アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

冥想の深浅高低-8

2005-11-30 04:18:14 | 現代冥想の到達点
◎軽くスピリチュアル-原始仏教の分類5

原始仏教の遊行経の、釈迦の入滅シーンの続きです。
『(これまでただ釈尊の説法を数多く聴聞して、それを記憶することには特に傑出していたものの、その説法には説かれなかったこのような場面に遭遇して、すっかり窮地に陥った)アーナンダ(仏弟子)は、(天眼をもってこの情況を見通しにわかに出現した)アヌルッダ(阿那律=仏弟子)に質問します。

「世尊は、もはやすでに完全なるニルヴァーナを遂げられたのでしょうか。」
アヌルッダは答えて言います。
「まだです。アーナンダよ。世尊はいま(色界・無色界すなわち三界のすべてを超えて)
滅想定におられるのです。私はむかし親しく仏から聞いたことがあります。「第四禅から出て初めて完全なるニルヴァーナを遂げる」と。」

その時に世尊は(アヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、
その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅からから出て、第三禅に入り、
その第三禅からから出て、第二禅に入り、
その第二禅からから出て、初禅(第一禅)に入り(3たび繰り返して)、

その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む/青土社から引用)

ここでポイントになるのは、欲界・色界・無色界すなわち三界のすべてを超えれば、既にそこは人間の体験でなく、仏の領域であるが、その滅想定はニルヴァーナではないと、釈迦自身が否定したとアヌルッダが述べているところである。

滅想定(滅尽定(滅受想定))は、三界を超えているので、定ではなく、ヨーガ・スートラでいえば、三昧に該当する。ところが滅想定はニルヴァーナではないので、滅想定はヨーガでいう有想三昧に該当すると考えられる。
で、ニルヴァーナは、ヨーガ・スートラでいえば無想三昧。

これによって仏教で見ている冥想(禅定)のレベルは9ではなく、実は10段階であり、それぞれがヨーガ・スートラの分類に符合するものとなると考えられる。

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冥想の深浅高低-7

2005-11-29 04:34:16 | 現代冥想の到達点
◎軽くスピリチュアル-原始仏教の分類4

原始仏教の遊行経において、釈迦は今まさに入滅しようとします。
『ここで、世尊は直ちに、
まず初禅(第一禅)に入り、
その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て(以上で色界の禅定を終え、)、

空処定(※空無辺処定のこと)(虚空が無限であるという禅定の境地)に入り、

その空処定から出て識処定(※識無辺処定のこと)(心の識別作用が無限であるという禅定の境地)に入り、

その識処定から出て不用定(※無所有処定のこと)(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に入り

その不用定から出て有想無想定(※非想非非想処定のこと)(心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定の境地)に入り、その有想無想定から出て(以上で無色界の禅定を終えて、これにより生あるものの全世界である三界を超え出て)、

滅想定(※滅尽定(滅受想定)のこと)(心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定の境地に入りました。)』
(阿含経を読む/青土社から引用。※は湖南注)

禅定のレベル1から順番に上昇していってレベル9に入ったのである。

滅想定は、既に色界、無色界を超えたところなので、個人という人間性を超えたところにある。ということは、個人が体験しているのではなく、仏が仏を体験する、つまり仏の側の経験のことであると思う。

また滅想定は、禅定の最高レベルである。禅定という定に分類してあるが、ヨーガ・スートラの分類では、定ではなく有想三昧と見られるので、定と三昧がここでは混同されているように考えられる。

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冥想の深浅高低-6

2005-11-28 04:57:20 | 現代冥想の到達点
◎軽くスピリチュアル-原始仏教の分類3

色界の禅定4レベルの説明が終わったので、無色界の禅定です。
9レベルのうち上位の4レベルを説明するが、無色界は、物質を離れた世界であるとは言っても、あくまで人間という個人が体験する個人性を残した定のレベルであることに変わりはない。人間の体験なので、それがどんなに素晴らしい体験であったとしても、いつかは変わり、消えてゆく体験なのだと思う。

