓮華坐が現成するだろう。

4.水垢離をとって、身体の苦行、修練をしなさい。
そうすれば行者の身体に軽快な爽快さと力強さ忍耐強さとが生じてくるだろう。

5.常時修練するにさいしては、最初に牛乳やバターの食事が好ましい。
それ故、常時修練がもしストップしてしまえば、その時ニヤマ(勧戒=清浄、知足、苦行、読誦、献身)を成功することはできないだろう。

6.あたかも獅子、象、虎が、徐々に慣らされるように
体風もまたそのよう養成されるべきである。そうでなければ、その効果をそぐことになる。

7.適宜に体風を呼出し、適宜にこれを吸満し、適宜に止息せよ。
このようにしてシッディ(窮極)に到達するだろう。

8.随意の執持(凝念、一点集中)により、消化風に火炎が生じてくるだろう。
脈管が清浄になることにより、病患は癒え、鼻音明晰となるだろう。

9.手順どおり、調息することにより、脈管の循環は清浄になり、
スシュムナーの口を開き導けば、体風は容易に通じるだろう。

10.体風が身体内に縦横に動けば、意識の安定が自ずから生ずるだろう。
意識が安定の状態に至れば、これは無心の状態である。

11.呼満ステージの終りにするべき印相は、持水相印(水をすくうときのような印?)となづけられ、
止息ステージの終り、呼出ステージの初めに行うべきは、
実に飛翔相印(九会曼陀羅の第八印?)である。

12.下方より脈管を緊縮させ、急激に頸を収縮させよ。
内部においてはパシュチターナ(最後の外延)によりて、プラーナ(生気)は、ブラフマナーディ(梵脈管)に通ずる。

13.アパーナ(吸息)を上方に挙げ、呼息を喉より下方に導く。
このようにしてヨーギは、老衰より免れて、青春の十六歳となるだろう。


    1日1善。1日1クリ。

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偽の教師

2006-06-27 06:14:30 | マインド・コントロール
◎それはあなた次第

終りの世には偽預言者や反キリストが出るという。21世紀に、神や仏を見たこともない者が、他人に神や仏のことを教える人が多数いるのを幻視して、偽預言者や反キリストが出ると見たのだろう。

偽預言者や反キリストには、偽物の弟子がつく。偽物の弟子は、しばしばカルトの被害者や、霊感商法の被害者として、社会的には分類されることがある。そこで、行列のできる法律相談所に駆け込めばよいという問題ではない。ことの本質は、経済的損失補償にはなく、自分の人生、真の幸福の問題なのだ。

『だから覚えておくこと。偽の教師に出会ったとしたら、それはあなたに偽の教師がふさわしかったということだ。だからこそ偽の教師に出会うのだ。

偽の弟子は、本物の教師には出会えない。あなたこそが教師や導師を創り出すのだ。小物の教師も偉大な教師もあなた次第だ。あなたは自分にふさわしい人間に出会う。偽りの人間に出会ったとしら、それはあなたゆえだ。

その責任はあなたの方に有る。・・・・偽りの人間の方にはない。導師もまたあなたのマインドの一部だ。夢の世界の一部だ。

そして目覚めていない人間には、自分を邪魔してくれる人、手助けしてくれる人が必要だ。もしその人が技法を与えてくれたら、それは導師だ。もしその人が教条や原理や主義を教えるだけだったら、それはただの教師だ。

でもあなたは現段階では、そんな人を必要としているのかもしれない。』
(愛の円環/和尚講話録/市民出版社から引用)


    1日1善。1日1クリ。

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見知らぬ世界

2006-06-26 04:09:50 | 究極というものの可能性
◎未練を残したままで

ダンテス・ダイジは、見知らぬ世界とは、本当のニヒルの世界であるという。それは灰色の世界で、なんでもみんな同じに見えてしまう。

『電信柱だろうと、道路だろうとね、みんな見知らぬものなんだ。
ところが見知らぬっていうのは、知ってること、何か知ってるものがあってそれに対して見知らぬだろう。そんなこと抜きにして、見知らぬものなんだ。みんな。それに近い感覚っていうのはここにいる人たち、みんな経験しているはずだ。そういう時代が来てるからだよ。

