アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

正受慧端-2

2005-07-31 06:53:37 | 丹田禅(冥想法8)
◎見性した人の少なさ

さて、いろいろなきっかけで、禅寺に入って修行してみようと思うことがある。その場合正しい師匠がみつかるかどうかということが重要な問題となる。インターネットで検索してみても、「某A寺のA和尚は見性しました」とか、「某B寺のB和尚は、大悟何回小悟何回の実績があります」などということが書いているわけではない。
クチコミでも、なかなか誰それが見性したという話は聞くことは少ない。

かたや見性した者を多数輩出している寺があり、よくよく聞いて見ると、どうも至道無難や、正受慧端のいう見性ではなく、どうも観念的な「気づき」や「知的理解」みたいなものを見性と呼んでいるので、多数見性した者を出しているようだとわかったことがある。

絶対なるものに対しての観念的な気づきすらも、全く理解できない人が多い中、「気づき」も決して馬鹿にすることはできないが、それは見性の重さとは全く異なるものである。

『近頃は、国中を払ってみても、似たりよったりの学問を看板にした生き損ないや、見性しない師匠ばかり。仏祖から伝えられた大法に至っては、今だかつて夢にも見られないと。

白隠(正受慧端の後継者)が人に語って曰く、
私はかつて老師の議論を聞いて思った。方々の寺が互いに威容を誇り、有名な師匠が次々に繁盛している。
私の老師はなぜこのように諸方のことを憤激なさるのか。これは、いわゆる仲間意識だろうかと。

その後、世の中あちこちに遊歴して、幾人かの宗匠にあったが、一人も大きな見地で導くような、本当の高僧にぶつかったことはない。初めて知った。正受老人の道は遥かに諸方の僧どもにぬきんでていたことを。』
(垂語/日本の禅語録/無難・正受)

江戸期の寺は、戸籍の管理をしていたり、戦の時の陣屋になったりして、役所以上の重要な機能を果たしていたので、有力者の厚遇を得るチャンスは多かったであろうから、今の時代と比べても、寺の経営を隆盛にすることは、簡単にできたのではあるまいか。
したがってこのような大寺が、道を説くという面をおろそかにしていても、あまり不思議はなく、逆に真正の求道者が貧乏寺に起居させられるのを見て、正受慧端が憤慨するのも納得できるところがある。

中国のように生き抜くこと自体が厳しい社会では、結局仏教は根付かなかった。日本は、中国ほど生存環境は厳しくないが、江戸時代に寺を厚遇したら、あっという間に仏教の本当のところは、衰退したということだろう。

坐禅冥想をするには、必ず寺でやる必要はない。自宅でやればよい。
ところが、見性以上のところにいくためには、世間的に見たら精神異常のような状態を通過するので、見性した師匠の指導のもとに、世間から隔離された場所でする必要がある。そのことが、世間の人に常識として広く理解してもらえる時代が来ないと、冥想の本当に深いところが、広がっていくことはむずかしいと思う。

例えば白隠が、一軒の家の前にたたずんで、老婆に何度も「あっちへいけ」と言われたのに、つんぼ同然に突っ立っていて、一向にどかないので、その老婆に竹箒で頭を何度も殴りつけられたのは、重いノイローゼそのものの症状です。

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至道無難-5

2005-07-30 06:02:30 | 丹田禅(冥想法8)
◎冥想教育の可能性

次の時代は学校で冥想教育をする時代だが、そのあり方を感じさせる一文がある。
小学校から、15歳くらいまでの間に、見性させるくらいの冥想カリキュラムが自然な姿かもしれない。

『ある子供であたまの良いのが、仏はいかなるものかと問うたので、そこで坐禅をさせると、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教へ、さて程経ていろいろになったことを訊ねたら、納得して去った。

男女に限らず、まず本性を悟らせて(見性)、それから坐禅させると良い。本性の悟りが十分できたとき、万事に対応することを教えよ。

悟ったと同時にそれを守らせよ。悪念が生まれることが無い。年久しくこの心を養えば、道人となるのである。

悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は、大方坐禅に取りついて、律宗になるものだ。大道を早く教えて悪いのと、その人に依って異なる。よくよく心得て教えよ。誤ってはならぬ。』