(3)無色界 
欲望もなく、物質的なものも超えた精神性だけの世界。

(e)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識
    
(f)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(g)無所有処定:なにもかもがないという意識

(h)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

なにもかもがないという意識もないという状態は、何も問題がなく、不安もなく、快適で懐かしく、とても素晴らしい状態であるに違いない。初心の冥想修行者としては、一つの目指すべき境地であることは間違いない。また、おそらく通俗霊能力マスターなら、このレベルに至れば大物霊能力者と呼ばれるようなことになるのではあるまいか。

非想非非想処定とは、最上の天国に相当する状態でもあると思う。

しかし釈迦は、 非想非非想処定に満足することができず、その上の段階を目指した。釈迦の何回も繰り返された転生の中で、なにもかもがないという意識もないという状態ですら、本物ではないことをわきまえていたのだろう。定は定であって、人間性の限界を超えることはないのだ。

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冥想の深浅高低-5

2005-11-27 04:56:00 | 現代冥想の到達点
◎軽くスピリチュアル-原始仏教の分類-2

原始仏教の遊行経において、釈迦の前生の一つ、大善見王の物語の中に四禅の解説がある。

大善見王が人間としての幸福を得たので、次に天としての幸福を得る実践をしようとして冥想すると、
『そこでむさぼりと淫欲という悪不善について、じっくりと考えをめぐらし(そのような坐禅の中で)覚と観がとあり、(欲望や悪を)離れることから、純粋な喜と楽とを生じて(そのような境地からなる)、第一禅(初禅)を獲得した。

※この中で「覚」と「観」は、いろいろな物事をあれこれ考える働きの中で、心の粗い働きを「覚」とし、細かい働きを「観」とよぶ。「喜」は喜び、「楽」は楽しみ、幸福感。(湖南注)

(つぎには)その覚と観とをすっかり除いてなくし、心の中は浄らかな誠に満たされて、心の底からすっかり喜び、うれしくて、しかもその心だけをひたすら見つめて統一し、こうして覚もなく、観もなくなり、禅定から喜と楽とを生じて、(そのような境地からなる)第二禅を獲得した。

(つぎには)その心にある喜を捨て去ってしまい、(心を)どこまでもしっかりと守り、ひたすら念(心の思い)のみに集中して、散乱することがなく、自らの身体の楽をよく知り、賢聖の求めたところである「念をまもりつつ楽が実践される」という、(そのような境地から成る)第三禅を獲得した。

(つぎには)そこにもなお残っていた苦(不快)と楽(快)との両方をすっかり捨ててなくし、それよりも前に、すでに心の様々な憂いと喜とを除いてあって、こうして苦楽を超越した不苦不楽の境地に達し、そこでは念を守ることが浄らかであり、純粋そのものであって、(そのような境地から成る)第四禅を獲得した。』
(阿含経を読む/青土社から引用)

全体としては、釈迦の前生である大善見王の、天としての幸福を実現するためには、第四禅の冥想をすることであるという説明である。天とは仏教十界説の天(上から5番目)のことであり、最高の「仏」に至る冥想ではないのである。

この四禅の段階では、ちょっとスピリチュアルな冥想体験でよく出会う、楽しさ、うれしさ、平静さ、調和した感じなどが、冥想の深まりとともに純粋になっていく消息がうかがえる。

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冥想の深浅高低-4

2005-11-26 06:44:55 | 現代冥想の到達点
◎軽くスピリチュアル-原始仏教の分類1

釈迦は、王子や家族という社会的なすべてを棄てて、出家して二人の仙人に教えを受けた。

まずアーラーラ・カーラーマ仙人は、無所有処を説いた。無所有処は、禅定の9段階の7番目であり、世間から見たらかなりすごい。

そしてウッダカ・ラーマプッタ仙人は、非想非非想処を説いた。非想非非想処は、禅定の9段階の8番目であり、冥想ティーチャーの実力としては相当なものがあると言える。
釈迦は、これら二仙人に教えを乞うたが、結局納得することができず、苦行に入って行った。