ところが本当にどんづまりに来た時っていうのはさ、見知らないんだ。本当に見知らぬものなんだ。

ところが見知らぬっていうふうにして、慌てるっていう意識さえない。まるでね、そう魂をどっかに落っことしたような。(中略)本当にもう灰色というか白というか、ゼロというかゼロポイント。』
(素直になる/雨宮第慈講話録4から引用)

ダンテス・ダイジは、この世的なものに未練を残している状態を「観念が先行している」状態と表現する。死んだら霊界があるとか、死んだら魂が転生するとかも観念の世界。仮に霊界があって転生したとしても喜怒哀楽があり、相変わらず「観念が先行している状態」に変わりはないとする。

差し引きゼロとは、諸行無常、諸法無我、この世の現象が実体がないことか。この世的なことに未練や関心を残したまま、差し引きゼロであることに居ることが起きた場合、見者でありながら、自由気ままな行動に走る危険性があることを、ここで指摘している。

『で、このくらいまで行けばさ、もうブラック・マジックも成立しない。ブラック・マジック、つまり破戒っていうけど、破戒無慙とか破戒僧とかいうのはね。ゼロポイントのひとつ手前に留まるんだ。

つまり差し引きゼロの世界にとってはさ、もうやることがないんだよ。

ところがまだ観念が先行している時に、差し引きゼロって気がつくとね、もう何してもいいという発想が出てくる。

でも、いい?
本当に本当に悲しめよ。いいか。悟りっていうのは、悲しみのことなんだ。命の悲しみのことなんだよ。理屈抜きの本当に悲しみに直面できる感受性、それが悟りだ。

ああ、神秘学とかさ、なんか霊的なんとかいうのはさ、全部ままごとさ。この世界においては。』
(素直になる/雨宮第慈講話録4から引用)

冥想十字マップでは、無相定と有相三昧の間に愛を置いているが、ここをゼロポイントと呼んでいるような気がする。


    1日1善。1日1クリ。

ベロニカ/エル・グレコ

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グルジェフのエーテル体

2006-06-25 06:11:41 | 現代冥想の到達点
◎遠隔治療の原理

遠隔治療と呼ばれるものがある。効くか効かぬかは、施術者によるが、その原理的なものについて、グルジェフが言及している。

まずグルジェフは、最後の晩餐でイエスが弟子たちにパンとぶどう酒に混ぜて与えたものは本当にイエスの血であったと主張する。

あらゆる生命体は、その周辺にエーテル体(大気)を持っている。そのエーテル体の大きさは、生命体により異なる。人によりエーテル体の匂いは相違するので、犬などはその匂いをかぎ分けることができる。

人体で産出される成分の一部は、消化、呼吸など他の物質を変換させるために使われるが、残りの部分はその人のエーテル体になっていく。つまり失われるということ。

知者は、純良な物質を自分の中に蓄積することを知っているが、純良な物質が大量に蓄積されると、人間の中に第二のより軽い体(アストラル体のことか?)が形成されるという。しかしふつうの人のエーテル体においては、蓄積されず、絶えず消費され、内面の動きにより補充される。

人のエーテル体は、必ずしも球状ではなく、絶えずその形を変え、緊張した時や、脅威や危険にさらされたときは、緊張した方向に伸びる。そうすると反対側は薄くなる。

エーテル体は、一定の空間でその人に引きつけられているが、一定の限界を超えるとエーテル体を構成する細かい粒子のの群れが引き離され、戻って来ない。人が動くときに、エーテル体が一方向に甚だしく引っ張られると、その人のエーテル体の粒子が引き離されて背後に残り、跡が残る。この跡はかなり長い間残ることがある。

こうした跡を、神域、聖域、墓所などで、聖者のバイブレーションとして感じることができるわけだ。

エーテル体の粒子は、衣服、下着、その他その人の持ち物に定着するので、その人のバイブレーションとして残る。

催眠術や、遠隔現象は、この原理を応用したものである。遠隔現象を起こす能力を持っている人は、この跡をその人自身のエーテル体半物質で埋めることができる。
相手の持ち物があれば、その持ち物で相手との(無線的)接続を行い、その持ち物の周りにワックスや粘土で肖像を作り、そうしてできたイメージに作用するという方法でその人自身に作用する。
(底本:グルジェフ/弟子たちに語る 第四部/メルクマール社)

