アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

修行のあり方と自殺

2006-04-30 06:49:03 | 冥想の準備
◎今の自分を否定する

釈迦は、生老病死の人生すべてが苦であると見た厭世観からスタートしたので、釈迦在世当時の弟子の間でも厭世観からの自殺が多かったように聞く。

その原因は、単純に厭世観から鬱状態になって、鬱がひどくなって自殺するのだと思っていたが、そうした面とは、別に真剣な修行の中では、自殺に誘い込むシチュエーションに自らを追い込んでいくような動きがあることに改めて気がつくきっかけがあった。

修行の中では、禅の無、仏教の空、キリスト教の神、道教のタオ、ウパニシャッドのブラフマン、ヨーガの宇宙意識を知らなければ、一人前ではなく、まず最初に「それ」を見る体験を要求される。それすら見ない状態の人は、金銭欲、名誉欲、食欲、性欲などあらゆる低次元の欲望をそぎ落とすことから始め、「それ」以外のものはすべて捨てさせられるように指導されるものだ。

そうした指導の過程で、『「それ」を知らない過去の自分というものをすべて否定し去る』ことも、時に起こるものである。そのロジックは『「それ」を知らない今の自分というものをすべて否定し去る』ことも肯定するものであるから、それが心理的にリアルなものになっていけば、何かのきっかけで簡単に自殺するようなことも起きると推測される。

『神を知らぬ者は生きている価値がない。』と、明示的に暗示的に、絶対服従のグルからやられたのではひとたまりもない。

中国唐代の禅僧徳山は、金剛経の講義で大変すぐれていたが、餅売りばあさんに、「金剛経の中に、過去心も現在心も未来心も得ることはできないとあるけれど、あんたはどの心で餅を食べるのか」問われ、徳山は答えにつまった。

返事ができないのなら餅は売ってやらないとばあさんにいわれ、後に徳山は持っていた経典をすべて焼き捨てるに至った。これは、自殺ではないが、過去の自分を捨て去った一つの例である。

ただし、理屈として、『神を知らぬ者は生きている価値がない。』を納得しても、それだけで、人は自殺するものではない。自殺は一種の発狂の状態にならないと起きるものではないからである。だから修行で自分を追い込んでいくことは、ある意味で危険ではあるが、いちがいに悪とも言いきれないというのが、冷静な見方ということになろう。

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ngc4696/NASA Astronomy Picture of the Day

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アートマンはなぜ心臓内にあるか

2006-04-29 07:04:28 | クンダリーニ・ヨーガ
◎インド的見方

このブログでは七つの身体論を基本としているが、インドから来日する宗教家や、ウパニシャッドでは、アートマンは心臓の奥のすきまにあると表現しており、面食らってしまう。肉体、エーテル体、アストラル体と進むのは、それぞれ存在する次元が違うと理解できるが、アートマン(第六身体)に至っては、次元の話とは思えない。

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」の口絵では、肉体レベルを霊視すると、確かにアートマン(真我)が心臓の中の親指ほどの空間に鎮座しているのを確認できるそうなので、心臓の位置にアートマンが見えるということだろう。

せうひとつの説明としては、肉体の表面には皮膚があり、神経が張りめぐらされ、体液が分布しており、人間の肉体の中で最奥の処を指すとすれば、やはり心臓であろう。「存在次元」などと言う数学的、抽象的な表現がない時代においては、存在の最深部を、初心者にイメージさせる表現としては、「心臓」という表現を用いたのだろうと思う。

よく「ハートの覚醒」と言う人がいる。私はハートの覚醒というのは、メンタル体のアナハタチャクラのことを言っているのだとばかり思っていたが、ハートにアートマンがあるのを見ている人であれば、ブラフマン(神)を見ることをハートの覚醒と言うこともあるかもしれないと考えるようになった。

しかしウパニシャッドでは、肉体から出て、最高の光明(ブラフマン)に上昇するイメージであるから、そこではハートなどとは言わない。

『意からなり、生気を肉身とし、光輝を姿に持ち、真実を思惟し、虚空を本性とし、一切の行為をなし、一切の欲望を持ち、一切の香りを備え、一切の味を持ち、この一切を包括し、沈黙して、煩わされることのないもの。それが心臓内にあるアートマンである。それは米粒よりも、あるいは芥子粒よりも、あるいは黍粒の核よりも微細である。