1.原始仏教では、世界を三つの分野に分類する。欲界と色界と無色界である。
それぞれの分野が冥想の横軸である9つの冥想レベルに対応している。 
(1)欲界
最も下の世界で、淫欲と貪欲などの欲望を持つ生き物が住んでいる世界。
十界説では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間と、天の一部が含まれるとされる。
このレベルの冥想は欲界定とされる。

(2)色界
欲界の上の世界で、既に欲望を離れた生き物の住む世界であり、姿や形のある「色」(物質)から成っている世界である。
十界説では天の一部、声聞、縁覚、菩薩、仏?に当たる。

冥想(禅定)の4つのレベル(四禅)は、この色界からスタートする。 次回記事で説明しますが、初禅から四禅まで、どれも、気持ちよかったり、楽しかったりする状態です。
(a)初禅
(b)二禅
(c)三禅
(d)四禅
 
以上の欲界や色界での冥想の中で、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。
釈迦のいた2500年前でも、軽くスピリチュアルが話題になっていたわけだ。

ここまでは、ヨーガ・スートラでいう有尋定が対応すると考えられる。

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冥想の深浅高低-3

2005-11-25 01:53:43 | 現代冥想の到達点
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3

○三昧の分類
三昧には、有想三昧無想三昧がある。三昧とは、心をなくして、対象のみとなった状態である。

有想三昧と無想三昧に、もはや人間個人というものはなく、神の側、絶対者の側の体験のことであり、もはや体験とは呼べない体験のことである。

仮に誤って有想三昧と無想三昧を、個人という人間の認識形態の一つと理解したり哲学したりするならば、それは現実とはかけ離れた夢想のようなものになってしまうだろう。

(1)有想三昧
  三昧でも、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているもの。
※楽:尋、伺が消えた心地よい状態。
我想:見る主体である力と見る働きである力とを一体であるかのように思い込むこと。(あらゆる現象が顕現するための最初の要件がこれである)

有想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、認識対象があり、個人を超えた神のレベルなので、第六身体、アートマン、天地創造神話の世界、不壊なるイデアの世界が、有想三昧の舞台ということになるだろう。

(2)無想三昧
  心の動きを止める想念を修習した結果止念の行だけが残っている境地。
  ヨーガ・スートラの劈頭に、ヨーガとは心の働きを死滅することとあり、ヨーガの目的は無想三昧である。

無想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、第七身体であり、ニルヴァーナであり、仏教で言う空であり、禅で言う絶対無であり、密教で言う大日如来であり、太極であり、タオであり、神であり、最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
言葉で表現できないものである。

「ここでいう絶対の止観とは、横と竪(たて)のあらゆる相対的な意味を超えており、あらゆる思議を超えており、あらゆる煩悩や苦果を超えており、あらゆる教や観や証を超えているのであり、これらのすべてがみな生ずることがないから、それを止と名付け、その止も得ることはできないのである。」(摩訶止観巻第三の上)

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冥想の深浅高低-2

2005-11-24 06:52:17 | 現代冥想の到達点
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2

ヨーガ・スートラは、そう言ってはなんだが、バラバラに章立てがされているところがあり、多分グルの口伝があったのだと思うが、説明が不足しており、そのままで読んでも、さっぱりわからず、とりつくしまがない。

その体験をしさえすれば、こんなものを読む必要はなく、その体験をしていないならば、こんなものを読んでも役に立たないということはあるんだとは思うけれど・・・。

だから解説付きのを読むことになるが、解説する人が、ラーマクリシュナ並みの人でないとちゃんとした解説にはならないのだろう。

の分類
 定と三昧は違う。定は人間個人としての体験であるのに対し、三昧は神の側の体験である。だから定の説明には認識をするとか、認識をしないとかいう表現が必ずある。
なおヨーガ・スートラでは、無想三昧が最高とされている。

(1)有尋定
  定のうちで言葉とその示す客体と、それに関する観念とを区分する分別知が混じているもの。

(2)無尋定
  定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識自体がなくな ってしまったかのようで、客体だけが一人あらわれていること。

(3)有伺定、無伺定
この他に有伺定、無伺定とよばれる有尋定・無尋定よりも微妙な対象に関する定がある。微妙な対象とは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な諸存在を総括した言葉。
この中で最高の、無伺定が無垢清浄となった時、内面の静寂が生ずる。