グルジェフは最後の晩餐に与えた食物には、イエスのエーテル体が含まれていたので、血そのものを与えたのと同じであると説明している。

OSHOが弟子に与えた形見の品が、弟子の家の片隅に置かれているが、その弟子が一向に修行しないところを、OSHO自ら幻視しているシーンが書かれているところがある。

聖者の形見の品は、このようにエーテル体を媒介として、そのバイブレーションを長く残しているものだろうから、その場所が、聖域同然になってしまう。
だから仏舎利、聖骸布など、聖者の遺品に類するものに対する丁重な扱いは、故のないことではなかったのである。

また遠隔作用がエーテル体レベルだけかという点についても、議論はある。


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戦争世論の形成

2006-06-24 06:19:23 | 時代のおわり
◎非倫理的行動と集団催眠

非倫理的行動と催眠のテーマについて、ハイデルベルグの女性が1930年代に自分が夫から殺されるという脅迫観念を植えつけられて、夫に対する殺人未遂を繰り返したり、自殺未遂を行っていたが、その原因は7年間に1000回以上にもわたる催眠暗示が繰り返されていたことだというテレビ番組があった。

この中で強調されていたのは、通常は本能的に抑制される、自殺や殺人ということが、自分が殺されることは避けるという自己保存の欲求があるにもかかわらず、自殺や殺人未遂が行われたということである。

国レベルでの戦争について考えていくと、催眠暗示は、世論形成に該当する。
そして自己保存の本能とは、自国が他国から侵略されるかもしれない、したがってその危険を避けるために、やむなく、他国を攻撃し、他国の人々を殺すのは是なのだという宣伝を行うところに当たる。

社会全体がそのような世論形成が成されていれば、『戦争は本来問題のある考え方だという考え方が正しくない』という世論自体が、後催眠暗示にあたるところであり、同時に健忘暗示という効果をも与えることになる。
社会自体が、巨大な自己催眠の施術者になり変わってしまうのだ。

マスコミによる戦争翼賛というのは、このように、繰り返し与えられる催眠暗示のようなものだということは、戦争体験のある世代の方々はよくご存じだが、今では、それを、政府・マスコミは言わない。


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無門関第四十七則  兜率三關

2006-06-23 04:14:27 | 丹田禅(冥想法8)
◎肉体から去る時

兜率和尚の三つの関とは、次の公案である。

「諸方を暦参して、宗旨の根本に参入する理由はただ一つ、自己の本性を見届けるにある。さあ、今あなたの自性はどこにあるか。」

「自性さえしっかりと把握することができたならば、たちどころに生死の迷いを脱却するはずだ」

「生死を脱することができたならば、死んでからの行く先もわかるはずだ。あなたの肉体が分離する時どこに向かって去りゆくつもりか」

これは、単に見性するだけではなく、死ぬ瞬間にどこに行くかを見届けなさいということ。それを見届けないとこの公案を透過できないというのは厳しい。

「何の根拠もない安らぎ、大安心があって、清明なはっきりした意識のまま、頭頂からメンタル体で抜け出ることになることを見極めましょう。」
などと参禅して答えると痛棒を喰らうこと疑いなし。


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右道と左道

2006-06-22 05:57:47 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
◎タントリズム(密教)の2大勢力

ヒンドゥー教のヨーガの行法は、左道と右道に区別される。右道は、クンダリーニ覚醒のことで、各ボディ(四つの身体)においてチャクラを活性化させて、最終的には、肉体を離脱して、純粋意識に到達しようとするものである。

左道は、カーマヨーガのことで、性愛冥想のことである。ヒンドゥー教にも、仏教にもタントラ絵画とか彫刻があって、赤裸々なセックスの表現にぎょっとさせられる。男女の性器や交合があからさまに描かれたり、刻まれたりしているからである。