しかし、また心臓内にあるアートマンは大地よりも大であり、虚空よりも大であり、天よりも大であり、これらの諸世界よりも大である。

一切の行為をなし、一切の欲望を持ち、一切の香りを備え、一切の味を持ち、この一切を包括し、沈黙して、煩わされることのないもの。それは心臓内にあるわがアートマンである。

それはブラフマンである。

この世を去った後に、それに合一したいという(意向の)ある人は、その点について疑念はない。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッド/筑摩書房p191から引用)

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老子第59章 治人事天

2006-04-28 05:13:18 | 老子
◎召使のように控えめに

19世紀インドの聖者ラーマクリシュナは、よく、『神を知ったら、召使のように控えめにするのがよい』と語っているが、老子も同じようなことを言っている。長生きして天寿を全うすることが目的ではなく、道(タオ)を知った上で、控えめにすれば、長生きして天寿を全うすると読みたい。

しかし控えめにすれば、社会や学校の各所で展開される生存競争にしのぎを削ることはできないという問題がある。これが当代につきつけられた問題である。控えめにすれば、長生きして天寿を全うするかもしれないが、社会的には評価されない一生となりやすいことを言うように思う。

『人民を治め、天に事えるにはものごとを控えめにするより良きはない。
左様、ただただ控えめにするのだ。これを早服、すなわちもう道に一歩復ってきたというのである。

既に道に復って来れば重積徳、則ち徳を積み重ねること厚しと言わねばならぬ。
既に徳を積み重ねること厚ければ、則ち天下克くせざることはない。

既に克くせざることがないならば、窮するところもまたない訳である。
窮するところがないならば、それによって国を保つことができる。

斯くこの国を保(たも)つそもそものものは、ものごとを控えめにするという一語である。
これによって国を長く久しく有つことができる。このようなのを言うのだ。根が深くて根許が固いのだと。これがすなわち長生して天寿を全うするの道なのである。』

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ラーマクリシュナのチャクラ

2006-04-27 05:37:24 | チャクラと七つの身体
◎チャクラが開く

19世紀インドの聖者ラーマクリシュナは、いろいろな修行をした。

『その修行の状態であらゆる種類の驚くべきものを見ました。アートマンと交合するのを直接この眼で見ました。私のような姿のひとりの人が、私の体内に入ったのです。

そして体内の霊的エネルギーの6つのチャクラのそれぞれの蓮華と交合し始めたのです。6つの輪は閉ざされていたのですが、あっと言う間に交合し、またひとつ蓮華が開きました。そして花弁は上向きになったのです。

そのようにして脊柱基底にあるムラダーラ、生殖器の近くにあるスワジスターナ、心臓に近いアナハタ、喉のそばのヴィシュダ、眉間にあるアジナー、大脳上部にある千の花弁の蓮の座サハスラーラ。

---それらすべての座の蓮華が開きました。そして下を向いていたそれらの花弁が上向きになったのを、直接この眼で見たのです。』
(ラーマクリシュナの福音 3巻 シュリーマ(M)/著 東方出版P223から引用)

このようにチャクラが開くのを直接描写した例は稀有なことである。それでも、マニピュラ・チャクラが開いていないではないかという指摘がある。マニピュラ・チャクラは、現代人の座であり、ラーマクリシュナの場合も最初から開いていたと考えるのが自然だろう。現代人のテーマは、マニピュラ・チャクラ(社会性)からアナハタ・チャクラ(愛)への進化である。

それと、バクティ・ヨーガ(献身)が主体であったラーマクリシュナではあったが、神人と評されるだけのことはあって、ちゃんとクンダリーニ・ヨーガのチャクラの話題まで開陳してくれていることに、その自在の境地の高さをうかがい知ることができる。

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アートマンとブラフマンの違い-2

2006-04-26 05:40:43 | 現代冥想の到達点
◎最高の光明

プラジャー・パティ(創造主)のインドラに対する説明は、次のとおりであるが、その説明を全体として見れば、
肉身を持つ人間は、好悪の感情の反映であるアストラル体を持つ。冥想により「完全な平静」を実現した時に、肉身を出て上昇し、最高の光明に到達して、自己の形で肉体からの紐付き(クンダリーニのエネルギー・コード付き)のままで、その世界で遊び戯れるという、クンダリーニ覚醒の秘儀が示されていると見ることができる。 