※「尋」:感覚世界についての観念
 「伺」:より精妙な世界についての観念

(定の区分は、佐保田鶴治/解説ヨーガ・スートラを参考とした)

このように定では、客体・対象と観念が常に話題になっており、人間個人としての体験であることがうかがえる。



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冥想の深浅高低-1

2005-11-23 05:49:32 | 現代冥想の到達点
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1

冥想の縦軸である時間的広がりは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、アートマン、ニルヴァーナと七つの身体に沿って展開する。七つの身体は七つのチャクラにそれぞれシンクロしているので、この展開は、ムラダーラ・チャクラ、スワジスターナ・チャクラ、マニピュラ・チャクラ、アナハタ・チャクラ、ビシュダ・チャクラ、アジナー・チャクラ、サハスラーラ・チャクラと進むとも言える。

そしてかたや、横軸である空間的広がりが、いわば冥想の深浅高低と位置づけられる。

定と三昧は、冥想の深浅高低の基本である。定と三昧の定義は、インドで5世紀頃成立としたとされるヨーガの根本聖典であるヨーガ・スートラに、基となる説明がある。
前の6種は、定や三昧までの準備段階であり、7番目が定で、8番目が三昧である。

1.制戒(ヤーマ)
  不殺生、真実、不盗、不淫、無所有の五戒を守る。

2.内制(ニャーマ)
  肉体と心を清浄に保つこと。生命をつなぐに足るだけのものに満足すること(知足)。
断食その他の肉体的苦行。マントラ・ヨーガの実践(読誦)。一切万象それ自体であり、一切万象の母であり、一切それ自体万象である神への祈念(自在神への祈念)

3.坐法(アーサナ)
  冥想をするのに安定した快適な坐り方

4.調息(プラーナヤーマ)
  呼吸法により、粗い呼吸の流れを整えること。出息、入息、保息を行い、調気(呼吸  停止)に進む。

5.制感(プラティーヤハーラ)
  五感の諸器官が音や光などの外から来るものに惑わされず、心の動きに従うこと。

6. 総持(ダーラナ)
  心を一つの場所に集中すること。

7.定(ジャーナ)
  対象と心そのものが一体化すること。

8.三昧(サマディー)
  対象だけになり、心をなくしたような状態。

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戦争の足音

2005-11-22 22:21:17 | 時代のおわり
戦争の足音を聞いているブログがありました。

nontan5047さんのところです。

未来は変えられるとは、知っていますが、それにも限度はあるし、人生は一回きりだから。本当に納得して一日一日生きたいものです。

預言、ビジョンと言っても、きちんと現界の未来を見ているものもあれば、霊界の地獄(幽界)の未来を見ているものもある。霊界の地獄を見ている預言、ビジョンならば何時見ても戦争しているビジョンが見えることになり、それが現界に実現するかどうかは別問題。

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釈迦がきのこで涅槃する

2005-11-22 05:13:50 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
釈迦は、きのこを食べた後に入滅した。

『釈迦は、マッラ族のバーヴァー城に至った時、金属細工職人の子チュンダに出会い、
翌日チュンダの家で食事をとることを約束した。

翌日釈迦は、法衣を整え、鉢を持って、大ぜいの人に取り囲まれながら、チュンダの家に出かけ、設けられた席についた。

チュンダは、早速食事を用意し、それを釈迦とその弟子たちにお供えした。そして、世間では滅多に手に入らない、とても珍しい栴檀樹耳と呼ばれるきのこを、釈迦だけに差し上げた。

釈迦は、「このきのこを他の大勢の弟子たちには与えないようにしなさい」とチュンダに命じ、チュンダはそのとおり他の弟子には与えなかった。

このきのこが原因で、釈迦は血便を伴う激しい下痢に襲われ、残ったきのこを穴に埋めさせ、やがて入滅していく。チュンダは、このことで周囲の批判にさらされたようである。

釈迦の弟子のアーナンダは、「釈迦は、チュンダの家で食事をとって、入滅するので、チュンダには福徳も利益もない」と述べたことに対し、
釈迦は、
「そんなことを言ってはならない。そのようなことを言ってはならない。
いまチュンダは大きな利益を獲得し、またそのために充分な寿命を得て、また容色を得て、力を得て、よい名誉を得て、多くの財宝を生ずるであろう。そして死んでからの来世にあっては、天に生まれ変わることができ、自分の望むところは、自ずからそのとおりになるであろう。