※律宗:仏教13宗の一つ。戒律の実践を成仏の因とする。本山は唐招提寺。

(龍沢寺所蔵法語/日本の禅語録/無難・正受)

子供に幼少から冥想をさせると、思春期には見性するということを聞いたことがある。
この「あたまの良い子」は、すっと見性した。そこで、見性を守らせ、見性が十分に深まるのを待った。そこで、万事にどう対応するかを聞いたら、納得したのである。

至道無難は、まず見性し、その見性を深めるために、坐禅させると良いと言う。見性で見つけたは、簡単に逃げるもののようなので、見性したと同時にその状態を守らせることが大事なのだとする。

「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。」とは、見性した時の感動は、全身心で手の舞、足の踏むところを知らずといったものだから、それを得て高ぶったところに、「あなたは、仏の境地を知ったのだから、その正しい境地から行動しさえすればよいのだ」などと師匠がアドバイスした途端に、「私は、仏そのものなのだから、何をしてもいいんだ」と思って、以後勝手放題に行動して、悪人となる消息が想像される。

よくカルトの教祖が、悪人になってしまうことがあるが、カルトの教祖でも見性体験があって、そこで、このようなヒントやアドバイスをもらって悪人となる例もあるのではないだろうか。

次の2首で、見性したくらいでは、その行動はすべてとなるわけではないことが戒められている。同様にスピリチュアル体験しただけでは、その行動がすべて善になるわけではないので、よくよく気をつけないと。

やがては人の師になろうとする人に
無一物になった時には何事も罪にならぬと思ふ悲しさ。
(無一物になりぬるときに 何事も とかにならぬと見るそ かなしき)

ある法師に
悟ったからと言っても、自分で心を縛ったら、その束縛の解けないうちは凡夫なのだよ。
(さとりても 身より心をしはりなは とけさるうちは ほんふなりけり)

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正受慧端-1

2005-07-29 04:27:28 | 丹田禅(冥想法8)
◎正受慧端の団扇バトル

江戸時代には、まだ関が原の合戦の硝煙の匂いも消え去らぬ頃に出た至道無難、その後継者たる正受慧端、白隠と3代続けて実のある禅者が出ている。現代においても、丹田禅で目を開いた人が出ているのはこの3代によるところが大きいのではなかろうか。

ある日、20年の修行により、各流派の奥義を極めた一人の剣術家がやってきて、剣術の奥義を問うてきたところ、至道無難禅師の後継者の正受慧端は、この剣術家を、拳で三回打ちすえ、さらに一踏みに踏み倒してしまった。

これを聞いた長野飯山の郷党の武士が、「先生は、法においては、すぐれているだろうが、剣術においては、先生は私どもには及ぶまい」と言い、剣術の試合を申し入れた。
正受慧端「お前らが私を打とうと思うなら、勝手に打って来なさい。ただし恐らく打ちこめないだろうよ。」

武士たちは、互いに顧みて、「先生を打つことはむずかしいものか。先生、試みに刀を使うことをお許しになりますか。」
正受「許すよ」
武士たち「どうか先生も刀をお取り下さい。」
正受「私は仏弟子だ。どうして刀などを用いるものか。このままでよい。」と小さな団扇を持って、「試しに打ってみよ、もしわずかでも打てたら、お前は妙手だと認めてあげよう」

武士は、声をあげて立ち向かいました。千変万化してその技を尽くしますが、木刀の触れるのは団扇だけです。ついに正受を打つことはできず、一同は無礼を謝して帰りました。

後に白隠が正受に、この秘訣を訊いたが「正しい眼力が明らかならば、どうして剣術だけにとどまるものか。お前はわずかに言葉を聞いただけで、すぐ思い違いをする。もし剣の来る道がはっきりわかれば、来る途中で打ち落とせるものだ。もしそれができれば、万に一つも心配することはない。」
《日本の禅語録/無難・正受》

白隠は、この話を聞いて、仏法と剣術は別のものであると思い込んでいたが、正受慧端は、仏法も剣術も奥義は同じであることを諭している。

丹田禅においては、気の源泉たるスワジスターナ・チャクラを鍛えていくことになり、大安心を得ていく。丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕というのは、気を自由自在に使える超能力の発現につながっていくことは、容易に想定されるので、丹田禅を極めた正受慧端が、団扇で木刀を翻弄することに、何の不思議もないように思う。