右道密教の修行であれば、まず禁欲であり、坐って観想が骨子となるので、性愛の登場する余地はない。なぜそれに匹敵する流儀として左道タントラが連綿として受け継がれていったのか非常に興味のあるところである。

さて性愛冥想というのは、男性側の修行法であって、男女双方の修行法ではない。従って、未だ解脱していない者が、修行の技法として性愛冥想を修したというのは、あまり現実的ではないのではないか。よって性愛冥想は、男女いずれかが解脱者である場合にのみ、成立するものではないかという疑いを禁じ得ないのである。

人間の心理というものは、睡眠時以外は、社会の規制や影響を受けているものであるから、セックスにおいては、覚醒時において、そうした影響から飛び出して、生命エネルギーそのものの流れを実感するところはあるものだ。

生命エネルギーの流れを実感して、社会の規制から一時的に遊離するという意味において、西洋にもディオニュソス的な乱痴気騒ぎ(乱交)の伝統があった。日本でも真言立川流などは、時の皇族に近いところで支持されていた形跡があるので、身分の貴賤を問わず、洋の東西を問わず、そうした社会心理的ニーズはあったのだと思う。

ところが、そうした動きは、社会的にもめごとの種を増やすだけのことになりかねないので、歴史的にキリスト教支配下の西洋でも、儒教道徳支配下の中国でも日本でも、左道タントリズム的な動きは禁止されてきた。

ようやく最近(1960年代以降)になって、そうしたものを偏見なく評価ができるほど社会も、個人の理性も成熟してきたということになる。


    1日1善。1日1クリ。

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サンジェルマンの時代

2006-06-21 05:53:51 | 究極というものの可能性
◎不死の男

サンジェルマンと言っても、お菓子屋さんのことではありません。
おしゃべり、見栄っ張りで、自分の絵の才能、歌の才能、バイオリンの技術を披露するのが大好きだった、18世紀ヨーロッパによく活躍した謎の長寿の人物。

サンジェルマン伯爵は、1756年頃フランスに初めて姿を見せた。
外見は50歳前後であった。
『話術に長じ、多くの国の言葉を話し、医学についても知識を持ち、第一級の実験科学者だった。小柄な体を黒のベルベットの服に包み、白のサテンのネクタイを結んでいる。

男性の華美な服装が全盛の当時としては、地味なほうだ。態度物腰は洗練を極めている。相当裕福らしい。沢山のダイヤモンドを身につけている。召使たちが大勢かしづいている。しかもこの召使たちのしつけは極上に行き届いている。

ある男が召使の一人に鎌をかけた。「おまえさんの主人は嘘つきだ。」
祖師使いは答えた。「あなた様より私の方がよく知っております。主人はだれに対してもご自分を四千歳と言っております。私はお仕えしてまだ、百年しかたっておりません。私が初めてお会いしたとき、主人は私にご自分の年を三千歳とおっしゃいました。9百歳お間違いになったのか、あるいは嘘をつかれたのか、私にはわかりません。」

もうひとりの従者は昔のことを聞かれて、次のように答えた。「伯爵様は、私がお仕えしてまだ5百年しかたっていないことを多分お忘れなのだと思います。」』
(世界不思議百科/コリン・ウィルソンから引用)

このようなやりとりから、不死の男サンジェルマンの評判がたち、ルイ15世と護衛をつけずに会ったりしている。百年前の人物のことを詳細に語り、相手の度肝を抜いてその超高齢を裏付けている一方、ペテン師の評判も高かった。

仙人に比較的長寿の従者がついているのは、わりとよくあることだが、王権が精神界のリーダーと思しきサンジェルマンに会って、娯楽と実用的な知識のみ開陳した形跡しかないというのは、その後の西欧文明が物質文明をさらに発展させることが、テーマであったことの裏付けなのだろう。

通常、こういう人物が、王の前に登場した場合は、何か求道的な警告を与えることが多いものだが、それがないというのところが、サンジェルマンの特徴であり、世間には、その驚くべき長寿だけが取り沙汰される結果になっている。