なぜなら、釈迦が初めて悟りを開いて成道したときに、よく食事を布施することができた者と、釈迦がこれからまもなく入滅しようとする直前によく食事を布施することができた者との功徳は、まさしく同等であり、何らの違いはない。」
と語り、アーナンダにチュンダの家に行ってその趣旨を説明するように命じた。』
(阿含経を読む/青土社から引用)

覚者に対して、食事をふるまうことによって、利得を得るのは、振る舞う側の人間に、私心がなく、「聖者に食事を饗応すると必ずよい報いがある」という打算がない場合だけである。それが厳然たる善とカルマの法則である。

だから釈迦が「チュンダが大きな利益を獲得し云々」と述べているのは、そういう前提条件が満たされていることを知った上で述べたと考えたい。

釈迦の偉大な一生の最後に食事を饗応するというのは、大変名誉なことである。そのことだけでも、釈迦自身の感謝の気持がみちあふれるかのようだ。釈迦という不世出の聖者に出会うだけでも大変なことなのに、食事を布施できるというのは、よくよくの因縁のあることでないとできることではない。なおかつそのことで、涅槃への引導を渡すのであるから、この段階での食事の意味は重い。

きのこには、おいしいのもあり、幻覚を呼び起こすのもあり、死の世界に導くものもあった。

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生存競争を問題にしない

2005-11-21 05:59:24 | 老子
◎老子第41章上士開道
道(タオ)は、通俗的人間体験を越えたところにあるものであるが故に、誤解されて当然ではあるが、道の直接的表現は常に隔靴掻痒的なことばとなる。道を知らない人々への懇切丁寧な一節である。

この章に一貫して流れているのは、現実社会の規範原理が、自分個人の生存競争での勝利であるのに対し、大道は、生存競争を問題にしないところにあるという全く逆の方向性の対比である。

ストイックな「最上の人」たちは、だから道を知ると生計が成り立たないなどとはこぼさないが、我々が冥想に積極的でない最大の理由はそこにもある。

また現世利益などの耳に甘いことばは、大道とはかけ離れたところにあり、結局一番ぎりぎりの局面では、頼りにはならない。甘いスピリチュアルなムードは、最後のところでは、通用しなくなるのである。

この章は大器晩成という言葉の出典としても知られる。

「最上の人は、道を聞けば、直ちに努力して、これを行動に移そうとする。その次の人は、これを聞いても半信半疑で実行しようとはしない。最下の人は、道を聞くと馬鹿なことだとてんで問題にしないで笑い去ってしまう。

そんな人に笑い棄てられるくらいでなければ、道とするに足らない。古人も言っている。真に道に明るい者は、輝かないから道に昧(くら)いかのごとくであり、真に道を進むものは、すべてに人を先として己を後にするから退くように見え、大道は自然の高低に従っているから平らかでないように見える。

最上の徳は谷のように虚しく見え、本当に潔白なものは、汚れと区別ないもののように見える。本当に大きな徳は、むしろ足らないところのあるように見え、堅固な徳はかりそめのもののように見え、質撲真実なものは、むしろ不着実のもののように見える。

また大きな四角は、その大きさの涯が遠いために隅というものがないように見える。

更に大成を為すものは、すべてが人よりも晩(おそ)くて、遅れているように見える(大器晩成)。真に大きな音というものは、却って耳に聞こえない。又非常に大きな象というものは、形そのものが見えない。道は、かくれて名付けることができない。そうだ、ただ道は、自ずから万物に貸し与えて、そしてそれを成就させるのである。」