明治の剣客山岡鉄舟もこのような剣を使うという話を読んだことがあるが、団扇で応対した話ではなかった。

合気道の創始者植芝盛平は、立ち会いに際して、剣の切っ先がくる前に白い光が来るので、それを避ければ剣を避けることができ、また弾丸の来る前に白い光が来るので、それを避ければ、弾丸も避けることができると言い、そのエピソードも残っている。

植芝盛平は、大正8年36歳の時、一家を上げて、大本教の本拠たる綾部に移住し、大クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎師の厚遇をうけ、鎮魂帰神、その他の幽斎修行、顕斎修行につとめ、同師の勧めにより、道場を開設したとのことで、合気道の出所は、クンダリーニ・ヨーガの技術のようだ。というのは、植芝盛平も「気の妙用」だと言っているので、スワジスターナ・チャクラの属性たる、「気」を用いた技であることを十分に承知していたように思われるからである。

ただ植芝盛平は、鎮魂帰神によってすべてが分かると述べ、クンダリーニ・ヨーガでその境地を極めたのに対し、正受慧端は、丹田禅でそれを極めた。一つの頂きにも登山路が複数あるわけだ。

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至道無難-4

2005-07-28 04:14:12 | 丹田禅(冥想法8)
◎至道無難の悟境

 生死即涅槃
 生死もしらぬところになをつけて
 ねはんといふも いふはかりなり
(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、
 涅槃というのはそういうだけのもの) 

涅槃(ニルヴァーナ)を直接見た者であって初めて、涅槃とは、わけのわからないものに対して、仮そめに名をつけたものであるというものであることを確認できる。この言葉があることにより、至道無難が涅槃(ニルヴァーナ、宇宙意識、タオ)を知っていることがわかる。


 仏道はありがたしといふ人に
 ものごとに心とむなととくのりの
  法にこころをとむるひとかな
(仏道はありがたいという人に対して、
ものごとに執着するなと説く仏道の
 その法に執着するとはおかしい人だな)

 あらゆるものが、仏道の現れであることを知る体験が、仏道の側から起きれば、仏道は確かにありがたいことを知るが。そのことなしにただ「仏道はありがたい」と唱えても、その「仏道はありがたい」という執着すらも捨てないと、仏道の正体にはたどりつけないということだと思う。

 強いて仏になろうと願う人に
 さかさまにあびじごくへは 落つるとも
 仏になるとさらにおもふな
(何とか仏になろうとする人に対して、
たとい逆しまに阿鼻地獄へ落ちようとも
  仏に成ろうなど決して思いなさるなよ)

仏というものは、自分を離れてはないのであって、本当の自分ではない「仏」という、よそのものに間違ってもなろうとしてはいけない。

最初の一首は、仏そのものの実感を言い、後の二首は、修行者向けの警句である。
ちゃんと本当のものを知っている人がいて、それを見抜く目を持った周りの人がそれを伝えて、臨済宗の法灯が伝わっていく。臨済宗でなくとも、神道などでも、このようにして、過去連綿としてそれを伝えてきたはずだけど、今の時代に、その生きた真理そのものを持っている人がどの程度残っているのだろうか。文明の衰退とはそんな人が少ないことを言うのだと思う。

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至道無難-3

2005-07-27 05:07:28 | 丹田禅(冥想法8)
◎一生ずっと坐禅、一度だけ坐禅

『伊勢の国に一生坐禅して死んだ人がある。その人自身のために貴いことだ。かつその人自身坐禅して死んだのはよいことだ。もし病気で苦しむようになれば、坐禅できるかどうか覚束ない。

我が師愚堂国師は、一度の坐禅も、これが一生涯一度の坐禅、と思ってやれとおっしゃった。有りがたいことだ。 』《至道無難/自性記》

坐禅して死んだとは、メンタル体で肉体から出たことを言っているようです。

人生一回きりなんだから、死んで天国に行ったらいい目を見れるから、今善行を積みましょうなどという宣伝には乗れないですよね。
まずこの人生の可能性を捨てて、死後の生に賭けろと言っているわけですから、どこか欺瞞の雰囲気があるように思います。