最後の比喩の、黒いものは、ニルヴァーナであり、無のこと、斑色のものはアートマンであり、有のことだろうと思う。

ブラフマンにあって、初めて一切の世界と一切の欲望たるアートマンを掌中に収めることができるが、ブラフマンとは、最高の光明のことである。これを人間個人、個我のことと考えると間違えるかもしれない。神が神を神している世界だから。

『この肉身は死すべきものであり、死に捉えられている。しかし、それはこの不死で肉身のないアートマンの住処である。肉身を備えた者は実に好悪の二者によって捉えられている。肉身を備えている以上、好悪の二者を絶滅することは不可能である。しかし肉身のない者には、好悪の二者も触れることはない。

風は肉身のない者である。雲、稲妻、雷鳴など、これらのものも肉身を持たない。あたかもこれらの者があの虚空から上昇して、最高の光明に到達し、それぞれの形で出現するように、

まさにそのとおりに、完全な心の平静はこの肉身から上昇して、最高の光明に達し、自己の姿で出現する。彼は最高のプルシャ(自己)で、彼はそこで食べ、遊び、女ども、車駕の類あるいは親類の者たちと戯れて歩き回り、付属物である肉身のことを思い出すことはない。彼はあたかも牛車が車に繋がれているように、まさしく生気(感官とその機能)はこの肉身に繋がれているのだ。

さて眼が空処(アートマンの住処としての心臓内の空処)に注がれている場合、それが眼のプルシャである。〔感官としての〕眼は見るためだけのものである。つぎに『私はそれを嗅ごう』と意識する者、それがアートマンである。〔感官としての〕鼻は嗅ぐためだけのものである。
また『わたしはそれを喋ろう』と意識する者、それがアートマンである。〔機能としての〕言語は喋るためにあるにすぎない。また『自分はそれを聴こう』と意識する者、それがアートマンである。〔感官としての〕耳は聴くためだけにあるものである。

次に『自分はそのことを考えよう』と意識する者、それがアートマンである。〔思考機能としての〕意識はアートマンの神的な眼である。この神的な眼である意識によって、それはその欲望の対象を見て、満足する。

ブラフマンの世界にいる人々は、このアートマンを神として尊崇する。従って、彼らは一切の世界と一切の欲望を掌中に収める。このアートマンを見出して認識する者は、一切の世界と一切の欲望を達成する。』

(中略)

余は、黒いものから斑色のものに逃避し、斑色のものから黒いものに逃避する。馬が(抜けたたてがみの)毛を振るい落とすように、悪を振るい落とし、月がラーフ(月を欠かせる悪魔)の口から逃れるように、余は肉身を振り払うて、自己を確立した余は、創造されたことのないブラフマンの世界に赴くのだ。赴くのだ。』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP229-230から引用)

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アートマンとブラフマンの違い-1

2006-04-25 05:50:15 | 現代冥想の到達点
◎神と悪魔の悟境の差

創造主プラジャー・パティが「アートマンを見出して認識する者は一切の世界を得て、すべての欲望を満足させる」と唱えたのを聞いて、神々代表としてインドラが、悪魔代表としてヴィローチャナが、アートマンを認識するべく、創造主プラジャー・パティの下で32年間修行した。

創造主プラジャー・パティは、眼の中に見られる自己(プルシャ)がアートマンであるという説明を行い、悪魔代表のヴィローチャナと神々代表のインドラに、水盤に映る自分の姿を確認させ、「それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」と説明した。 すると両名とも心から満足して立ち去った。

これを見てプラジャー・パティは、「彼らはアートマンを理解せず、見出すこともできずに立ち去った。神々にせよ、悪魔どもにせよこのようなことを秘儀として守る者は必ず滅びよう。」と評した。

ヴィローチャナは、(アートマンを自分の肉体のことだと思い、)「この世においては、アートマンをこそ悦ばすべきであり、アートマンに我々は奉仕すべきである。この世においてはアートマンを悦ばし、アートマンに奉仕してこそ、この世界とあの世界の両者を得るのだ」と語った。(中略)これは悪魔どもの秘儀である。

