アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

タオなき行動

2005-08-31 05:42:20 | 老子
◎老子第16章 致虚極。

『 万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができるというのである。まことにすべての草木がそれぞれに繁茂しているけれども悉くそれは、その根に帰ることをしているのである。
この根に帰るのを(乃ち無に帰して行くのを)静というのである。そしてこの静に帰ることをあるべき自然の姿にもどると謂う。人が命に帰るのをまた古今変わりなき本来の姿という。この本来の姿を知ることを明と呼ぶ。

人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。本来の姿を知ったならば、すべてを無為として容れることができる。このようになる時すべてを無為として受容すれば、真に公平無私である。
このように真に公平無私でありえたならば、それは王たり得るのである。王たり得たならば、それはまた天そのものである。天そのものであったならば、それはすなわち道である。
道であったならばそれは永遠である。だから身を没するまで、あやういということがない。』

確かに一日一日、行住坐臥において、規律を守り、善行を積み重ねることによって、神に近づこうとするカルマ・ヨーガの道はある。しかし神(仏)知らぬ者の行動は、常に誤りを繰り返すという絶対的な原則があるのもまた事実である。このことを老子は、『人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。』(原文;常を知らざれば、妄作して凶なり。)と述べる。

『人があるべき本来の姿を知る』とは、タオ(道)を体得することである。それは、冥想の先にある一つの出来事とは言えない出来事である。人間の体験ではなく、タオが体験する体験なので、もはや体験とは言えない体験である

神だ、仏だ、親切だ、平和運動だ、善行を行うとか、いろいろ言うけれど、結局本当に神・仏・タオというものを体感していない人間の行動は、『必ずみだりに物事に動作』するだけなのである。要するにタオ(道・神・仏)を知らぬ人間は、善行めいた行動をいくらとっても善行にはならないのである。

それはなぜか?その善行の外形をとった行動には必ず己(おのれ)があるからなのである。己がある限り、その行動には、本当の美しさも、本当の深さも、本当の平静さもない。そして己という個別性のないところにタオがある。

また『王たり得る』などと書くから、老子は為政者のための教訓であるなどという誤解が生まれる。王とは、ここでは禅的に言えば主人公のことである。すべてにおいて主人公になることが『王たり得る』ということ。

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道教のチャクラ

2005-08-30 05:27:31 | チャクラと七つの身体
道教の聖典である太乙金華宗旨にも当然の如く、チャクラへの言及がある。
それは悟りの確証の体験の説明の一部として現れる。

『確証の体験の第一段階は、観無量寿経の瞑想法に「太陽は、大いなる水に沈み、立ち並んだ木々が存在する現象として、形をとってくる」とのべられている体験であろう。「太陽が沈む」というのは、混沌(現象があらわれる以前の世界、つまり叡智界)の中に基礎が打ちこまれたことである。これが無極(対立する両極を超えた状態)である。

最高善の状態は、水のように清らかで汚れがない。これかすなわち「太極」(大いなる極)の主宰者である。
「震」(東方)から帝(神)が出現することである。「震」のシンボルは木である。したがって「立ち並んだ木々」のイメージが生まれてくるのである。七重の並木は、身体の七つの穴(あるいは心臓の七つの穴)が光輝くことを意味する。』
(黄金の華の秘密/CGユング/Rウィルヘルム/人文書院)

このストーリーは、太極という個性のない状態から、東方より、七つのチャクラが光輝く神が出現するという説明である。

特徴的なのは、チャクラが七つの樹の並木であると見ている部分で、七つのチャクラが並列であると見ているところである。一般的なチャクラの説明では、一番下にムラダーラ・チャクラがあって、その上にスワジスターナ・チャクラがあって、最高位にサハスラーラ・チャクラがあるとチャクラが垂直的に位置しているとするが、ここでは水平だという。

メンタル体チャクラでは、それぞれのチャクラが神の属性である。従ってすでにメンタル体チャクラにおいては、チャクラ相互の関係としては、並列と見ることができる。すなわち太乙金華宗旨で意識しているチャクラは、メンタル体チャクラであるということになる。

アストラル体以下で気を身体内に巡らすことを、通例大周天とよんでいるようだが、このようにアストラル体以下での気の周回は、太乙金華宗旨で呂洞賓がイメージしたものではないと言えよう。

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体外離脱の限界と問題点

2005-08-29 04:56:35 | 超能力・霊能力
◎低次元アストラル・トリップの限界

三次元と四次元の境界とは、肉体の世界とエーテル体の世界の境界である。
だから体外離脱体験で時々見かける地球を見下ろし、太陽系を見下ろし、銀河系宇宙の果てを見下ろして、その外に飛び出したところが、エーテル体世界の入口である。