ナポレオン3世は、サンジェルマンについて膨大な文書を収集したが、パリコンミューンで、灰塵に帰したそうだ。


    1日1善。1日1クリ。

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ヘルメス文書-6

2006-06-20 06:46:53 | 究極というものの可能性
◎現代人に欠けているもの

正当な理由があれば、嘘をつくことは悪いことではないとか、他人の不幸は面白いとか、他人にバレない限り悪いことはいくらでもやってよいとか、呆れるような世間の常識がまかり通っている。そんな中で治安の悪化は着々と進行している。

治安の悪化、特に子供に対する犯罪の増加の対策として、警備の充実などが行われている。しかし、犯罪を起こさない窮極の対策としては、犯罪を引き起こすような心性をなくすことしかない。

それは、悪いことをしない、善いことをするというのが当り前の気持のことである。嘘をつかない、他人の持ち物を奪わない、他人を傷つけない、喜んで自分の持っている物を差し出すことなどが、自然であると感じる心性のことである。そういう気持をほとんどの人が持つ社会は、今は夢想に過ぎないが、それを実現する只ひとつのプロセスがある。

それは冥想により、神性というものを、個々の人が、全人的な理解をすることである。それは知的理解ではない。神を全人的に理解した人間は、悪を行うことが出来なくなる。

『身体を愛し、悪の内にあるのなら、と美の何ひとつとして、知解することができない。言い換えれば完全な悪とは、神性に対する無知である。

(神を)認識する能力を備え、その意志を有し、その希望を抱くこと、それが<たやすく>善へと導く<固有の> そして平坦な道である。

それ(善、あるいは神性、あるいは神)は、道を行くお前に至るところで出会い、至るところで現れるだろう。予期せぬ所や時に、目覚めている時にも眠っている時にも、舟の旅でも陸の旅でも、夜でも昼でも、語っている時にも沈黙している時にも。

なぜなら、(何であれ)それ(善、あるいは神性、あるいは神)でないものは何一つ存在しないからである。』
(ヘルメス選集XI/ヘルメス文書/朝日出版社から引用)

神を認識する能力は、もともと人に備わっているのだから、後は冥想するだけである。


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ヘルメス文書-5

2006-06-19 00:07:04 | 究極というものの可能性
◎人は天界をも突き破る

この星雲が一杯ある宇宙の果ては、依然として肉体レベルの、いわば第一身体の宇宙であるが、これを突き抜けると霊界に入る。ヘルメス文書でいう神々の天界は、霊界も眼下に超えて、神話の神々の世界である第六身体レベルであるから、ヘルメスは、神々の住む天界をも突き破り、その外側の世界すら見ることができる秘儀のあることを保証している。

人間にとってその秘儀とは、クンダリーニ覚醒しかないのだろう。ヘルメス文書は、クンダリーニ覚醒技術のある人間に対して、神の側からいろいろな示唆を与えているように見える。「霊魂が天へ翔ける技」とは、クンダリーニ覚醒のエネルギー・コードを、頭頂を離れて垂直上昇することだろう。

またチベット密教でよく密教の成就者を「天空を行く者」と呼ぶが、これは、クンダリーニ覚醒し、中心太陽を一瞥すべく、多数の次元を越えて、天空を上昇していく者のことをそう呼ぶのではないかと思う。

「あたかも(いきなり)かしこに居るような移動」とは、アストラル・トリップの中でもかなりの手練の技。勿論肉体移動のことではない。

合気道の植芝盛平が、道場内で多数の弟子に同時に打ちかかられたとき、これを避けるため、瞬間移動したことがあって「寿命を十年縮めた」と語ったそうなので、肉体レベルでもできないことはないが、問題が多いようだ。

『天界の神々の誰ひとりとして、天の境界を後ろにして、地上に降りて来る者はないが、人間は天までも昇ってそれを測定し、天の上部にあるものがいかなる様であるか、その下部にあるものがいかなる様であるかを知り、その他すべてのことを正確に学ぶ。

そして何よりもすぐれている点は、地から去らなくとも上方に至るということである。彼が届くことのできる距離はこれほどに長大なのである。』
(ヘルメス選集X/ヘルメス文書/朝日出版社から引用)