さてインドラは帰り道で、不具になったり、肉体がなくなったら、その理屈が通用しないことに気づき、またプラジャー・パティの許に立ち戻って修行を続けた。

プラジャー・パティは次のような説明を与えた。
「夢の中で祝福された者のように歩き回る者、それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」
インドラは、一旦はこれに納得したが、夢の中の肉体でも不快を感ずることがあるため、納得できないで、プラジャー・パティのもとで再び修行を続けた。

プラジャー・パティは次のような説明を与えた。「人が眠り込んで自己に没入し、完全な心の平静を得て、夢を見ない場合、それがアートマンである。それは不死であり、無畏である。それはブラフマンである。」(この言葉は20世紀の聖者ラマナ・マハリシがよく語った言葉である。)
インドラは、一旦はこれに納得したが、眠っている人は自分を認識しないので、まして一切の存在を認識することはないとして、納得せずにまた師のもとに戻って行った。
ケン・ウィルバーは、ここの文を、睡眠中の意識の連続だと考え、それを実践している。)

さてプラジャー・パティはどのような教えで最後を締めくくろうとするのだろうか。
(底本:世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッド)

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サナート・クマラのアートマン

2006-04-24 05:44:15 | クンダリーニ・ヨーガ
◎ブラックマジックも効かないライン

サナート・クマラは、邪悪なるものも及ばない一線があることを説明している。冥想修行の深まりとともに、自我というものは、自我の殻をだんだん緩め、さまざまな精妙なるものにオープンになっていく。どんどんオープンになっていくということは、神に対してオープンになっていくのと同時に、悪魔に対してもオープンになるということである。そこでは、神にも、悪魔にも同じチャンスがあるのである。

そこで、サナート・クマラは、一切の邪悪が引き返す絶対的なラインがあり、それが第六身体であるアートマンであると説明する。この神の側のチャンスも50%悪魔の側のチャンスも50%である危険なレベルを超えてアートマンに至るのは大変困難であり、クンダリーニ・ヨーガでそこを通過した人を「英雄」と呼ぶのは、それを通過した人がかなり少ないためなのだろうと思う。

『さて、アートマンは、これらの諸世界が混じり合わないように防ぐ障壁であり、、境界線である。この障壁を昼も夜も超えることはない。老いも死も憂苦も善い行為のみならず、悪い行為も、それを超えることはない。

一切の邪悪はそこから引き返す。何故ならば、かのブラフマンの世界はあらゆる悪を絶滅しているからである。従ってこの障壁を超えるとき、盲目の者は盲目でなくなり、負傷した者は傷が癒え、病人は病人でなくなる。

したがってまたこの障壁をこえる時、夜は昼となる。かのブラフマンの世界は一瞬にして明るくなるからである。

このブラフマンの世界を梵行(修行のこと)によって見出す人々にのみ、このブラフマンの世界があり、これらの人々は、一切の世界において行動の自由を得る。』(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドP225から引用)

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サナート・クマラの正体

2006-04-23 07:02:40 | クンダリーニ・ヨーガ
◎鞍馬山の闇の帝王

サナート・クマラは、京都の鞍馬山祭神の魔王などという巷の説があるが、実はサナート・クマラは、インド古代のチャーンドーグヤ・ウパニシャッドに登場する正統派の聖者である。

サナート・クマラには、クンダリーニという白色のエネルギー・コードで肉体を出て、中心太陽に至るクンダリーニ覚醒プロセスを意識した発言がある。太陽とは、物理的な太陽のことではなく、いわゆる霊界太陽のこと。

『あたかも二つの村の間に連なる長い大道が、この村とあの村とに通ずるように、まさしく太陽の光線はこの世界とあの世界の両界に達する。これらの(心臓の)脈管に滑り込んでいる光線はあの太陽から拡がったのであり、ある太陽に滑り込んだ光線は、これらの脈管から拡がったのである。

人が眠り込んで完全に心の平静を得て、夢を見ない場合、その時彼は脈管の中に滑り込んでいるのである。いかなる邪悪も彼に触れることなく、彼は実に熱(ブラフマン)と合一している。