エーテル体世界の入口に到達した人ですら、体外離脱体験を見る限り、それほど多くはないのだから、いわんやクンダリーニ覚醒プロセスでメンタル体世界を飛び出さないとだめなどという目標は、体外離脱のベテランでも難しい技術のようだ。宇宙の高みにもいろいろあるのだ。

『私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。』
(ユング自伝/みすず書房)

この部分は立花隆が『臨死体験/文春文庫』の中で、この風景を見るには宇宙船に乗らないと見えないなどと感動している部分だが、これにしても、肉体の三次元世界をまったく抜け出ていないのである。体験しているボディはおそらくは、アストラル体であろうが、山に登って美しい風景に感嘆するのと同じなのである。

山に登って美しい風景に感激した心があっても、翌日には、ともすれば他人を陥れて、自分の儲けになることや、自分が愉快になることを早速やる習性には、何ら変化がないのである。

このような低次元な体外離脱は、結局もの珍しさの域を超えることはなく、自分のかかえる不条理や、みじめさ、情けなさ、そして戦争・飢餓・疫病などの現代社会全体の混乱を解決する体験にはなり得ないのだ。

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【体外離脱でTBさせていただきました。】
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スピリチュアルの樹

2005-08-28 08:09:15 | チャクラと七つの身体
スピリチュアル・エマージェンシー(急速な意識の覚醒による、精神的な危機=精神病状態)の本を読んでいたら、冥想や意識レベル、存在レベルの深浅高低は、意外に、わからない人には、全然理解できていないものではないのではないかと感じ、下のような図を作ってみた。

図を見てわかるとおり、巷間でよくとりあげられるスピリチュアル・心霊・怪奇ネタのほとんどがメンタル体・アストラル体以下のいわゆる霊界以下レベルに集中している。
霊界以下に認識がとどまっている内は、どんなすばらしい霊能力が開けても、混迷を極める現実社会のいろいろな問題の根本的解決にはならない。またこういったものに対する見方が、体系がない興味本位の、きわもの的世界観に留まっているうちは、何も起こらない。

このように精神世界について、世間では常識であるが、実は誤解と思われるものはいくらでもある。
たとえば、心霊現象は、心理現象の一つにしか過ぎないと言い、トランス・パーソナル心理学はこの立場に立つけれど、元型の世界は、ある深みから心理現象から現実(操作)そのものに踏み込んでしまっているので、そこでは心理現象ではなくなってしまう。

また、霊的なものと交信することは、何でも良いことだとかいうけれど、霊的存在にも善悪高低があるはずので、それにつけ込まれることもあるので、そういう姿勢は実は危険ではないか。また霊的なものと交信するのは、神仏に行き着くための修行においては、邪魔になるだけであり、本来の道筋とはずれていること。

ただ、こういったことが誤解であることを多くの人が認識する手段は、『多くの人が誤解であると思うこと』か『多くの人が実際に誤解であることを体感する』しかない。そこが難しいところであるが、そこを超えていかないと、戦争のない世界や、人間関係での争いや叫びのない世界の到来はない。

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出神-3

2005-08-27 04:00:43 | クンダリーニ・ヨーガ
『三人目は在家の人で、その臨終の何日か前、自分の寿命を知り、後事万端忙しく整えて、のちの憂いをなくしてから、急いで盧氏(台湾のオカルティスト)に連絡したのである。盧氏が到着した時もう既に出神が始まっていた。

見ていると頭頂からは、赤い色の光が出ており、空中からは一人の天官が歩み降りていた。その天官の前には、旗を手にした引霊童子が立ち、二人して雲の上を歩みよってきた。

やがてこの人の頭頂から出ている赤い光は、一カ所に集中し、その中に人の影が立っているのが見えた。勿論これこそ本人の陽神である。天官を前に引霊童子を後ろにして、赤い光に包まれたその人は、虚空へと昇っていったという。』
《現代中国の仙人/高藤聡一郎》

これは、出神の3つ目の例であるが、次のようなクンダリーニ覚醒のプロセスの『本人の封印を切る』特徴にそのまま合致している。

1.1~3人の神霊がやってくる。
2.3人のいずれか1人(導師)が本人の頭に手を触れ、封印を切る。
アストラル体かメンタル体で導師がやってきて、空中から本人の封印を切る。

出神は、本人の封印を切って、メンタル体で肉体を出るところまでを言っており、出神後どうなっているかはわからないが、以上の共通した特徴から、道教の出神は、クンダリーニ覚醒と同じステップを踏んでいるであろうことが予想される。

