アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

幸福と情熱

2005-10-31 05:35:19 | 現代冥想の到達点
両親が不仲であることや、最愛の恋人や親や子が死んだりすることで、人間はいやがおうでも、人間というものが、どうしようもないものであるという不条理、虚無に直面する。
不条理に直面することで、人間のはかなくももろい自我というものは、揺さぶりをかけられて、不条理を直視することに堪えられない人の場合は、不条理があることを横目で見ながら、愚痴をこぼすという、通俗的ニヒリズムと呼ばれる、ひとつの世をわたるポーズをとる程度に終わることになる。

また不条理を徹底的に直視できる人の場合は、このままならぬ世界全体を、静かに受け入れることになる。不条理を徹底的に直視した結果、人間はジコチューな執着や欲望から解放されることになり、本当の自由というものを味わうことになる。

不条理を直視できる人と直視できない人の差は、直視できる人には、自分の人生そのものに対するある種の情熱が底流にあって、それが自我というものを支えているのであるが、他方直視できない人では、その情熱が不足していること。その結果、情熱が不足している人は、直面することを避けることになる。

そういったある種の激しく深い情熱というのは、後天的に冥想することによって得られるような性質のものではなく、自分が生まれ落ちる場所を選定する段階から既に決められてきているものであり、その人の情熱の多寡に応じた環境に生まれ落ち、育ってきているものであるように思う。

冥想の本来の目的である、あらゆる人に対するあらゆる人なりの幸福への道筋は、時に冥想の道程に登場することもある霊能力の発現や、超能力の獲得ではない。
激しく深い人生への情熱により、この悲しくもすばらしい人生ドラマの不条理を見切ったことによる、あらゆる自分勝手な欲望・執着からの自由という不可思議な恩寵への登攀ルートのことである。

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一休と混沌

2005-10-30 05:27:01 | 丹田禅(冥想法8)
一休も、我々が出てきたところを、「混沌のようないずれともしれないところ」であると見ており、「我々は実体がないので、無から出てきた」などという哲学的な説を垂れず、おそらくは実体験で確認した混沌が、我々の根源であると述べているところが特筆に値する。一休は公案禅で育ったが、根源を見たのだと思う。

公案禅により、知性がその限界を見切ると、知性は知性自体の力によって自滅し、深遠な智慧としてよみがえる。その智慧とは、究極・宇宙意識の一属性である「智慧」である。
智慧の体感のみでは、根源を見ることはないと思うが、それまでの修行の縁により一休は、智慧の体感に留まることなく、根源を見たのだろうと思う。

この水鏡を見て、この身はこのまま仏なのだから、何でも好き勝手なことをすることがそのまま仏なのだ。自分のジコチュー感性に従って気ままに行動するのが、悟りだなどと誤解する人もいよう。ところが、それは現代社会の常識がそれを容認するところではあるが、まじめに道を求める人にとっては、そんな考え方は罠である。

仏に出会った人が「ありのままでいい」と語るのは真実だが、まだ仏に出会わない人が「ありのままでいい」と語るのはでたらめだからである。

以下一休水鏡。
「もとより生死を離れた身であるから、やって来たるところもなく、去りゆくところもない。過去・現在・未来の三世において、実体のあるものは何一つない。混沌のようないずれともしれないところから、この身は出てきたので、父や母がこの世に生まれない前の本来ということもなく、決して仏法などということも知らなかった。(だから)何かになろうなどと考えてはいけない。ただなんとも分別しない心こそが仏なのだから。
その仏というものはあるというわけでもなく、ないというわけでもない。
悟ってしまえば、あるということも、ないということも、どうでもよいことである。釈迦一代の大蔵経を見るに、仏になろうという心は、少しもないのである。
とにかく(経典などは)、古い暦と同じで、全く無用なのである。

思いもかけず、死んで、雲の空へと上がるとも、釈迦の経典を頼みにすることはできない。
(はしなふて 雲の空へと上がるとも 翟曇の経はたのまれはせず)

釈迦といういたづら君が世に出て、多くの人を迷わせていることよ。
(釈迦といふ いたづら君の世に出て 多くの者を迷わするかな)