人が無力の状態に引き込まれると、周囲にいる人々は「わたしが判るか」「わたしが判るか」と言う。彼がこの肉身から出て行かないかぎり、彼にはかれらが判るのである。

しかし、彼がこの肉身から出ていく場合、彼はこれらの光線とともに上昇する。彼はオームと言う、あるいは〔一言も発しないまま〕上に連れ去られる。意が消滅する間に、彼は太陽に達する。それは、実に〔ブラフマンの〕世界の門であり、知者達の入口であると同時に、無知なる人々の入るのを拒む門扉である。

このことについて詩頌がある。

心臓には百と一の脈管があり、
それらの一つは頭から出ている。
それを通って上昇し、不死に赴く。
他の脈管はあらゆる方向に出口がある。
』(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドp226から引用、以下も同様)

また『この肉身から外に出て、最高の光明に合一した後、自己の姿で出現する、かの完全な心の平静、それがアートマンである』ともある。アートマンは七つの身体論では、第六身体のこと。

このように肉体から外に出て、死の世界に入り、中心太陽とつながるクンダリーニという光線に乗って、最高の光明(中心太陽)と合一した後、肉体に帰還するという技は、インド古代から知られていたのである。この光線に乗った上昇の仕方が、『連れ去られる』という表現になっているところがその実際のアセンションの様子を表現しているように思う。そしてその時間は『意が消滅する』ほどの瞬く間に、中心太陽に到達するのだろう。

従って『人が眠り込んで完全に心の平静を得て』とは、睡眠のことではなく、深い冥想状態の表現だろう。そして「わたしが判るか」という呼びかけの情景は、チベット密教の死に行く者への呼びかけを思い起こさせる。

サナート・クマラは、その弟子ナーラダに「暗黒の彼岸を指示」しているとあり、サナート・クマラは、このように暗黒の彼岸である死の世界を熟知して、人をブラフマンに導く聖者のことだった。(金星から来たという記述はない)

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《サナート・クマラor鞍馬でTBさせていただきました。》
かわうそのうそ) ()
monologue) ()
Engaging Universe) ()
スピリチュアル★ギフト~今を創り、未来を遊ぶ~()
光のシェラザード ()
フラワーエッセンス・ヒーリング()
京都のイラストレーター兼デザイナーの「ARTと兎」徒然記()
∞∞空∞∞) ()
Happy Power) ()
Kirkの独白) ()
レイキのチカラ*霊気の不思議) ()
(女子大生OB)()
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国家の品格

2006-04-22 05:47:47 | 時代のおわり
◎我がないこと、いじめがないこと

電車で往復1時間半乗る間に「国家の品格」を読んだ。結局、著者が、日本は品格を取り戻すべきだと考えていることはわかったけれど、品格の本質は何であるかは、著者自身も納得できていないと思った。

1.私をなくす
国家の品格とは、人間の品格のこと。人間の品格とは、どこにあるかと言えば、その人間の教養とか社会的地位とか資格とか識見にあるのではなく、生きざまにあるように思う。

そして、その品格ある生きざまはどこに由来するかと言えば、どの程度「私」というものがないかという程度によるのではないかと思う。如何に自分というものを捨てられるか、随所に自分というものなく動くことができるかということが、鍵なのだと思う。

そして「私」というものをなくしていく方法は、芸術・武道などの何でもいいから一つのものに打ち込むという「専一行」という道でも可能だけれども、冥想による方法がもっとも確実であり早い。

ところが組織の中で働いていれば、まず第一は、自分個人の保身であり、第二は所属組織全体の保全であり、そうした基準で動かない人はチームワークを乱す者として排斥される。

またそうした共同体や組織の中では、自分の評価を高めるためには、自分を虚しくするどころか、自分のやった功績を自分で公表していかないといけない。ことほど左様に日本の社会全体の造りが、なるべく自分というものを捨てさせないように、できるだけ自分というものをシステマチックに温存させるようにできている。要するに社会全体が人間の品格を組織的に落とさせるような社会にできてしまっているのである。

だから今の社会の中で、品格のある国家を取り戻すために、自分個人が品格を取り戻しても、結果的に品格ある人はその組織や共同体からスピンアウトするか、スピンアウトさせられることになりがちなのだと思う。

著者は武士道を復興させて品格を取り戻そうと考えている。武士道とは、己を虚しくして、主君のために死ぬる道であった。このように武士道を復興して品格を取り戻そうとする著者の考え方は、戦後の日本社会津々浦々を形成している社会組織全体の論理を根底から逆転させるものなので、実際には今のままでは実現する可能性はゼロである。