高藤聡一郎氏は、陽神を、気と意識の集中によりできるもう一つの新しい身体とみている。気レベルということは、せいぜいアストラル・レベルだが、死のプロセスの分析を踏まえると、私は、陽神とはメンタル体のことだと考える。

道教の古書には、出神したては、陽神をあまり遠くまで歩かせられないが、3カ月くらいすると、1里まで行けると書いてあるそうだ。この説では、出神をエーテルか、アストラル・トリップとみているように思う。メンタル体で肉体を出るクンダリーニ覚醒のプロセスとは全く次元が異なるものである。アストラル・トリップでは、人間の個人という限界を超えることがないからである。

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出神-2

2005-08-26 04:59:46 | クンダリーニ・ヨーガ
『さて二人目は道教の師匠だ。この人は何十年も密かにこの行を修したという。羽化(死)の前、盧氏(台湾のオカルティスト)に見守ってくれるよう頼んだという。師は真夜中、廟の前に座り、準備を整えた。盧氏によると、いろいろな神々が彼を取り囲み、忙しげに立ち働いていたという。やがて一童子(陽神のこと)が出現した。

その身体は白く光輝いており、光輪の中に坐っていた。その光輪は名月のように輝き、
ゆっくりゆっくり上昇していった。この師匠は符咒にすぐれていたので、他の人の出神の話とは違い、神様を呼んでその頭頂を開かせてもらったという。
盧氏によると、天上聖母が現れ、その手の掌でなで、この師匠の頭頂を開き、陽神を頭上まで導き出したそうだ。
このままこの師匠は寿命を終えたのである。』
《現代中国の仙人/高藤聡一郎》

天上聖母が現れて頭頂を開くとは、クンダリーニ覚醒のプロセスの『本人の封印を切る
ところに当たる。次の部分である。

1.1~3人の神霊がやってくる。
2.3人のいずれか1人(導師)が本人の頭に手を触れ、封印を切る。
アストラル体かメンタル体で導師がやってきて、空中から本人の封印を切る。

昨日のエピソードは仏教の高僧、これは、道家であり、いずれにもクンダリーニ覚醒の正統的なプロセスに乗っていることが示されている。
ただ昨日のエピソード同様この道家は、出神した後に寿命を終えてしまったので、その体験と評価の詳細を本人の口から聞くことはできなかった。

肉体をメンタル体で出て行くというのは、それ自体かなりすごいことではあるが、出神で死んでしまう確率が高いことを見ると、世俗的には『邪教ではないか。』という評判をとりやすいことになる。

チベット密教では、死にあたって、メンタル体で肉体を出て行った場合は、いきなり、『原初の光』という中心太陽の属性を見る、つまり神を知ることになるので、人間としては、全く問題のないところに行き着く。ところが、出神をやって死んでしまったとなれば、そういった本質的な議論を通り越して、危険な宗教だなどと叩かれるのが最近の風潮である。だから過去何千年間、『密教』にせざるを得なかったのだろう。

よって、出神のような現象が、世間に普通に受け入れられるためには、まず精神的なものに価値があると認める人が増えること、それから冥想の深浅高低には、具体的にレベルの差があることが、世間に知られることが必要だろう。その後出神が、初めて正しい評価を受けるのだろう。

日本が、『神の国』になる道は遥かに遠く、見当もつかない。

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出神-1

2005-08-25 04:58:44 | クンダリーニ・ヨーガ
出神とは、おそらくは、幽体離脱やアストラル・プロジェクションではなくて、クンダリーニ覚醒のプロセスで言うコーザル体への離脱のことであるが、高藤聡一郎が『現代中国の仙人』で出神の例示をしているので、ご紹介。高藤氏も、出神については、仙道の古書に出ているのみで、台湾でもほとんどこれができた人はいないとしている。

クンダリーニ覚醒というものは、別に普通の人ができない霊的体験をすることではない。宇宙意識というものに触れることによって、まず自分と他人が実は神であり、一体であったことの確認が第一にある。そしてクンダリーニ覚醒のもう一つの特徴は、潛在意識や元型(ユング心理学)を操作して、真にクリエイティブなものを生み出していく技術を知ることにあるように思う。

『ひとりは仏教の高僧である。彼は過去、未来のことについて、予かじめ知っており、自分の出神の日を先に割り出した。その日がくると齋戒沐浴し、服を着替えて準備万端整えた。やがて泥丸(頭頂)がもこもこと盛り上がっていった。空中には黒い雲が広がって行き、雷雨がそれに加わったという。高僧は双脚を組んでいる場所に三昧の真火を蓄え続けた。やがて頭頂に向かって赤子のような形をした陽神が衝きあげていった。しばらくとっとっと跳ねつづけていった。一時間もたったところ雷鳴が鳴り響き、頭頂の竅(あな)が開いて一筋の白色の光が虚空へ抜けて行った。