『次に、自らかくのごとく知解するがよい。お前は、自分の霊魂に、インドへ赴くように命ずるのだ。すると霊魂は、お前の命令よりも速やかにかしこに居るであろう。

また霊魂に大洋(オーケアノス)へ向かうように命ずるのだ。すると霊魂は、再び同様に速やかにかしこに居るであろう。それは場所から場所へと移動して行くようにではなく、あたかも(いきなり)かしこに居るようである。

また霊魂に天へと翔けるように命ずるのだ。すると翼さえも必要としないであろう。いや霊魂を妨げるものとてないであろう。大洋の火も天空(アイテール)も、天の回転も、他の星辰のなす天体も(妨げはしないだろう)。

霊魂はもろもろの天体を突き抜けて翔けり、最後の天体にまで達するだろう。しかし、もしお前がそれ(最後の天体)をも完全に突き抜け、その外にあるもの・・・・世界(コスモス)の外に何かがあるとしてだが・・・・を眺めたいと思うなら,それも許されている。』
(ヘルメス選集XI/ヘルメス文書/朝日出版社から引用)


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Astronomy Picture of the Day/ Neptune

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かわず飛び込む水の音

2006-06-18 06:04:06 | 丹田禅(冥想法8)
◎古池真伝

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。

さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。

六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、
「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。
芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。

今度は仏頂和尚が、
「この頃の調子は、どうだい」と問うと
芭蕉は、
「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。

更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけると

その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。
芭蕉は、
「蛙飛び込む水の音」と答えた。

仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。

本分無相(本来の自己に相はない)
我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)
若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)
看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)

その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、
芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」

杉風は 「宵闇や」、
嵐雪は 「寂しさや」、
其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら

古池や 蛙飛び込む 水のおと

に決めた。
(底本:禅門逸話選/禅文化研究所)


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睡蓮/モネ

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マイトレーヤ/ミトラの未来

2006-06-17 06:22:54 | 現代冥想の到達点
◎地球の破壊と存続

ミトラ教またはミトラス教は、インド・イランの神話に出てくる宗教のひとつであり、ミトラという神名は、リグ・ヴェーダなどにも見える。またミトラとはマイトレーヤの別の呼称であるとされる。

ミトラ教の特筆すべきポイントは世界の再生のやり方である。世界再生には、この地球が存続して、その上に新しい大地を迎えるシナリオと、この地球は滅亡破壊され、別の天体に新しい世界が展開するシナリオの二通りである。

たとえばヨハネの黙示録北欧神話では、世界再生とは、新しい大地の浮上であり、これらは、この地球が存続するタイプである。
一方ミトラ教では、現地球コスモスの崩壊と新コスモスでの生という特筆すべきビジョンとなっている。

「ミトラ神学/東条 真人 (著) 」の「東方ミトラ教の神話」の章の末尾にはこのようにある。

最終戦争の後『決戦の後、コスモスは廃墟となる。・・・中略・・・
まもなく最後の時を迎えるコスモスの中に生ける霊ミトラが来るだろう。彼は死の意志と闇のすべてを一つに集め、そのために立てられた住居に閉じ込めるであろう。それは闇を永遠にそこに繋ぐためである。・・・中略・・・

すでにすべての光のかけらたちは、コスモスから脱出したようだった。コスモスは脱け殻のようになっていてもはやまぶしい光芒をはなってはいなかった。コスモスは回転が止まると燃え盛る業火の中にゆっくりと沈んでいった。

解消させられるべき世界の代わりに新しい世界がたてられるであろう。』

この部分こそ注目すべき、地球コスモスの破滅と人類の霊魂という鳥が新しい枝である別の天体に再生するシナリオであるように思う。

1950年代以来、人類は核戦争による全滅の危機に直面して、すでに50年以上を経過している。

神話の中に、世界再生のビジョンが、地球が存続するタイプと地球という天体が消滅するタイプと二通りあるということは、人類の集合的無意識の中に、これから先のシナリオが二通りあるということである。