最近、マイホビーというのが当り前になった。また最近電車の中で投資ノウハウ雑誌を読む人を見かけることが多くなったが、自分だけ儲かるファンドや株に投資するなどは、己を捨てない道の最たるものの一つである。このように世相は、ますます武士道とは逆方向に進んでいる。

2.愛
弱いものいじめをしない惻隠の情とは、もともとは、たとえばそれぞれの人がある程度の冥想の習慣があって、神の属性の一つである「愛」を体感している人であれば、自然に湧き出てくるものである。

惻隠の情を後天的に教育で教え込んで、弱いものいじめをしなくなるものであれば、とっくに今頃社会全体が惻隠社会になっている。

本当に自分の深いところから出てくる惻隠の情を取り戻すためには、例えばマントラの何回もの念唱(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、オームなどなど)によりマントラ・シッディに至って、神の愛たる「弥陀の慈悲の大海」や「諸法実相(この世はすべて妙法蓮華経であること)」を実際に自分で確認するしかないわけである。

冥想は、こうしたマントラ念唱以外にもいろいろな手法(禅、ヨーガ、キリスト教の瞑想など)があるが、自分にあった手法で実際に「愛」を確認することが、弱いものいじめをしない惻隠の情を知ることだと考えている。

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《国家の品格でTBさせていただきました。》
(寝言@時の最果て) ()
茶こしの記憶) ()
ダイアスパー ~ ここには全てが)()
家族を考え中) ()
愛と苦悩の日記) ()
きもの雑記帳) ()
びじょびじょん) ()
(読書日記) ()
おーちゃんの日記」)()
白い思惟)()
(思いつきブログ)()
国家の品格は読書から)()
やよ励めよ)()
小泉首相の本性) ()
Scrapbook of Plumber) ()
皮肉日記) ()
(Rikancha BLOG) ()
えみゅらぶろぐ) ()
mikitaso reads a lot of books)()
愛と苦悩の日記) ()
きままなブログ) ()
真実の西遊記)()
日本橋浜町Weblog) ()

ETC.
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元気になる卵

2006-04-21 05:40:45 | 冥想アヴァンギャルド
◎インド名物的宇宙卵

温泉には、湯の花と温泉卵がつきものだが、インドには宇宙卵がつきものである。
このウパニシャッドの文には先行して「ブラフマンは実にこの一切(宇宙のこと)である。」とあり、宇宙一切の本質としてのブラフマンを意味づけている。その延長で太陽はブラフマンであると宣言している。先に宇宙卵が生じ、その後に太陽が生じた。

このウパニシャッドと聖女ヒルデガルト・フォン・ビンゲン以外に宇宙を卵と見た人はいなさそうなので、本当に卵のビジョンを見たのかもしれないが、どういうつもりで卵に比喩したか、興味のあるところである。

『「太陽はブラフマンである」と教示せられるその補足的解説は〔次のとおり〕、
「太初において、この無こそ存在した。それは常に存在した。それは展開した。かの卵が生じた。それは一年間の間横たわっていた。その卵は〔二つに〕割れた。卵殻のひとつは銀色になり、他の一つは金色になった。

この銀色のものは大地であり、金色のものは天である。その外側の膜は、山であり、その内側の膜は雲であり、霧である。その卵管は河川である。内部にある液は大海である。

次に生じたのが、かの太陽である。それが生ずる時、騒々しい歓声が起こり、この世に存在する一切のものと、あらゆる欲望とが現れた。従って、太陽が登る時、しかも登るたびごとに、騒々しい音が起こり、この世に対する一切のものと、あらゆる欲望が現れるのである。」

このことをこのように知って、太陽をブラフマンとして尊崇するものは、喝采を受けて元気づけられるという期待〔を持つことができよう〕』
(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドp194から引用)

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ロマノフ朝卵

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神の化身

2006-04-20 06:02:38 | 時代のおわり
◎大聖クリシュナはつらいよ

古代インドの聖者クリシュナは、『徳が衰え、悪がはびこる時、私は自らを現わす。徳を確立するために、悪をほろぼすために、良き人々を救うために、私は時代(ユガ)から時代(ユガ)へとやって来る』