この中に出てきた三昧の真火とは、頭頂を衝き抜けさせるために用いる強力な陽火(強化した生体エネルギー)のことだ。盧勝彦氏(台湾のオカルティスト)によると、陰気(普通の生体エネルギー)を脚の組んだところにどんどん集中させると発生するのだそうだ。』
《現代中国の仙人/高藤聡一郎》

三昧の真火とは、クンダリーニのことであり、頭頂から出て白色の光線になっているので、クンダリーニ覚醒のプロセスにおけるコーザル体の上昇のあたりを出神と呼んでいるようだ。

ただこのエピソードでは、出神後に肉体に帰還したかどうか、定かでないので、出神した人にとっての、出神の意義とか効果がいかなるのものか、評価を聞くことができていない。また出神した人では、肉体にもどる人は少ないようなので、当然の如くに肉体への帰還はなかったことを前提としているふしもある。


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【西周晩期 毛公鼎(BC9世紀頃)】

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欲望からの解放と苦行

2005-08-24 06:43:08 | キリスト者の秘蹟
欲望からの純潔を鍛えるためとは言え、東洋的伝統の中では、苦行は少ないので、苦行は、西洋人の特有の精神構造と密接に結びついてきると考えられる。いわゆる人間の限界悲しみを噛みしめる苦労をする経験とは一線を画したものである。

キリスト教では、あらゆる欲望からの純潔を鍛えるために、常軌を逸した苦行を行ってきたこと、またそういった苦行が近年行われなくなったことを読んでそういうことに思い当たった。キリスト教の苦行というのはすさまじいものだ。その苦行を行うということだけで、一切の雑念が起こる暇もなかろうというほどのものである。

私は罪人であるという意識を極限まで高め、ついにはイエスと同様の聖痕スティグマタ(十字架にかけられた時の両手両足の釘の跡と脇腹の傷)をその肉体に出現させるほどに、意識においても無意識においても罪人になりきってしまう。苦行は、意識にも無意識にも作用するものだろうから、聖痕スティグマタの出現は、観想法(イメージ・トレーニング)による想念の現実化と見ることもできるので、それ自体に不思議はない。

むしろ苦行の特徴は、神と一体になろうと進む方向ではなく、逆に「私は神とはまったく違う存在であり、独立した救いのない人間であり、罪人である」という、神とは分離する方向に意識を持っていくところである。いわば個人的自我の強化の方向であり、すぐに神と一体になろうという東洋的冥想の風景とは趣きを異にする。苦行では、このように個人的自我を強化した果てにその自我が極点において破裂するのを待つことになる。

聖痕スティグマタが出現したアッシジのフランチェスコも一生裸足で過ごすなどのという苦行を自分に課していた。次のゾイゼの苦行は、聖痕スティグマタはなかったが、すさまじいものである。

『14世紀のドイツの神秘家ゾイゼは、馬巣織(ばすおり、粗い薄手の布)シャツと鉄の鎖を身につけていたが、ついに血が流れ出したので、やむをえず着るのをやめて、150本の真鍮の釘がついた皮紐をシャツにつけ、その釘の先が自分の体に密着するようなシャツを作らせた。ゾイゼは、夜もこの下着を着るようにした。

更に鋲を外側一杯に埋め込んだ手袋をして寝たため、夜は無意識に体を鋲で掻きむしることになり、肉体に傷ができることになった。ゾイゼは、自分の肉体をコントロールするため、この苦行を16年間も続けた。

その苦行をやめた後、ゾイゼは、30本の釘と針を刺した十字架を作り、それを服の下に着込むという苦行を行い、坐ったり、立ったりする都度、その痛みにさいなまれることになった。』
《宗教的経験の諸相/W・ジェイムズ》

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【アッシジのフランチェスコのスティグマタ/ギルランダイオ】


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苦労を我慢する経験の不足

2005-08-23 04:25:21 | 時代のおわり
戦中派や戦前派の人が、中国で旅行や生活をしても、あまりその生活の不便さに不平を表明することは少ない。
概して戦後生まれの人が、その生活の不便さに辟易することが多い。

最近、ニートが60万人になる勢いだというのを聞いて、どうも自分も含めて、若いときの基本的な経験として、苦難を忍ぶというか、我慢する体験が根本的に欠落しているのではないかということが、社会全体に言えるのではないか。そして、それがニートを拡大再生産しているのではないかという印象をもった。