正しいことは、正しいこととし、誤りは誤りとして受け止め、ありのままに、生は生、死は死、花は花、水は水、草は草、土は土。」
(一休和尚全集/一休仮名法語集/春秋社より引用)

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ヘラクレイトスの見方-3

2005-10-29 04:28:18 | 冥想アヴァンギャルド
○死なぬものが死ぬ者であり、死ぬ者が死なぬものなのだ。互いに他の死を生き、他の生を死んでいる。
※この神秘的な実感を語るものは、クンダリーニ・ヨーガを極めた者だけである。既に時間と空間に分割できない神の歴史的な進化を俯瞰したものだけが知る視点からのながめである。
理屈で説明すれば、神が死すべき人として現れ、人は不死の神であり、人は神の現れとして、他の人の転生を生き、他の人の生を死んでいる。アカシック・レコードとは、このように見えるのかもしれない。

○すなわちすべてのものには火が来たって、これを裁き、罪に落とすであろう。
※死のプロセスに見える閻魔大王のことですね。

○眠っている者も働いている。宇宙の出来事に共同して働いている。
※睡眠中でも、エーテル体以上はフル稼働中。

○われわれのうちにある生と死、覚醒と睡眠、若年と老年などの有り様は、いずれも同じものだ。このものが転化してかのものとなり、かのものが転化してそのものとなるからだ。
※生と死が同じものであるという実感は、死の世界を究めたものだけが持つ。

○眼を覚ましている者にはひとつの共通な世界がある。しかし寝るときには、めいめいがそんな世界には背を向けて、自分だけのものに帰る。
※眼を覚ましている者のひとつの共通な世界とは、現実社会のことである。現実社会とは、われわれが生きている世界の半分であることを示唆する。現実社会のみを評価し、取り組んでいこうとする近代西欧型文明は、この意味で、後世からは半人前社会などと呼ばれることがあるだろう。

○シュビュルラ(巫女)は、狂った口で、笑いもなければ、飾りもなく、また滑らかさもない言葉を吐き、(その声をもってよく千年の外に達しているが、)それは、神によって語るからだ。
※現代では、神によって語られる言葉に触れることは、まれになってしまった。

○どれだけ多くの人たちの話を私は聞いたことだろう。しかしそのだれ一人として、智があらゆるものの外に全く別のものとしてあることを認識するところまで来ている者はないのだ。
死の世界を探訪し切った人間なぞ、同時代に何人も出るものではなかったが、今の時代は続々と出ることを期待されているはずだが・・・・。

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ヘラクレイトスの見方-2

2005-10-28 05:20:06 | 冥想アヴァンギャルド
○最上の人は、すべてを捨てても一つを選ぶ、不朽の誉れをとって、死滅すべきものを棄てる。しかし大多数のものどもは、さながら、家畜の如くに飽食するだけで済んでいる。
※不朽の誉れとは、世俗的な名誉のことではなく、神との合一のこと。この言い回しは老子と似ているところがある。

○この世界、すべてにとって同じこの世界、これは何の神が作ったのでもなければ、何の人間が作ったのでもなく、いつも生きている火として、決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、いつもあったし、今もあり、またいつまでもあるだろう。
※生命全体、現象全体を燃え盛る火と見ている。そしてその火に永遠を感じているので、不変不壊の第六身体レベルを見ていると考えられる。

○火が転化してまず海となり、海が転化して、半分は地となり、半分は竜巻となる。地は溶けて海となり、計れば、以前それが地となる前にあったのと、同じ勘定になる。
※前段の続きである世界創造のビジョンを見ている。

○魂にとって水となることは死である。また水にとって土となることは死である。しかし土からは水が生じ、火からは魂が生ずる。
※魂を風とみると、地水火風の四元論と考えられる。

○火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。
※前段と同じ、地水火風の四元論。空気は風。西洋占星術の源流である。

○智はただひとつだ、すべてを通じてすべてを操るようなひとつの意志を認識することに他ならない。
イグナチウス・ロヨラや、聖女テレサも「ひとつの意志」を直観した。

○魂の際限は、何処まで行っても、どの途をたどって行っても、見つかることはないだろう。計ればそんなに深いものなのだ。
※個人という魂が絶対なるものに合一する有り様を見れば、魂の際限はない。