そして『愚者たちは宇宙の主である私の本性を知らないで、人の形をとっている私をあざける』と語る。

こういう発言は、一般大衆向けになされることはなく、高弟向けにされたものだろうが、徳の危機の時代を見てとって、アヴァターラ(神の化身)が毎度出現していることを言っている。

しかし、彼の周辺には、その聖者がとても立派なことを語るわりには、例えば、家柄が良くなく、見かけの押し出しが立派でなかったり、収入が少なかったり、ファッションがダサかったりした場合には、わさわざそのことをくさす人々がいることを示している。

神の化身に会うことは、簡単なことではない。神の化身はいつの時代でもいるというものではないからである。出会ったとしても、その人が神の化身であることを感じる人もそう多いものではない。神の化身は、社会的には不適応者として必ず存在してくるはずなので、余計に見誤りやすいものだ。

しかし、化身がいるならば、その気配は感じられる人には感じられるものだと19世紀インドの聖者ラーマクリシュナは言う。『大きな上げ潮が来ると、小川やみぞは、自分で努力もしないで、淵まで一杯になる。そのように神の化身が来ると、霊性の上げ潮が世にどっと押し寄せ、人々はほとんど空中一杯に霊性を感じる』。

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イエマンジャ

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ヘルメス文書-4

2006-04-19 05:50:04 | 究極というものの可能性
◎ヘルメス文書の世界観

世界観が正統的なものかどうかということは、その世界観を述べる人の体験が正統的な境地であったかどうかを判断する重要な基準の一つである。

この記述では、深淵には混沌があり、そこから聖なる光と物質や現象が分離していく様を語っており、七つの身体の表象と思われる七層の球を鳥瞰しているところから、普遍的な見方をなぞっているものと考えることができる。

この見方はストア哲学の影響を受けていると評する人もいるが、これは、ギリシア哲学的な論理の組立ての中から出てきたものではなく、ある一定の冥想状態の中でこの一連の世界の始まりと世界全体の様子を見たヘルメスがこれを語っているものだと思う。その見方の論理的な根拠を証明できにくいからである。

『神と神的なものと神的自然(フユシス)とは、万物の栄光である。神は、-そして叡智(ヌース)と自然(フユシス)と質料(ヒュレー)とは、-存在するものの始源(アルケー)である。なぜなら神は万物を顕示する知恵だからである。

神的なものと、自然(フユシス)と作用力(エネルゲイア)と必然と終極と(世界の)更新とは原理(アルケー)である。

さて深淵には果てしない闇と水と微細で叡智的な霊とがあった。これらは神的力によって混沌の状態にあった。すると聖なる光が昇り、<砂の下では>湿潤なものから元素が凝固し、すべての神々は、実を結ぶ性質を<発出するのである>。

さて万物が分離していず、形造られていなかった時、軽いものが分かれて高みに向かい、重いもの(元素)は湿潤な砂の上で固まった。万物は火によって分離され、霊気にぶらさがり、(霊気)を乗せる形となった。

それから天が七層の球状をなして現れ、神々は星の姿で見られ、そのもろもろの徴(しるし)と共に現れた。<上昇する自然(フユシス)は>その内に宿る神々に応じて分化し、周行は空(中)すなわち円形の走路を廻り、神的な霊気を乗せていた。』(ヘルメス文書/荒井献・柴田有訳/朝日出版社から引用)

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ヘルメス文書-3

2006-04-18 05:47:39 | 究極というものの可能性
◎ヘルメスの善

ヘルメスによる善の定義は最も厳密なものであり、神そのもの以外を善とは認めない。だから、悪なる神や悪なる人がいることを前提にした、善なる神も善なる人も認めない。それゆえ万人が「善が一体何か」を知的に理解することはできないという。それは神そのものを知的に理解したり、言葉で表現したりすることはできないのと同じことである。この神がそのものずばりで表現できない点は、仏教の空や禅の無や道家のタオと異なるところはない。

そうした前提のもとに「神の大きさは、存在するすべてのものに匹敵するほどだ」などと例えてみせるのである。

『そこで、言葉の上で善は、万人によって口にされるのであるが、善が一体何であるかは万人によって知解されないのである。したがって神もまた万人によっては知解されないのである。かえって,人々は無知のために、神々や人間のある人々を善と名付けている。