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【インド花嫁的入れ墨】

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レムリア大陸的メルキゼデク

2005-11-20 06:29:16 | 時代のおわり
メルキゼデクは、聖書のアブラハム以前の大神官であることを虚空漂浪日記さんから教えてもらった。メルキゼデクは、旧約聖書の創世記第14章に登場する。

その後で、メルキゼデクという人物は、レムリア大陸に出現し、イエス・キリストのような、美しくも悲劇的な一生を送った聖人であったという話を、どこかで読んだような記憶がよみがえって来たので、レムリア大陸の紹介です。

レムリアのテーマについて書いているブログもありますが、前世としてのレムリアのテーマもアトランティスの話題と同様に、自分の人生の一番なつかしいことを呼び起こして、本当に自分らしい人生のあり方に気づくきっかけとして作用するのだと思う。

古代ハワイ人は、ハワイのむこうには巨大な大陸があり、それは、ハワイ、サモア、ホロコア(ラロトンガ)、フィジー、ニュージーランドまだ続く巨大な大陸であったと信じていた。この大陸の間には、ところどころにいくつかの低い台地があった。この大陸は太陽神カネの土地と呼ばれた。
カネの土地がレムリアのことである。

イースター島の伝説によると、イースターの西、創造神ホツ・マツアの故郷であるマラエ・ロンガは、沈んでいった。・・・・・・波は、いくたびも陸を駆けのぼり、草も木も建物も洗い流した。人々はわめき、叫び、逃げまどい、神に祈った。だが、山のような波は、後から後から続いて止まることがなかった。やがて人々は波に呑まれて溺れ死んだ。
その後、ホツ・マツアは、従者をつれて、イースター島に渡った。
マラエ・ロンガがレムリア大陸のことである。

ニュ-ジーランドのマオリ族の伝説によると、ポリネシアの海域には、ハワイキという名の祖先の地があった。そこには、言語習慣を同じくする同一の民族が住んでいた。ハワイキにものすごい大噴火が起こり、ハワイキは、あっという間に海底に沈んでしまった。 
ハワイキがレムリアのことである。

そしてフィジー、タヒチ、マルサケスの言語、習慣、宗教は、ほとんど同じなのだそうです。 古代に金髪人種がいた伝説も、ハワイ、ニュージーランド、ギルバート諸島に残っている。
(参考:幻のレムリア大陸/大陸書房)

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【ポナペ島ナンマドル遺跡】


【レムリアでTB/リンクさせていただきました】
スピリチュアル★ギフト~今を創り)()Ponoのひとりごと)()Living With Angels)()ありがっちょん、ちょん)()ブログラマーの主張!?)()Naoki's Joy Life Journal み~)()スピリチュアルなお話~三次元と高)()世界の中心でぴよと鳴く)()徒然読書~読書Life~)()ALL IS LOVE)()God's truth)()スピリチュアル日記)()今日のデザート読書)()つぶやきの洞窟)()(blog@takaaki.net)()Sirius Tribe blog)()Sunny Days*)()サクラミカのハッピーコラム)()
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聖なるきのこ テオナナカトル

2005-11-19 05:35:35 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
民族植物学者リチャード・シュルテスによると、メキシコのオアハカのマサテコ族のシャーマン(呪術師)は、Panaeolus種のきのこを集めて乾燥させ、占いや予言のために用いていたことを発見した。

だが、この種類のきのこを、トランスに入るために、いつも服用することが習慣になっているシャーマンは、しばしば、あまりに頻繁なきのこの使いすぎによる『早期老化症状』を呈することがある。

早期老化症状は、このきのこだけではなく、覚醒剤(コカイン、クラック、アンフェタミンなど)や慢性的な放射能障害(核実験場近隣の居住者など)でも見られるので、身体に微量の毒を与え続け、その微量の毒が長い年月の間に蓄積されることによって起こるのだろう。

このように早期老化は、マサテコ族のシャーマンの職業病とでもいうべきものであるが、マサテコ族に限らず、悟りを酒や薬物で持続してきた聖者・覚者の面貌にもそういった特徴をみることができたとしても、不思議なことではないと考えられる。聖者・覚者にとっても、それほどこの世を生きるのは大変なことなのだと思う。