輪廻転生とか前世があるではないかという反論もあろうかと思いますが、輪廻での転生でも前世でも、この人生における喜びや絶望のような、いわゆる可能性を感じさせる喜びも絶望もないのだと思います。あるとしても、きっと別の性質のものでしょう。

また積善は、積善という行為を通じて、自我というものをなくして行こうとする行為であって、決して来世での恵まれた生活のための打算的行為であってはならないと思います。

一日の生活もこれが一生涯最期の一日としてやれということでしょうが、そこまで追い込んでも、得道できるかどうかは別の問題。ただ自分をそこまで追い込んでいくほどの情熱がなければ、そういうチャンスも訪れないということ。

一度のブログ記事も、これが生涯一度のブログと思ってやれということですね。最近やや甘かったことを反省です。

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至道無難-2

2005-07-26 05:30:43 | 丹田禅(冥想法8)
◎至道無難の無私

鎌倉での話、ある金持ちの老人が至道無難禅師を尊崇して、庵を作って住まわせ、常に敬い仕えていました。しばらくして老人の家の女が懐妊しましたので、いろいろに責め問いただすと、和尚が忍び忍びに通われた結果だと答えました。

老人は憤って、今まで貴く思っていたのに、とんでもないことだ、早々に庵を出て、どこへでも行きなさいと罵ります。禅師は一言もいわず出て、雪の下あたりの親しい者の所へ行きましたが、この人も禅師の信者で、空いている寺を世話して食事などを運びました。
やがて例の女は、実は誰それと通じて孕んだので、和尚とはお話をしたことも無いと白状しました。

老人は驚いて雪の下へ駆けつけ、涙ながらにお詫びすると、禅師はにこにこ笑っただけでした。そして老人の請いに応じて、再び元の庵に戻ったという話です。
《日本の禅語録/無難・正受》

懇意にしている人から、根拠のない言いがかりをつけられて、それに反論もせず相手のいいなりになってあげる。

これは、世間から見れば、極端に人の良い人ということになる。こういった人の良い人というのは、多重債務者と並んで、マルチ商法や違法金融やリフォーム詐欺の標的になりやすく、「優良顧客リスト」に載って名前が出回り、複数の業者から狙われることが知られて、昨今問題になっているほどである。

このように、悪辣な手合いが多い現代では、禅師のように自己防衛機能が低い人間は、むしろ生き抜くのが極めてむずかしいのである。十牛図入鄽垂手などを見る限りでは、覚者が陋巷(ちまた)で生きるのは、気楽なものと感じられやすいが、覚者がそのまま現代で生きるのは、至道無難のような人ですら至難と思われる。相手の悪意や誤解の如何によらず、財産や金をむしりとられるがままにされているはずだからである。それが衆善奉行、諸悪莫作の道なのである。

従って、このように覚者がまともに生きるのを許さない現代社会は、誠にもって邪境とか、クレイジー・ワールドと呼ぶしかない社会であるということになる。これも現代文明が、危機であり、破綻に瀕している証拠の一つである。文明の華は、芸術だけではなく、そういった聖者が出ることであるから、華を認めない文明が、いつまでも存続できるものなのだろうか。

鎌倉鶴ケ岡八幡宮参詣

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至道無難-1

2005-07-25 05:12:31 | 丹田禅(冥想法8)
◎至道無難の愛と大安心

至道無難禅師は、慶長8年(1603)に、関が原の三輪家の長男として生まれた。おそらくは当時衰亡寸前の、臨済禅の灯火を伝えた重要な人物である。

ある日至道無難禅師が懇意な商家にいくと、折節その家が大がかりな掃除中で、ちらかしてあり、空いている一間に主人と話していました。
そこに別の商家の使いが来て、紙に包んだ金を渡して帰りました。
長らく話をして、禅師が去った後、主人は金のことを思い出して、懐や、たもとなど探したが見つかりません。しかたなく禅師の元へ行き、もし何かの間違いで持ち帰られたのではないか、と訊ねると、禅師はそれだけの金を取り出して主人に与えました。