日本は終戦後しばらくは、貧困であることが当り前だった時代であった。貧困であることが当り前である時代というのは、自分のいろいろな欲望を抑制し、困難な状況を我慢することが無意識に要求される時代だった。
が、そういった時代の雰囲気は、もう年寄りの繰り言にしか残っていない。

飢え死にすることもない、家電がない生活はあり得ないとなれば、苦労を我慢する経験は簡単に避けて通れてしまう。苦労を我慢する経験は真剣勝負のところでしか身につかないので、いつのまにか日本社会は、苦労を我慢しないのが当り前の人が大部分の社会になってしまったのかもしれない。

幸福の捉え方が、昔はまず苦労を我慢してそれから幸福があるという方向から、今は、苦労はなくそして幸福を望むのが当り前という方向になっている人が増えているように思う。それは「今、ここで、そのまま」で、既に悟りを開いていることに気がつくという禅的な立場からすれば、それはどちらでも良いということにはなる。

ところが、日常の営為、つまり一挙手、一投足の積み重ねが人生なので、カルマ・ヨーガ的な価値感からすれば、苦労というもので、人間の力の限界と悲しみを噛みしめることも、またニルヴァーナに接近するステップの一つであることに間違いないのである。

そういった苦難の経験の少ないジェネレーションが、終わりの時代を迎えているというのは、その時代が、よりひどいことになるのか、可能性を抱かせる方向になるのかはわからないが、一つのキーポイントになるように思う。

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脳内麻薬-4

2005-08-22 05:03:27 | 冥想アヴァンギャルド
◎β-エンドルフィンなど

β-エンドルフィンは脳内麻薬の代表格で、モルヒネと成分が似ており、鎮痛・麻痺作用がある。β-エンドルフィンは、基本的には精神の安定をもたらすもの。運動、食事、瞑想、その他自分の好きなこと、例えば釣りや温泉入浴などをすれば、β-エンドルフィンが分泌されることが知られている。身体をリラックスさせ、ほっとする感覚を与える一方、無くなるとイライラするなど、身体が分泌を欲する習慣性・依存性がある。

運動、食事などのポジティブな行動ではなく、長期的にストレスを与えることでも、β-エンドルフィンが分泌される。たとえば、格闘、性的興奮、飢え、高熱の持続、手術、ギャンブル、ジョギング(ランナーズ・ハイ)、自傷行為(リストカット)、そして摂食障害者の嘔吐などである。

動物にストレスを与え続けると、そのストレスを回避する行動をとるのをやめ、そのうち痛みを感じなくなり、黙って痛みに耐える(ストレス性無痛覚症)ようになる。それはβ-エンドルフィンのような脳内麻薬の働きである。ストレスによって、脳内麻薬の分泌のスイッチが入る。この麻薬に似た物質の働きを打ち消す薬を与えたり、ストレス刺激を中断すると、禁断症状みたいな感じになる。これは阿片などの麻薬を反復投与された場合と同じ。

しかしβーエンドルフィンにより、心理的には緩和された状態になるが、長期のストレス下で、感覚を麻痺させることによって、肉体の免疫システムを破壊していることにもなる。免疫力の回復には、ストレスそのものを軽減しないといけないからである。

釈迦は、生きることそのものを苦(ストレス)と見た。生きることが苦であれば、長期的にストレスを与えられた状態となり、βーエンドルフィンが分泌される状態である。
また禅定(禅的トランス)に入り、脳波がアルファ波状態になると、β-エンドルフィンが分泌されるそうだ。

冥想とは、脳内麻薬β-エンドルフィンの鎮痛・麻痺作用を必要とするほど、「人生は苦そのものだ」と追い込まれていなくても、通常の冥想(深浅高低はあると思いますが・・・。)で、β-エンドルフィンが分泌されるそうなので、β-エンドルフィンそのものが、見神とか見性の引き金となるのではないように思われる。

したがって、β-エンドルフィンの鎮静効果は、ある一定の落ち着いた心理状態を作り出すことにより、より深い冥想レベルに到達するための環境をづくりの役割を果たしているように思う。

また脳内のβーエンドルフィンは、水や各種の味溶液の中でサッカリンや糖などの甘味物質を摂取したときに最も増大することがラットを用いた実験で報告されているそうなので、女性がきついストレス状態にある時に、甘いもので逃げるのは、本能的にβーエンドルフィンの効能を使っていることになる。