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ヘラクレイトスの見方-1

2005-10-27 05:37:04 | 冥想アヴァンギャルド
古代ギリシアの哲学者は、プロティノス、ソクラテスを始め、単にロジックを操る哲学をしていたのではなく、それぞれ妥当な冥想行法を行ってきており、その体験に裏付けられた知性のヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガを実習してきたと推測される言動が残っている。

ヘラクレイトスについては、生と死を同じであると断じており、それは、クンダリーニ・ヨーガ死の世界の本質を見た者でないと言わない言葉である。

ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの書物など、西田哲学が盛んな戦前は読まれた時期もあったかもしれないが、今読もうとしても、手に入れることすら、なかなかに難事である。
ヘラクレイトスは、かの数秘術の創始者とされるピタゴラスを批判するなど結構世俗的と思われているが、肝心なところを知っている気配があるので、触れて見たい。

○肉体を喜ばすことに幸福があるとしたならば、牛がエンドウを見つけて食べるのを我々は幸福だといったであろうに。
※感覚を喜ばすことの否定

○全きものと全からざるものとは、一緒につながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものも一続きだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
※「一」とはのこと。

○夜まいりをしたり、まじないをしたり、バッコスを祭ったり、狂乱したりする。密教の徒に対して・・・・。なぜなら世間で普通に行われている密教の密議というものは、実にけがらわしいものだから。
※これらの徒に対してヘライクレトスは、死後に報いがあるとして警告していたと言われるが、感覚の快楽目的のスピリチュアル活動には反作用があることをいう。

○行列を作ったり、性器の歌を歌ったりするのが、もしディオニュソスのためでなかったとしたら、人々のこの所業は、この上なく恥知らずなものであったろう。しかし彼らが狂乱して、酒樋の祭りを捧げているディオニュソスは、ハデス(冥界の王)と同じなのだ。
※ディオニュソスは燃え盛る生命の力を象徴する神であるが、それが死の世界の神であるハデスと同じとは、生も死も同じであることを確信を持って知っているのでなければ、言えない言葉である。

○決して没することのない者を前にして、人はどう身をくらますことができるというのだ。
※神の前では隠し事はできないこと。天の前に誤魔化しはできないという発想は、古代中国で強かった発想でもある。

○予想しなければ、予想外ものは見出せないだろう。それはそのままでは捉えがたく、見出しがたいものなのだから。
※「それ」とは、「一なるもの」のこと。

○生まれれば生きていようと思うことになるが、それは、またやがて死の定めを受け入れようと思うこと。あるいは、むしろ安息しようと思うことにもなる。そして終には子供たちを残すことになるが、それも死なせるためなのである。
※「子供たちを残すのは死なせるため」というのは、誤解を招きかねない表現であるが、
この底流には、死の世界の方が本来の人間にとって故郷であり、人は死から生に出て、死の世界に帰っていくという見方がある。この見方は、すぐれたクンダリーニ・ヨーギ(ヨーガ行者)に特徴的なものである。

「本(もと)の身は 本のところに帰るべし いらぬ仏を尋ねばしすな」一休
(人は死の世界というもとの世界に帰っていくものである。余計な仏などを尋ねてはいけない。)

○目覚めてからのわれわれが見ている限りのものは、いずれも死なのだ。そして寝てから見るのは、いずれも眠りなのだ。
※眠りも死の友達と見ている。

○死後に人間を待っているのは、彼らが予期もしなければ、また思いもかけないようなものなのだ。

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【ヘラクレイトス】

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イエスが弟子の足を洗う

2005-10-26 05:50:47 | キリスト者の秘蹟
一個人が救世主並みの覚醒を得ることは、最後の晩餐の食事の途中で、イエス・キリストが弟子の足を洗った事蹟に、そのひとつのサインを認められる。
この事蹟は、キリスト教では伝統的にイエスが弟子の足を洗うように自分を低くして、本当の奉仕の気持をもつことというのが、伝統的な解釈である。

しかし素直に見てみれば、イエスは、弟子の神性を見たからこそ、足を洗ったのではないだろうか。そして単に神性を認めただけならば、礼拝をするに留まったのではないか。足を洗うというのは、当時は奴隷の仕事であったそうなので、礼拝だけではなく、足を洗うというのは、ひれ伏して自分より高いものであることを認めている心情がうかがえる。