数日後に主人は、例の一間の鴨居の塵を払っていると、紙包みの金が落ちて来ました。主人は驚き、禅師のところへ走り、金を返して詫びると、禅師は何事もなかったように、それは思い違いをなさったのでしょうと、無心にその金を受け取ったのでした。
《日本の禅語録/無難・正受》

事実とは相違する言いがかりをつけられ、事実とは異なるのに、その言いがかりを認め、弁償までしてやった話である。

これは、単純に善行を行い、悪行をしないという「道徳的姿勢」では対応できないシチュエーションである。これは、最近の「行列のできる法律相談」などの「目には目を」的な発想からすれば、とんでもない話であるが、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢が骨身に徹していないと、身に覚えの無い罪をかぶせられて、躊躇せず金を渡してやることなどできることではない。

そして、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢は、利己的なものがないだけでなく、自分も他人も同じ仏のあらわれであるという窮極のところを承知していないと出てくる姿勢ではない。それは、仏があなたや私として現れているということであり、仏(神、ニルヴァーナ)の一つの属性である「愛(大慈悲)」(アナハタ・チャクラ)と「大安心」(スワジスターナ・チャクラ)の働きとして見える。

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【家康】


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デビッド・リンチ監督の瞑想教育構想

2005-07-24 07:26:56 | 時代のおわり
「ツイン・ピークス」などで有名なデビッド・リンチ監督は、瞑想教育による世界平和推進のために70億ドル(約7700億円)を集める計画を明らかにしたそうです。

監督は、「意識教育と世界平和のためのデビッド・リンチ財団」を設立し、約8千億円を基金として、その運用収益を世界中で学校における瞑想教育を推進する活動などを行う計画の運営費に当てたいとのことです。
同監督は、瞑想は健康増進とストレス解消に役立ち、暴力行為をなくすことにつながるとしており、「8000人が瞑想し、良い波動を送り出せば、地球に平和が訪れる」と述べた。

TM(超越瞑想)は、人気絶頂時のビートルズのメンバーがマハリシ・マヘーシュ・ヨーギに会いに行ったことがあるので、アメリカでは、わりと有名な教団なのではないでしょうか。監督のTM(超越瞑想)暦は32年で、筋金入りです。

1.冥想による平和
学校教育やマスコミで「人の命は尊いから、戦争には反対し、世界平和を希求しよう」宣伝を繰り返してきたが、一向に効果がないので、これまでのやり方では世界平和が実現するものではない。

監督自らがコメントしているように、アメリカでも、人々はこの計画を笑うそうなので、その点は日本と同じです。冥想で世界が平和になるなんて、本気で思っている人は極端に少ないということです。
そう言った風潮の中、監督が世界中で、冥想教育をプロモートしようと宣言し、賛同者を集めようというのは、奇特で勇気のあることだと思います。

確かに冥想は、健康増進とストレス解消に役立つ種類のもある。けれど、そのタイプの冥想は、平和の実現とは、あまり関係がない。
地球に平和が訪れるためには、もちろん「地球に平和が来ますように」型の祈りも効果なしとはしないけれど、本当の他人への思いやりと、利己心からの脱却ができなければ、本当の世界平和の到来はない。

そして、本当の他人への思いやりと、自分のことなどどうなってもよいという利己心からの脱却は、アナハタ・チャクラの覚醒による、窮極の「愛」の冥想体験なしには、実現するものではない。

窮極の「愛」の実感とは、(1)すべてが自分であったという愛・慈悲、(2)大いなるすべてのものに対するいとおしさ(3)すべてが一体であるという感謝、(4)底知れぬ生命の絶望と悲しみというようなものである。

この件は、TM(超越瞑想)の教義の内容を抜きにしても、平和が実現しないのに、自ら政府に税金を払って戦争に間接的に協力する、大多数の善良な市民の認識に一石を投じた意義はあるのではないか。次の時代には、学校で瞑想教育が行われると予言している人もおり、その点での先進性はあるように思う。

2.カルトが大金を集める
TM(超越瞑想)が、アメリカで、カルトと見られているかどうか、わかりませんが、金と権力を持つことにより、米国政府の邪魔になり、ブランチ・ディビディアンの最期のように、政府から戦車を差し向けられて、絶望的な戦いに追い込まれなければいいと思います。