その一方で、このきのこは、古代アステカ帝国以来、リウマチの治療薬として用いられてきた側面もある。

16世紀の「ニュースペイン一般史」によれば、アステカ人はテオナナカトル(神の肉)と言われる聖なるきのこを用いるという。

リチャード・シュルテスのリポート
『マサテコ族が用いる服用量は、体格や年齢によって異なっている。一般には望ましい効果を得るためには、キノコ15個で充分だと考えられているが、それ以上を用いたという報告例もある。五十も六十も摂取すると重篤な中毒を引き起こす。そして大量のきのこを常用すると慢性的な精神障害を引き起こすという。・・・・・

多くのインディオたちの証言によれば、酩酊は3時間ほど続く。キノコの摂取後、まもなく当人は身体が軽く、また丈夫になったように感じる。この爽快感に続いて、一時間以内に非常に気分が愉快になり、話は支離滅裂になり、感情の噴出を制御できなくなる。そして更に酩酊が進むと、輝かしい色の幻想的な光景が見えるようになる。』
(精神活性物質の事典/リチャート・ラジュリー/青土社)

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【聖なるきのこの一種 panaeolus campanulatus】

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シロシベ-2

2005-11-18 04:55:28 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
シロシベは、精神活性アルカロイドのシロシビンとサイロシンを含有する、80種あると言われる幻覚性きのこの一種であり、世界中どこにでも分布している。

ただし、幻覚性きのこが呪術に結びついたと見られる事例は、南北アメリカにしか見られない。たとえば、紀元前1000年から紀元後300年のグァテマラの遺跡から多数のきのこの石器が発見されていることや、16世紀アステカの愛と春の神ソチピリの彫像の台座にキノコやタバコや朝顔などの精神活性植物のレリーフがある。

その伝統は、マサテコ族のマリア・サビナの他に、ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マットゥス(カルロス・カスタネダのシリーズ小説で知られる)が生き残っていたことで、現代にまでその技術が伝承されていることがわかる。

人類学者のゴードン・ワッソンは、リグ・ヴェーダに出てくる神々の飲み物ソーマは、ベニテングタケであると考えていたが、偏見なく見れば、シロシベではないという証拠もない。ソーマの特徴とされる以下のものは、3.以外はシロシベにも当てはまってしまう。

1.ソーマは山に生えていた。
2.ソーマには、根、葉、花、種がない。だからきのこであろう。
3.ソーマは、生の絞り汁を飲む他に、それを食した人の尿にも幻覚性成分が残留しているので、その尿を摂取することでも幻覚を得られる。

確かにシベリアのベニテングタケの摂取例では、食した者の尿を飲む話は出てくる。ワッソンは、尿摂取の例として、インドラ神が尿の形で、不死の霊水アムリタをウッタンカ仙人に与えようとした逸話をあげているが、インドラ神が、その直前にソーマを食したということではないので、「尿摂取」がベニテングタケがソーマである証拠にはならない。

この逸話は次のような話である。

インド古代の叙事詩マハーバーラタの中で、大聖クリシュナが、彼が高く評価しているウッタンカ仙人が水を欲しいと望んだ時に、インドラ神に彼にアムリタ(飲むと不死になる霊水)を与えるように頼んだ。インドラ神は、死すべき者に対し、アムリタは与えるものではないと反対したが、とうとうクリシュナの要請に応じて、身分の卑しい漁師の姿になって、アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。ところがこの尿を、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。なおも漁師に繰り返し飲みなさいと勧められたが、結局飲まなかった。

結局ウッタンカ仙人は、アムリタではなく、水をいつでも飲めるようにクリシュナから雲をもらった。

シロシベを食した者の尿から、幻覚成分を摂取することが可能かどうかはわからないが、それはシロシベがソーマでない証拠ではないと思う。

不死の霊薬アムリタは、不死不壊なるものは、第六身体・アートマンレベルにしかないので、そのレベルのことであり、既に個人のことではなく、神々のことと考えられる。


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【ソチピリ】

【シロシベ】



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シロシベ-1

2005-11-17 05:26:20 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎呪術師マリア・サビナ