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【記憶の永続/ダリ】


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脳内麻薬-3

2005-08-21 04:51:03 | 冥想アヴァンギャルド
◎セロトニンと不安

セロトニンは、ほかの神経伝達物質であるドーパミン(喜び、快楽)、ノルアドレナリン(恐れ、驚き)などの情報をコントロールし、精神を安定させる作用がある。

セロトニンの精神面での機能は、癒された気分やおちついた気分などの感情の精神安定であり、不安が不安として意識されず、恐怖も感じられないようになること。

セロトニンが不足すると、不安や恐怖を抑制しにくくなり、鬱状態、情緒不安定となる。このため、キレやすくなったり、ちょっとした苦しみや失敗で自殺したりするようになる。また快楽から抜け出せずに依存症に陥ったりする原因にもなる。

日常生活の中ではあらゆるストレスが発生し、その延長として、不安や恐怖が発生する。
冥想の中でも、あらゆる不安が発生し、恐怖も発生する。丹田禅では、不安や恐怖が起こっても相手にしない対応をとり、クンダリーニ・ヨーガでは、不安や恐怖がおこってもそれを聞き守るというスタイルの対応をとる。
どちらの対応にしても、冥想では、セロトニン不足による生理の変化に基づく心理上の不安や恐怖それ自体を問題にしない対応をとるということになる。

他方冥想過程のなかでは、セロトニン不足自体を活用しようという動きもある。
たとえば、知性による解釈は社会では有効であるが、公案の取り組みでは、知性的な解釈は無効となる。そのことによる心理的な混乱が、冥想で一歩深いレベルに進むため初歩的なステップとして用いられているふしがある。つまりこういった心理的混乱が深刻であれば深刻であるほど、その後に訪れる解放感はこの上ないものになることが予想されるので、そした混乱を意図的に引き起こして、見性に導いていくところがあるように思う。

キリスト教で、自分が罪人であるという意識を、懺悔などを通じて強化していくのも心理的混乱を深める側面があるのではあるまいか。

このように一概にセロトニン不足であるから、心理的混乱がひどいと見るのではなく、そのセロトニン不足を効率的に利用していこうという部分が、丹田禅などでは、感じられる。

またこうした心理的混乱を意図的に引き起こす手法は、マルチ商法や、催眠術などでも利用されているところがあるように思う。『あなただけが、当選しました。』『いまこのチャンスに応募しないと、大損になります。』『他の人々もすべてこの商品を買ったのにあなただけが買っていないのは、社会人として変です』などなど。ちょっと気持が動揺するような言葉です。こんなスローガンは、当り前になり過ぎて気がつかないかもしれませんが、一種のセロトニン不足の意図的な応用に思える。

昨今の現代人で、ちょっと気のきいた人なら、こう言った心理的動揺を引き起こすスローガンは、怪しげなものとして無意識に排除しているかもしれない。だから冥想と聞くと胡散くさいという印象を持つというところもあるのかもしれない。

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【ナルシスの変容/サルバドール・ダリ】


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脳内麻薬-2

2005-08-20 06:51:52 | 冥想アヴァンギャルド
◎冥想とノルアドレナリン

ノルアドレナリンは、神経を興奮させる神経伝達物質で、不安恐怖を引き起こしたり、覚醒、集中、記憶、積極性、痛みを感じなくするなどのはたらきがある。
ストレスとの関係も深く、恐怖や驚愕などのストレスを発生させる緊急反応の際に、自律神経の末端で分泌され、交感神経を刺激して、血圧や心拍数を高める作用がある。呼吸困難、心臓がドキドキする、冷や汗が出る、めまいなどの自律神経発作を起こすことがある。

このようにノルアドレナリンの働きは、通常の働きとしては、やる気・意欲を司るものとされ、ストレスが起こった際にやる気を出して、闘争か回避かの行動をとらせる物質とされる。

現代社会で働いたり生活したりしていると、一度にいくつかの仕事を頼まれると、もう頭が回らないとか、時間に追われると必ず何か一つ忘れるとか、周りが気になって、1つの事に集中出来なくなるなどのストレスになることが必ず起こってくる。

こんな状況が多発すると、経常的にやる気を出さないと、明るく元気にできないようになっている。だから新たな慣れない仕事や困難な障害が生じた時に、ノルアドレナリンが分泌されて、積極的に取り組むことができるようになるわけだ。そして毎日四六時中、ノルアドレナリンの分泌が必要とされる、高いストレスの職場や家庭や人間関係の中に暮らしている場合、パニック障害やうつ病になることがある。