アメリカでは、巨大カルトは、悲惨な最期を遂げているようなので、8千億円集めてカルトを作ることで、そんな最期をイメージしない米国民は少ないということなのでしょう。

この記事では、TMがカルト扱いされているようなので・・・・。

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《この件でTBさせていただきました。数少ない笑わないブログです。》
(つらつら日暮らし)()
碧のどうでもいいメモ()
超塵日記()
大学の真相 海外で考える()
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ラーマクリシュナが見た神秘的ビジョン

2005-07-23 07:07:38 | 現代冥想の到達点
ある日ラーマクリシュナは、マー(大実母)に頼んで何もかも見せてもらった。

『あたり一面、四方八方にシヴァとシャクティ(シヴァの妻)がいるんだ。シヴァとシャクティが交接(まじわっ)ているんだ。人間、あらゆる動物や草木、全部の中にあのシヴァとシャクティがいるんだ。プルシャ(男性原理)とプラクリティ(女性原理)!その2つの交接(まじわり)!』


【哲学者の薔薇園/錬金術書】



『また別の日に見せてくれたのは、人の頭蓋骨の山!しゃれこうべの山脈だ!他になにもないんだ!わたしはその中にたった一人で坐っているんだ。』


【カンボジア】


『それから、見せて下さったのは、大洋!
私は塩人形になって、海の深さを測りにゆく。その時グルの恵みで、私は、石に変えられた。見ると汽船が一艘。--すぐに乗り込んだ。グルは舵手だ。グルの舵取り。その時は見ていた。私は一つのもの、お前も一つのもの。それから飛び込んで海に入ったら、魚に変えさせられた。私はサッチダーナンダ(実在・智慧・歓喜)の大海で楽しく泳いでいた。


これはみな、とてつもなく神秘的な話なんだよ!頭で考えたって何がわかる。あの御方が会ってくだされば、すべてはわかることだ。わからないことなんか、なにもなくなるよ。』
〔人類の知的遺産/ラーマクリシュナ〕

いずれも、ユング派の心理学者が見れば飛びつきそうな、精神分裂病患者の心理現象として、よく出てきそうな素材である。

ラーマクリシュナは、神から見せられたビジョンとして語っているが、いずれも自分の個別性を意識しているものの、すでに何も問題のない(不安、苦悩、絶望などがない)レベルでの世界の神秘を目の当たりにしている。従って最後の個別性である第五身体コーザル体以上での体験と思われる。

こういうビジョンを見せてもらえるのは、本当に神の恩寵であるが、これに至るまでのラーマクリシュナの何度もの転生による人生経験の積み重ねがあって初めて、この高みに達しているという、彼個人の魂のずっしりとした重量を逆に感じさせる述懐である。

世間に出て行って、「すべては、男女のセックスでできている」とか、「私は魚に変身させられた」などいう体験は、精神分裂病患者がいうのであれば、病気として許してもらえるが、正常な社会人がそれを語って、理解してもらえることはまずない。

そしてそれは、単なる心理現象ではなくて、ラーマクリシュナは、「世界は、男女のセックスで成り」「自分が魚である」ことが、現実そのものである世界に生きているという理解の仕方の方が正解に近いように思う。

そうでないと、「これはみな、とてつもなく神秘的な話なんだよ!頭で考えたって何がわかる。」という説明を付け加えたりしない。

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ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)-3

2005-07-22 04:36:47 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎ソーマに酩酊した者の独白

リグ・ベーダのソーマに酩酊した者の独白から。薬物経由でもアートマンはある。

1.かく実に、かくわが意向はあり、願わくは、牛と馬とを勝ち得んことを。---真実、我はソーマを飲めり。

2.前方へ揺り動かす風のごとく、飲みたる〔ソーマは〕、われを上方へおし上げたり。-真実、われは・・・・・・・・・。

3.飲みたる〔ソーマは〕、われを上方へおし上げたり。疾走する馬の車のごとく。――――真実、われは・・・・・・・・・・。

4.讃歌はわれに近づけり、啼く牝牛のいとしき仔牛におけるがごとく。――――――真実、われは・・・・・・・・・・。

5.車匠の車体におけるがごとく、われは讃歌を心に撓(た)めて、吟味す。-真実、われは・・・・・・・・・・。

6.五種族(ここでは全人類)は、一顧の値いすらなく我に見えたり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