しかしこれらは決してそのよう(善)であることもそのよう(善)になることもできないものである。なぜなら善は決して神から取り上げることができず、分離を許さないのだから。というのは、それこそ神ご自身だからである。だとすれば、他のすべての不死なる者らは、神という呼び名によって敬われている神々なのである。

しかし神は敬われることによってではなく、性質上善である。すなわち、神の性質は一つであって善であり、両者の種族は一つであり、そこからすべての種族が生じるのである。

というのは、善なる者は、すべてを与えながら何一つ奪わないからである。従って、神はすべてを与えながら何一つ奪わない。こうして神は善であり、善は神である。』(ヘルメス文書/荒井献・柴田有訳/朝日出版社から引用)

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    1日1善。1日1クリ。

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冥想の姿勢について

2006-04-17 05:31:38 | 冥想の準備
◎肉体を感じないということ

『「姿勢は確固として快適なものである」

今度はアーサナ、姿勢が来る。確固とした座を得ることができるまで、あなたは呼吸法及びその他の修行を実践することはできない。座の安定とは、あなたが全く肉体を感じない、ということである。普通の坐り方であれば、あなたが数分間坐るやいなや、あらゆる種類の動乱が肉体に起こるだろう。

しかしあなたが具体的な肉体の観念を超越すれば、すべての肉体感覚を失うだろう。快感も苦痛も感じないだろう。そして再び肉体を取り上げたとき、肉体は十分に休息したことを感じるだろう。それがあなたが肉体に与えることのできる唯一の完全な休息である。

あなたが肉体を征服して、それを確固とした状態に保つことに成功した時、あなたの修行は確固としたものであり続けるだろう。しかしあなたが肉体によってかき乱される間は、あなたの神経はかき乱され、あなたは心を集中することはできない。』
(パタンジャリのヨーガ格言集から/ラージャ・ヨーガ/ヴィヴェーカーナンダ/日本ヴェーダーンタ協会から引用)

ストレスの多い日常生活で働いていると、自由な時間は極めて少ないものだ。その中で肉体を休息させるということは睡眠しかないものだと、大概の人は思い込んでいる。

そうした中でいわば無理やりに姿勢を固定して、だんだん呼吸を落として行き、肉体のことを忘れるほどになっていくと、冥想を終わった後で、通常の睡眠以上に肉体が休息していることに気がつくものだ。

肉体のくつろぎや休息は、単なるリラックスであって、冥想の入口にすぎないが、それでも日常生活を安定させるもととなるので、そうそう軽視できるものではない。肉体が、くつろがないと、病気の原因にもなっていくからである。

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ヴィヴェーカーナンダの最期

2006-04-16 06:44:10 | 現代冥想の到達点
◎弟子が師を超える

死の一週間ほど前に、ヴィヴェーカナンダは、弟子にベンガルの暦をもってこさせて、その暦の本を一心に何回も読んでいる姿が見られた。ラーマクリシュナも死の直前に暦を繰っていた。自分の去る日を選んでいたのだろう。

死の2日前、シスター・ニヴェーディターは、学校についての質問をしにヴィヴェーカーナンダに会いにやってきたが、彼はその質問には関心を示さず、回答を他の人に任せ、ニヴェーディターの食事の給仕をしようと言い張った。

ヴィヴェーカーナンダの食事の終りに、彼自身がニヴェーディターの両手に水を注ぎ、タオルで拭いた。ニヴェーディターは「それは私の方があなたにすることではなく、師が私にすることではありません」と言うと、ヴィヴェーカーナンダがまじめに「イエス様も弟子たちの足を洗いました。しかし、それは最期の時でした」と返事をしたので驚いた。

ヨーガの伝承によれば、輝けるヨーガ行者の生命の呼吸は、鼻孔と口に血を流して、頭の先の出口を通って抜けて行くというが、最期はそのとおりであったようだ。ヴィヴェーカーナンダは、自分は40歳までは生きられないだろうと預言していたが、39歳のことであった。

弟子が師を超える印として、ヴィヴェーカーナンダは、シスター・ニヴェーディターの手を洗った。聖者が我々の友人として生きる時代であることを、1902年のこの日ヴィヴェーカーナンダは改めて印象づけてくれたわけだ。

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