聖三位一体の教義では、イエスの高みはこの上なきものであるから、人間としてそれ以上のものはない。イエスが足を洗うとすれば、父なる神に対して洗うことしか論理的にはないのであるから、弟子を父なる神の現れとして洗ったということになろう。

当時の十二使徒の実力は全くイエスに及ばなかったにも関わらず、イエスは、「イエスを遣わした父なる神の顕れである彼ら」を見て、足を洗ってみせたと考えられるのである。そしてお互いに足を洗うべきであると述べ、それぞれが神の顕れだから対等であると示唆している。

イエスは、この夜「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言っている。既に事が起こりそうな気配があるが、我々はまだ信じていないのである。

そしてイエスは、最後の審判の時代が、まるで明日にでも起こるように思って幻視した(現在でも、その様を幻視した人はショックを受けるようだ。)。ところが、最後の審判の時代は現代のことのようだ。ということは、今の時代は、大工の救世主(アヴァターラ)が一人で頑張って、どうにかなる時代ではなく、一人一人が神の顕れであると自覚して覚醒しないと、どうにもならない時代であることと示唆しているように思う。

キリスト教は、現代を席巻している近代西欧文明のバックボーンである。20世紀になってニューエイジということが叫ばれているが、それは、水瓶座の時代であることを強く意識した運動である。水瓶座は、多くの個人が続々と覚醒することをイメージしているが、そのイメージは2千年前の最後の晩餐に既に伏線があったと考えられる。

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【最後の晩餐/バッサーノ】




ヨハネによる福音書第13章
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

シモン・ペテロのところに来ると、ペテロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペテロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペテロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。

事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

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イグナティウス・ロヨラの神秘体験-6

2005-10-25 04:16:01 | キリスト者の秘蹟
「かれは(ロヨラ)、司祭になった後熟考して、一年間ミサを捧げない決心をした。それはこの一年間、よく自分を準備し、神が彼を御子とともに置いてくださることを望むお恵みを聖母に懇願し続けるためであった。

ある日のことである。ローマに着く前、数マイルのところに一つの小聖堂があった。かれが(ロヨラ)がその小聖堂にはいって、祈っていると、自分の魂の中で、深い内的変動を感じ、父なる神が彼(ロヨラ)を御子とともに置かれたということを疑う勇気がおこることはありえなかった。」
(ある巡礼者の物語/岩波文庫から引用)

ここは、ロヨラが「神が彼を御子とともに置いてくださること」の観想をし続けた結果、ある日それは現実となったことを確信したというものである。観想とは、イメージ・トレーニングのことである。密教では、諸神霊や曼陀羅を観想し、キリスト教ではイエス・キリストを中心に観想する。

この時ロヨラとともにいたライネスの話によると、「神が彼を御子とともに置いてくださること」とは、ロヨラがイエスの僕(しもべ)として仕えることを、父なる神とイエス・キリストが認めてくれた。そして、ロヨラは、父なる神とイエス・キリストが自分と同志たちをイエスの友として選んだと悟った。

ここで言う御子とは、神のひとり子イエス・キリストのことで、ラーマクリシュナ流の言い方では「アヴァターラ 神の化身」ということになろう。
神の化身とは、その時代に対して出現するものであって、そう何人も同時に出るものではないだろうから、この神秘体験の意義は、ロヨラがアヴァターラにならなかったことではなく、ロヨラがイエス・キリストの友となったことにあるように思う。

救世主と友となることは、人間精神の発達史の上で、一種革命的な意義を持つことである。古代秘教では、神と救世主の側から一方的に発出されていた智慧や知識が、ここで救世主と友人になることで、その流れが個人の側からも流れ出る形もありえることになったように考えられる。つまり一個人も救世主と同等に位置づけられることを示唆しているわけである。

一個人が救世主並みの覚醒を得ることが、自我意識を近代西欧文明の強い影響の下に発達させてきた、現代社会全体の課題であることが、イエス・キリストの最後の晩餐以来あらためてここに提示されているように見える。そんなことはとても大それたことで、心情的にとても信じにくいことではあるが・・・・・。