幻覚性植物を用いて潜在意識に入っていったからといっても、神に近い意識に近づき得る者は、極めて少ない。当世においてアルコールや覚醒剤を服用する人は多くとも、ほとんどの人は、五感の感覚が鋭敏になったとか、けんか早くなったとか、個人的な潜在意識が表面に昇るに止まる場合が大半である。醒めながら、いつものレベルの夢を見る程度のことなのだ。

この話は、インドでいうところのソーマの本質を探求に出たゴードン・ワッソンが、メキシコで出会った呪術師マリア・サビナの話であるが、部族として習慣的に幻覚きのこを服用している場合でも、神的な意識レベルに接近し得る者は稀であることがわかる。それが故に薬物や幻覚植物の服用を手段として、永遠なるものに近づくのは、相応する感受性と師匠なくしては、やはり困難な道ではあるということになる。そしてその感受性のノーマルな発達は、冥想の習慣の中で培われるものだと思う。

幻覚植物の摂取は、現世という認識形式は絶対でなく、別の認識形態があるというきっかけを得る体験であるのだが、『絶対』というものに到達できるかどうかは別の問題なのだ。

1955年人類学者のゴードン・ワッソンは、メキシコのマサテコ族の治療師マリア・サビナと出会った。
マリア・サビナは、シロシベ(マジック・マッシュルーム)というきのこを食することにより超意識状態に入っていく。マリア・サビナは語る。

『聖なるきのこ(テオ・ナナカトル)の世界の奥へ行けば行くいくほど、過去も未来も見られる。過去も未来も既に達成してしまった、既に起こってしまった、一つのものとしてそこにある。

だからマリア・サビナは息子のアウレリオの人生のすべてを見た。その死を見た。息子を殺す男の顔と名前を見た。彼が息子を殺す短剣も見た。すべての事柄は既に起こっているのだ。殺しは既に起こっている。

だから息子に殺されるから注意しろということはできなかった。その時何もいわなかったのだから。彼らは息子を殺すだろう、それだけのことだった。

それから私は他にも多くの死を、多くの殺しを、そして死んだ人々を見た。-その人達がどこの人なのか誰にもわからない-私だけが見ることができた。

そして私は、盗まれた馬を見た。土に埋もれた古い都市を見た。その存在は誰も知らない。でも知られようとしている。

私は何百万という事柄を見て、知った。私は神に会い、知った。
時を刻む巨大な時計、ゆっくり回る天球、星の内側、地球、全宇宙、昼と夜、涙と微笑み、幸福と苦痛。テオ・ナナカトルの秘密を最後まで知る者は、その無限のゼンマイ仕掛けまでを見ることができる。』
(精神活性物質の事典/リチャード・ラジェリー/青土社から引用)

マリア・サビナの二番目の夫のマルキアルは、聖なるきのこ(テオ・ナナカトル)シロシベを食べ、幻視したが、それは何の役にも立たない幻視であった。その山のすべての人々が今もそのきのこを食べているが、すべての知識を得られる世界に行くのはその一部だ。マリア・サビナの妹は、マリア・サビナと一緒にきのこを食べ始め、同じ幻視を得、きのこに話かけたが、きのこはすべての秘密を明かすことはなかった。

聖なるきのこは、マリア・サビナにすべての秘密を明かした。きのこがマリア・サビナに示した秘密は、一冊の巨大な本に封じこめられていたものであり、その本はこの世界からはるか彼方の場所にある。

マリア・サビナは、『過去も未来も既に達成してしまった、既に起こってしまった、一つのものとしてそこにある。』と述べたところで、コーザル体に出て、アカシック・レコードをのぞき込んだ。そしてにまで出会ってしまった。

このようにマリア・サビナにとっては、シロシベ(マジック・マッシュルーム)は、神に出会える、恐ろしくもすばらしいジャンプ台となったわけだが、冥想の習慣のないそのままの人がそうなる可能性はゼロに近いのもまた現実であることを教えてくれる。そこは、自分勝手な自分がちょっとでも残っていたらたどりつけない所だから。

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【マリア・サビナ】


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