冥想から見れば、ノルアドレナリンというのは、冥想への取り組みの緊張感や本気度に関わってくるような気がする。
丹田禅では、これを積極的に利用した手法がとられる。公案では、知性で解決不能の公案を与えて、知性をパニックに追い込んだり、いきなり棒で30発殴ったり、何を言っても『カーツ』と怒鳴ったりして、ノルアドレナリンをどんどん分泌させるような刺激を与えていく。丹田禅では、『今、ここに、ありのままに』と追い込んでいくことになるので、ストレスからの逃避か闘争かという選択肢のどちらかということになれば、闘争の方なのだろう。

念仏、題目、オームなどの念唱によるマントラ禅においても、すべてを捨てて、そのマントラになりきることが要諦であるから、ノルアドレナリンの分泌が必要となる。

道元の只管打坐修行においては、一日3時間睡眠だったようなので、3時間睡眠の坐禅修行を継続するには、ノルアドレナリンの活発な分泌が必要である。

このようにノルアドレナリンは、真剣な冥想修行を成立させるのに必須なものではあるが、丹田禅もマントラ禅も只管打坐も、ノルアドレナリンを分泌させる心身の状態そのものが狙いなのではなくて、その先にある特殊な体験とは言えない体験を狙いとしていることをお忘れなく。

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脳内麻薬-1

2005-08-19 07:53:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎ドーパミンの分泌と悟り

ドーパミンは、神経伝達物質の一種であり、非常に強い多幸感をもたらすことが知られている。

悟りとは肉体の機能の謂いではないが、ドーパミンの過剰分泌による多幸感と悟りは違うのだろうか。仮にそれが同じであれば、ドーパミンを過剰分泌させる薬物を常用することによって、冥想などという回りくどい手段によることなく、たやすく悟りの状態にもっていくことができるのではないか。そうすれば、自分を守るために、他人を傷つけたり、他国の人を殺戮するという発想はなくなるので、戦争はなくなるのではないか。
そういった議論は、脳内麻薬ドーパミンの機能を知れば、必ず出てくる議論である。

大本教の出口王仁三郎は、子供が死んだ時に慟哭しているし、黒住教の黒住宗忠は、最愛の妻が死んだ時に気絶したと言われる。出口王仁三郎は、「神を知っている者がどうしてそんなに泣くのか」と問われ、「悲しいものは、悲しいわい」と答えている。

このことで、覚者は、永遠の命の実在と、本質的にこの世は何も問題がないことは知っているが、子供が死ぬのはやはり悲しいと感じていることがわかる。これは普通の人から見れば、ダブル・スタンダードと見えるかもしれないが、覚者は、個人である自分と、神である自分を確認しているというような言い方になるように思う。

さてドーパミン分泌による多幸感は、自分というものがどこまでもあって、その自分が多幸感を感じている。これに対し、クンダリーニ・ヨーガ中心太陽との合一体験で言えば、その体験の質は、最後の個人のレベル(コーザル体)を抜けた後は、個人が多幸感を感じているという卑小なでき事ではなくて、神が神を体験している、想像を絶するイベントであるので、単純な多幸感ではカバーしきれないのである。

要するにドーパミン分泌は、その肉体の状況を反映した多幸感という心理現象に留まる。またドーパミンを、薬物などにより、始終分泌させまくっても、それは、人間の絶対的な悲しさを超える体験には、決して至ることはないのだ。

なお精神分裂病の幻覚・妄想などは、ドーパミン過剰によって生じるという仮説がある。また、覚醒剤はドーパミン作動性に作用するため、覚醒剤中毒では幻覚・妄想が起こることがある。

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【夢/アンリ・ルソー】


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イエスと心臓を取り替える

2005-08-18 04:04:31 | キリスト者の秘蹟
17世紀の聖女マルグリット・マリ・アラコックは、イエスと心臓を取り替えた。
この話について更にディテールがある。

マルグリット・マリ・アラコックは、イエスに「人間どもの忘恩の償いをせよ」と言われたので、イエスの脇に開いている大きな傷口に自分の心臓を投げ入れた。
イエスは、この犠牲に歓び、彼女を抱いて十字架の寝床に横たえた。
「これが私の純潔な花嫁たちの寝床だ。ここで私の純粋な愛の甘美を味わうがよい。けれどもこの花は、少しずつ枯れてゆくだろう。そしてお前の弱さのために隠している刺だけが残るだろう。そして刺が強くお前を刺すので、お前はその痛みにたえるために私の愛の力を全力で必要とするだろう。」とイエスは言った。
それからイエスは自分の心臓と彼女の心臓を取り替えっこした。
《バロックの聖女/竹下節子/工作社》