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【この舞台となったローマ郊外ラ・ストルタ小聖堂】

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聖女テレサの神秘体験

2005-10-24 06:37:37 | キリスト者の秘蹟
聖女テレサの場合も一瞬にして世界を見渡す経験をしている。
『「ある日祈っていた時、万物が神の中で見られ、神の中に含まれていることを、一瞬間のうちに知覚することが、私に許された。私は、万物をそれぞれ固有の形で知覚したのではなかったが、それにもかかわらず、万物について、私の持った眺めは、この上なく明瞭なもので、私の魂にいきいきと印象されて、いつまでも残っている。

それは主が私に賜うたすべての恩恵のうちで、最も著しいもののひとつである。・・・・その眺めは実に微妙で繊細で、悟性(理解力)では、把握できないほどであった。」

彼女は更に続けて、神がまるで恐ろしく大きくて、この上なく透明なダイヤモンドのようで、その中に私たちのすべての行動の罪深さが、かつて見られなかったほど明瞭に見えているようであったことを物語っている。』

『私たちの悟性が理解する場合、それは悟性にはどうしても知れないような仕方でなされるのであって、悟性は自分が把握する事柄について、何も理解することはできない。私自身としては、悟性が把握するとは信じない。なぜなら、前にも言ったように悟性は、自身がそうすることを理解していないからである。実をいえば、すべては神秘であり、私自身、この神秘の中に没してしまうのである。』
(宗教的経験の諸相/W.ジェイムズ/岩波文庫から引用)

イグナチウス・ロヨラの場合も、聖女テレサの場合も、自分が神と合一したというポイントに至ってはおらず、自分と神は別々であるところにあって、世界全体を知覚する経験をしている。けれどその体験は、自分の側の体験ではなくて、半分神の側に属した体験であることを「神から賜うた体験」という表現で知ることができる。

そしてこの体験の『すべては神秘であり、私自身、この神秘の中に没してしまう』とは、ダンテス・ダイジの『ただただ絶対神秘が神秘である。』や、ラーマ・クリシュナの『これはみな、とてつもなく神秘的な話なんだよ!頭で考えたって何がわかる。』という実感と軌を一にしている。このように口を揃えて神秘と語っているので、この体験は神秘体験中の神秘体験と言うべきものなのだろう。

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イグナティウス・ロヨラの神秘体験-5

2005-10-23 06:39:47 | キリスト者の秘蹟
ロヨラは、マンレサ郊外の聖パウロ教会で冥想していた。
『そこに坐っているうちに、知性の眼が開かれ始めた。何か示現を見たわけではなく、むしろ多くの事柄を理解し、悟った。

多くの事柄というのは、霊的事柄は勿論、信仰と学問に関する事柄も含んでいた。すべてのことがかれに(ロヨラ)全く新しいものになって顕れるほど、偉大な照明体験であった。

その時かれ(ロヨラ)が悟った時の詳細を精確に述べることはできないが、知性のうちに偉大な光を受けたことは確かである。
62歳のこれまでの生涯を通して、神から受けたすべての援助と自分で学んだすべてをまとめて、一つにしたとしても、この時一度で受けた照らしには、とうてい及ばないように思われた。

「あたかも別の人間になり、以前に持っていたのとは別の知性を持つ者になったと悟るほど強烈に照らされた知性を保持するようになった。」』
(ある巡礼者の物語/岩波文庫から引用)

この体験は、智慧のアジナー・チャクラか自由のヴィシュダ・チャクラか、ないしは両方が開顕した体験と思われる。ただそれは、結果としてついて来るものであって、注目すべきは、「すべてのことがかれに(ロヨラ)全く新しいものになって顕れる」という部分である。

クンダリーニ覚醒のプロセスの中で、自己意識(コーザル体、メンタル体)が、頭頂より突出している時、一定の世界認知が崩壊するポイントがあり、この段階ではすべてものが未知と化す。この段階では、何もかも見知らない全く新しいものとなる。イグナチウス・ロヨラは、このポイントを通過したのだと思う。北欧神話の神々の王者オーディンもこの「見知らぬ国」では智慧だけが役に立つと指摘している。

字面だけ読めば、あらゆるものを知ったという感激の余韻が「すべてのことがかれに(ロヨラ)全く新しいものになって顕れる」という表現しているように見えるが、光の創造を見たレベルのロヨラでは、そんな単なる情動の動きを言っているとは考えにくい。