近代西欧文明のバックボーンがキリスト教であるように、文明や政治は、その背景にこうした宗教的指導理念を意識的・無意識的に持っている。「全面核戦争をも辞さず」という政策をとり続ける国には、ミトラ教型の「地球という天体が消滅もやむなし」というビジョンが背景に見え隠れしているように感じられる。

加えて、弥勒・マイトレーヤの登場であるが、地球の破滅の最後の時に引導を渡すものとして登場しているところは、マイトレーヤの本質を暗示しているもののように思う。

マイトレーヤにとって、人間的な幸福というものには、もはやあまり関心がなく、不壊なる神の世界での宇宙規模のイベントの偉大な執行者として登場してくるにすぎないのである。マイトレーヤは、「なんとしてもこの地球を守るんだ」ということには興味がないのだ。


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レンヌ・ル・シャトーの財宝

2006-06-16 03:32:01 | 冥想アヴァンギャルド
◎コリン・ウィルソンの見方

レンヌ・ル・シャトーの財宝の話題というのは、日本で言えば、武田信玄の隠し金山とか、徳川の埋蔵金の話と同じで、ごくありふれたテレビのバラエティのネタのようだ。勿論ダ・ヴィンチ・コードにからむ謎ではある。

そこは、博学なコリン・ウィルソンのことで、まとめ方もそれなりの深みがある。
コリンウィルソンは、どの説もレンヌ・ル・シャトーの秘密に対する完璧な説明になっていないが、現代の歴史家ヘンリー・リンカーンの取る説がほぼ真相に近いのではないかという。

ヘンリー・リンカーンは、レンヌ・ル・シャトーをテーマとしたテレビ番組を3本制作した。その過程の中で次のような説を展開している。

1.イエスは十字架上で死んではいない。イエスに与えられた海綿には薬剤が含まれていた。

2.イエスは、フランスのラングドック地方にやってきて、磔刑から12年後まで生き延びた。イエスがメロヴィング朝の始祖となった。メロウィング朝の血脈は、16世紀まで下るとフランス・ロレーヌ朝に継承されて行った。ロレーヌ家はハプスブルグ家との婚姻により、1800年代には、全欧州の支配が成ったはずだが、実際にはフランス革命により達成できなかった。

3.ここで、レンヌ・ル・シャトーの貧しい牧師ソニエールが登場して、教会の壁の中に埋め込まれた暗号で書かれた羊皮紙を発見する。その秘密を知るシオン修道会のメンバーと接触して、ソニエールは、レンヌ・ル・シャトーに帰り、ハプスブルグ家から出た資金で財宝を探し周り、財宝を探し当て、4半世紀の間裕福な生活を送った。

この解読された暗号は、「誘惑のない女羊飼いこれに対しプッサンとテニエ十字架つき鍵平和681を所持およびこの神の馬我は真昼に悪魔の守護に到達青い林檎」。


ここで注目すべきことが一つある。
ヘンリー・リンカーンは、レンヌ・ル・シャトーをテーマとするテレビ番組の第一回放映後、英国国教会派の僧侶から奇妙な手紙を受け取った。
その内容は、
1.財宝には、黄金も、宝石類も含まれていない。
2.キリストの磔刑はいかさまで、イエスは西暦45年まで存命した(33年昇天が定説)。
僧侶は、詳細な説明は断ったが、この説の出所が、ソニエールをドジュッシーなどのシオン修道会メンバーに紹介した見習い神父エミール・ヨッフェと親交がある神学者だった。

さてソニエールがパリで購入した秘密の鍵とされるプッサンの絵の中の墓石には、「我はアルカディア(楽園)にあり」という言葉が記されている。

「我はアルカディア(楽園)にあり」とは、不死ある命というものを自覚した境地から発する言葉であり、一時的な享楽の中にあって出る感嘆とは相違するものだと思う。(不死は第六身体で初めてあるもので、もはや人間に属することではない。)

それが証拠にプッサンの絵では、墓石の横にハートの影があり、アルカディアの在り処を指し示している。財宝は自らのハートにあったのだ。
これでは、財宝に宝石も黄金もないはずである。


    1日1善。1日1クリ。

プッサン/アルカディア



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