ここには、自分をイエスの愛人みたいに思っている彼女が、イエスのたくましい腕で寝床に横たえられて、甘美を味わい、『刺』が強く刺すというエロチックな示唆がある。

イエスと心臓を交換するという行為の聖性の高みに疑問はないけれど、このストーリーに限らず、聖女のこのての話には、女性ならではのエロチックなものが含まれていることがままある。

このように女性の聖性の追求の仕方に違った特徴が現れるということは、「男性の求める窮極と女性の求める窮極は、実は違うものである」ことがあることを意味しているように思う。

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【ヒエロニムス・ボッシュ/愚者の舟】


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反復による平静

2005-08-17 06:31:20 | 只管打坐
◎クリシュナムーティの只管打坐の勧め

クリシュナムーティは、次の引用の中で、マントラ(念仏、題目、オームなど)の反復や、ヴィパッサナーなどの呼吸法などの、いわゆる方便を用いた冥想手法を否定する。
方便がなく、直接そのものになっていく冥想は只管打坐しかないから、クリシュナムーティは、只管打坐を推奨していると考えられるのである。
 
『こうした問題に対する回答を知る道-それは瞑想である。この瞑想という言葉は東洋においても西洋においても、極めて不適当に扱われている。瞑想についての考え方や方法はまちまちである。

「足の指の動きを見守り、決してそれから目を離さずに、いつまでもそれを見守ることだ。」という流派があるが、また別の方法では、ある姿勢をとって規則正しく呼吸するか知覚を実行するのが瞑想だとしている。すべてこういった方法は機械的な方法である。

またある言葉をいつまでも繰り返すことによってまったく超自然的な経験を味わうことができると教える方法もある。
これは一種の自己催眠法であり、まったくばかげた方法である。反復によって心は平静になるのであるから、アーメンとかオーム、もしくはコカ・コーラといった言葉を繰り返していれば何らかの経験を持つようになるのは明らかである。これは何千年もの昔からインドで行われている有名な現象-マントラ・ヨーガである。

反復によって、心を静かな柔らかい状態にすることはできるが、その心がとるに足りない狭小で浅薄な心であることに変わりはないのである。

庭でひろって一本の棒きれを暖炉の上に置いて、毎日その前に花を捧げることだってできよう。一カ月もすれば、あなたはその棒切れを礼拝するようになり、花をその前に備えないのが罪であるように思えてくるであろう。

瞑想とは何らかの方法を行うことではない。何かを反復したり模倣したりすることではないのである。瞑想は注意集中でもない。心をある一つの考え方に固定し、それ以外の考えをすべて心から追い払うといった注意集中について弟子に学ばせようとするのは、瞑想を教える人たちが好んで使う手ほどきの方法の一つである。

こんなばかげたつまらないことなら、学校の生徒でも強制されればそのとおりにやって、のけることができるのである。一方で一つのことに心を集中し、他方では他のさまざまなことに心を奪われるといった矛盾した状態に心をおくことであり、心がいろいろのことを思い浮かべるときに、その心の動きを注視していなければならないということである。心が一カ所に落ち着いていないということは、心が他のことに興味を抱いているということである。』
《自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞が関書房》
                           
この中で例示して否定されているのは、マントラ・ヨーガであり、呼吸法であり、一念集中法であり、棒切れを崇拝の対象とする一種のバクティ・ヨーガ(神との信愛)である。

マントラ・ヨーガについては、マントラ反復だけでは、平静さと柔軟さは得られるが、それ以上のものはないとクリシュナムーティは見ているが、マントラそのものになりきることによって窮極のエクスタシーが起こりうる可能性をも排除している。

ヴィパッサナーなどの呼吸法の体系は、釈迦がそれによって成道したと言われるほどなので、窮極に至る手段の一つであることは間違いないと思うが、それもダメとする。

一念集中法だって一念集中が極点に到達して、その圧力が抜けた空虚の瞬間に、頓悟(突然真実のものに気がつくこと)などが発生するのだが、それも避けるべきだとする。

棒切れを崇拝の対象とすることだって、本質的には、19世紀インドの聖者ラーマクリシュナが寺院の石造りのカーリ女神像を神そのものと見て崇拝しまくったのと何ら変わりのない高みに至れるのに、それすらノーという。

クリシュナムーティは、神智学出身なのに、クンダリーニとかチャクラとかは一言も言わないので、クンダリーニ・ヨーガでもない。従って、直接、マントラとか呼吸法などの方便なしにいきなり本当の自分に出会う冥想手法とは、只管打坐しかないと主張していると推定されるのである。

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【潜水艦発射型長距離核ミサイル】

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