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イグナティウス・ロヨラの神秘体験-4

2005-10-22 02:38:43 | キリスト者の秘蹟
『祈っている間に、しばしば長い時間、キリストの人間性を内的な眼で見たことがあった。その姿はあまり大きくもなく、あまり小さくもない。一つの白く光輝く身体のように思われる形をしていたが、身体の肢体の区別は決して見えなかった。マンレサでこれを何回も見た。

それは二十回あるいは四十回であったと言ったとしても敢えて嘘であると思わないであろう。(中略)「もしも信仰のそれらの事柄を教える聖書が存在しなかったとしても、自分が今まで見たことだけの理由で、それらの事柄のために死ぬことも辞さない決心である。」と一人でたびたび考えるほど、その確信は強いものであった。』
(ある巡礼者の物語/岩波文庫から引用)

イグナティウス・ロヨラは、おそらくは、イエスのメンタル体を見たのであろう。アストラル体を見たのであれば、四肢の区別はわかるものである。しかしメンタル体であろうがアストラル体であろうが、そのことは本質的な問題ではない。イエスという神がロヨラに臨在し、それをイグナティウス・ロヨラが、はっきりと何度も確認したということが貴重なのである。

彼はそれにより、信仰により死ぬことも辞さないほどの確信を得たのである。ロヨラはイエズス会を開いたが、世界に強力かつ急速な布教を行い得たイエズス会の突破力・推進力の秘密はこのあたりにあったように思う。

敬虔で、純粋なキリスト教信者であれば、一生のうちに何回かは、イエス・キリストが、そのすぐそばに来られること(臨在)もあるだろう。しかしながら多くの人は、それを感じる精妙な知覚を持っていないため、それに気づかなかったり、眠っていたために、気づかないことがあるものだと思う。そういう事件は、一種の悲劇のようなものだが、普通の人間の現実とはそのようなものなのだと思う。

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イグナティウス・ロヨラの日常

2005-10-21 05:24:25 | キリスト者の秘蹟
大金持ちやセレブがどんな家に住んでいるか、どんな暮らしをしているかの一端はテレビで時折拝見することができるが、精神の高みにある聖者がどんな家に住み、どんな日常生活を送っているかをテレビなどで拝見することはまずできない。

聖者が本物であれば、その生活は日常の食べ物に事欠く状態であったり、着る物もブランドの服などはとんでもない話で、スーパーの安売りのものだろう。また住んでいるところだってボロ・アパートかも知れない。

そんな生活ぶりの中で、ボロ・アパートに住み、粗末な衣服で、毎日の食に事欠く人間から、その精神的な高みの美しさを、テレビの映像イメージでは、鮮やかに映し出すことは、まずできない。というのは、高い地位にあるものは、社会人として、身だしなみがきちんとしており、相応の豊かな暮らしをするものだということを先入観として、皆持っているので、金がなくて、人並みの生活をしていない人間を、自分より高みにある者と認めることなどまずできないからである。

イグナティウス・ロヨラは、もとは貴族の出自であったが、戦争で片足全体を砲弾で砕かれ、もう一方の足も深傷を負った。その砕かれた骨をつなぎ合わせたが、膝から大きく骨が突き出て、ひどくみっともなかったので、一旦直ってから突き出た骨を削りとる手術をして、どうにか歩けるようになったようだ。身体障害者なのだ。

ロヨラは、その日必要な金を超えた場合は、貧者に施すので、金はない。修道院に住んでだけいれば、生活には困らなかったろうが、わざわざペストが流行している中、エルサレムに無銭で旅をしたりしている。気狂いだと思われたり、食料がなかったり、疫病の町に入ったり、船が沈みかけたりと、自分の命が惜しい人間ではできない旅を、ボロに近い衣服でなし遂げている。

そんなロヨラが、今そこに出現しても、単なる身障者のホームレスとしか見えないのが、現代人の眼である。そしてロヨラの神秘体験は、現代人にとっては、セレブの家を垣間見るようなものだが、興味を持つ人は多くはあるまい。

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イグナティウス・ロヨラの神秘体験-3

2005-10-20 05:46:13 | キリスト者の秘蹟
「約1年間留まったマンレサで、彼(ロヨラ)は神から慰められ始め、霊魂たちの霊的世話をしながら生まれた結果が見えるようになって、今までなし続けていた極端な行為(苦行)をやめた。爪を切り、髪を短く刈るようになった。

この村に滞在中、ある日いつもの修道院の教会でミサを拝聴していたとき、主の聖体が奉挙された際、かれは白く輝く光線(複数)が上から降り注ぐのを内的な眼で見た。そして長い年月の後にそのことをよく説明できないけれども、しかしかれ(ロヨラ)が知性ではっきりと観たことは、われらの主イエス・キリストが至聖なる秘蹟の中に現存しておられることであった。」(ある巡礼者の物語/岩波文庫から引用)

※聖体の奉挙:ミサで、信者が、ホスチア(パン)とぶどう酒をいただくが、それがイエスの体と血に変わるという祭儀で、「取れ、これは私のからだである。」という最後の晩餐の言葉を象徴した儀式。イエスは自らの肉体と血をいけにえとしてささげた。

※至聖なる秘蹟とは、聖三位一体のこと。

ロヨラは、イエス・キリストがこの至聖なる秘蹟の中に現存しておられるのを見たが、それについて、つぎの20世紀インドの聖者ユクテスワの見方は貴重である。

1.人の子は、神性を具現した人(師匠、洗礼のヨハネ)に助けられて、聖霊の光の河で再び洗礼を受け自己を浄化する。そして、現象の世界から脱出して聖なる霊の世界に入り、イエスと同様に神の子となる。

神の子の状態では、人間は永遠にマーヤ(無明)の束縛(輪廻転生)から解放される

「しかし彼を受け入れた者に、また彼の名を信じた者にも、彼は神の子となる力を与えた」
(ヨハネによる福音書1:12)

このレベルは、まだ神の子であるという個性が残っている段階なので、第五身体であるコーザル体のレベルと思われる。最後の個性を残したレベルでも、輪廻転生を超えたレベルであるとユクテスワは述べていることは注目される。

2.人はこうして聖なる霊の世界に入り、神の子になると、聖霊を「ひとつの完全なすべて」と認識するようになり、またそれまでの”聖なる存在”としての自己意識が、高い領域から低い物質界へと流れているエネルギーの河に映った聖霊の光の、一つのきらめきの上に生じた一時の観念に過ぎなかったことを悟る。

そこで彼は、神の祭壇である聖霊の光の中に、「個なる自己」をいけにえとして献げる。

3.こうして父なる神を表す聖霊と一体になった彼は、ついに窮極の真の実体である神と合一する。

「勝利を得る者には、私とともに、私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て、私の父とともにそのみ座についたのと同様である」
(ヨハネの黙示録3:21)

このように、人は、最後の個性たるコーザル体をいけにえとして献げて、神との合一へと進んでいく。おそらくロヨラは、この一連の流れを直観したのではないだろうか。
この1の段階から、すでに神を見たことのある者にしか興味を引かないような事象であるので、関心のない人ならこのあたりは読みとばしそうな部分である。私も、最初にユクテスワの「聖なる科学」を読んだ時この辺は読みとばしたものだった。

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【ホスチア】

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イグナティウス・ロヨラの神秘体験-2

2005-10-19 05:19:20 | キリスト者の秘蹟
「ある時、神が世界を創造された有り様が、強烈な霊的歓びに包まれ、彼(ロヨラ)の知性に己を顕した。一つの輝くものが見え、そこから数条の光線が発出し、神は輝くものから光を創られたように思われた。しかしこれらの事柄について説明することができなかったし、その時神が彼(ロヨラ)の魂のうちに刻印された霊的な知識について完全に記憶していなかった。」(ある巡礼者の物語/岩波文庫から引用)

「一つの輝くもの」とは、光が出現する以前のことであり、老子の名状せざるもの、荘子の混沌であり、宇宙意識であり、ニルヴァーナであり、これがおそらくは、神である。それゆえに、ロヨラは、この事象について説明することができず、完全に記憶することもできなかった。

この体験は光の創造を見たものであるが、体験のレベルとしては、神そのものを見たのであるからこれ以上はないレベルである。ただ完全に記憶することができなかったところを見ると、当時のロヨラの実力からするとやや背伸びをした出来事、つまりロヨラの受け入れられる霊的実力を少々超えていた体験だったのかもしれないと思う。

ロヨラの実力を超える事象に出会う機縁こそが、神の恩寵ということになる。

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【星月夜/ゴッホ】



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使えそうなシナリオ

2005-10-18 04:22:27 | 時代のおわり
まず何か敵国のしかけた大型テロ事件が発生する。

シナリオ1.
軍隊を保有するか否かという問題をジャンジャン報道する。
そのことでこれが重要なテーマであると大衆に認知させる。
次に軍隊保有に反対する者は、敵国の味方であるという報道をする。
自分の財産生命を守るためには、軍隊を保有したほうがよいという報道をする。
するとほとんどの人は、軍隊保有に賛成する。

シナリオ2.
敵国との戦争に参加するか否かという問題をジャンジャン報道する。(テーマの意図的絞り込み)
そのことでこれが重要なテーマであると大衆に認知させる。(テーマの大衆による自覚)
次に戦争に反対する者は、敵国の味方であるという報道をする。(反対する選択肢の制限)
自分の財産生命を守るためには、戦争に参加したほうがよいという報道をする。(賛成する選択肢の正当化)
するとほとんどの人は、戦争に賛成する。

このシナリオは、悪い冗談として思いついたが、これでいけば、国民投票で3/4の得票もいけるかもしれませんね。なにしろ自分の財産・生命を守るためには仕方ないと、おひとよしの国民の判断を追い込んで行くのだから。

これにひっかからないまともな知性と情熱と意志がありますか。それがまともかどうか自覚する手段は、冥想しかないことに気がつくしかないのだけれど。

自分の財産、生命を守るということは、神の行きかたとは反対方向だが、反対方向であることを確認する手は冥想しかないってことである。そしてこれは、法律の考え方とは全く逆の方向でもある。だから現代社会と冥想が共存するのはむずかしいのである。

運悪くこのシナリオどおり進んだ時でも、本当に自分に素直でいられる人は、真摯な冥想修行者だけだろう。

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【全員賛成】

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戦時統制状態にあるアメリカのマスコミ

2005-10-17 04:33:12 | 時代のおわり
表向きには、米国のマスコミはファシズム的なコントロール下にあるなどということはないように見えるが、ある意味では、アメリカの世論の方が日本よりファシズム的なコントロールをされているように見える。あのかつての「自由の国」アメリカには、良心の自由は、もはやおちょこ一杯程度しかないようだ。

アメリカでは、9.11の同時多発テロ事件直後に、イラクに対する武力行使の下院決議において反対票を投じた人物は、ただ一人民主党下院議員バーバラ・リーしかいなかった。決議は420対1で可決。

バーバラ・リーは、 1999年の下院議会によるセルビア爆撃承認決議にもただ一人反対票を投じた。いずれもその理由は、目には目を歯には歯をでは、戦争は終わらないので、反対した。要するに敵の攻撃に対し攻撃で報復する、際限のない戦争の繰り返しはするべきではないという理由である。

この数少ないまともな感覚の下院議員バーバラ・リーは、この武力行使に反対票を投じたために、マスコミからは、裏切り者、非国民呼ばわりされた。
アメリカの一般国民の中でも、彼女を非国民だと思った人は少なくないだろう。ことほどさように、アメリカでも正気を生きるのはむずかしい。

バーバラ・リーのことではないが,ベトナムでの宣戦布告なき戦争へとアメリカ合衆国を送り出した1964年のトンキン湾決議に反対票を投じた議員は、既に2人しかいなかったので、アメリカの戦時統制型のマスコミ・政治支配は、40年前から既にあったということになる。

テレビを中心としたマスコミによる洗脳を考える時に、どのような情報が米国民に与えられてきた結果、このようなことになったのか、日本のことを考える上で参考になるだろう。なぜなら日本も反対意見を許さないタイプの政治とマスコミ報道の世界に入りつつあるからである。

日本のマスコミは大丈夫だろうか。そして自分は、そんなクレイジーな政治とマスコミの下で、どこまで正気な気分を味わったままで、人間らしく生きられるのだろうか。

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【バーバラ・リー】

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