7.天地両界は、我が一にも匹敵せず。――――真実、われは・・・・・・・・・・。

8.我は偉大によりて天を凌駕せり。この大地をも。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

9.よし、われこの地を、ここにあるいはかしこに置かんと欲す。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

10.われは焼きつつ地を痛撃す、ここにあるいはかしこに。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

11.わが一翼は天にあり。他の一翼もてわれは下界に溝をつくれり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

12.われは巨大なり、雲まで高く登れり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

13.よく装備せられたる家としてわれは行く、神々に供物を運びつつ。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

【リグ・ヴェーダの讃歌/ソーマの歌/世界古典文学全集ヴェーダ・アヴェスターP50から引用】
独白者は不明とされる。

ソーマは、『われ』というものを、肉体から上方へおし上げるパワーのある飲みものと見える。

ソーマの力は、近代的自我のもとでは、通常は禁欲的修行の果てにある上方の身体へ『われ』を押し上げるクンダリーニの上昇力の代替か、ないしは全く別種の上方へ押し上げる力であるように思う。

この独白の最初は牛と馬が欲しいという世俗の願望であったものが、やがて、全人類も、一顧の値すらないとして、人間であることの限界を越えて、個別性のない世界に入っていく。

『われこの地を、ここにあるいはかしこに置かんと欲す』では、自分自らがすでに創造神として体験しており、第六身体(アートマン)の世界に入っていることがわかる。

人は、最愛の恋人や家族に突然死なれたりする場合に、人生の虚無に直面する。直面したことをきっかけに、個別的生命である人間の悲しさと限界を思い知り、それを超えた『上方の身体』に意識が到達するかどうかは、平素から真剣な冥想への取り組みがあるかどうかにかかっているように思う。ここでは、ソーマがその直面というきっかけを与えたに違いない。

ただしソーマというサイケデリックな薬物も、それを服用することだけで、高度な意識レベルに到達するものではない。
というのは、誰もが死に直面するが、その時、誰もが神を見たり、悟りを開くわけではないからである。また、みんながこの世の終わりの時に出くわしたとして、みんながみんな悟りを開けるとは思えないからである。

だから、ソーマは、古来人の飲み物ではなく、神の飲み物とされ、ただの人は手を出してはいけないのである。


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【シレノスの酩酊/ルーベンス(シレノス:酒神ディオニュソスの従者で酔っぱらい老人の半獣神)】


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道元の身心脱落の気配-2

2005-07-21 05:06:13 | 只管打坐
◎諸悪莫作(正法眼蔵)でみる身心脱落-2

「衆生が仏祖となるときには、釈迦牟尼仏や達磨大師の如き、日頃の仏祖を妨げるのではない。ただ我々は、仏祖となる道理を二六時中、行住坐臥に、よくよく思い量るべきである。
我々が仏祖となる場合、決して衆生を破るのではなく、奪うのでもなく、失うのでもない。衆生のままである。しかしながら身心脱落してくるのである。」
(日本の名著/道元/諸悪莫作) 

我々は、ややもすると、みじめで情けない自分に気づいて、へこむことがある。
ここでは、衆生であるみじめで情けない自分が、身心脱落して仏祖になる時は、そんな自分ではない何かになるのではない。
例えば、金持ちな自分になったり、異性にもてまくる自分になったり、高い社会的地位を得たり、健康体そのものものになったり、体重が10キロ減ったり、というような今の自分と違うものになることではない。

みじめでなさけない自分のまま身心脱落するのであると言っているように思う。今、ここで。

これが、「仏祖となる道理を二六時中、行住坐臥に、よくよく思い量る」ということではないだろうか。

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【パウル・クレー/船乗りシンドバッド】


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道元の身心脱落の気配-1

2005-07-20 05:05:22 | 只管打坐
◎諸悪莫作(正法眼蔵)でみる身心脱落-1
道元も、クリシュナムルティと同様に、おちゃらけたところがなく、基本に忠実なので、自分の身心脱落体験について、直接的な物言いをすることはないが、間接的に、それとうかがえる言い方をしているところがある。

「自分自ら心の全体を挙げ、体の全体を挙げて修行せしめられるとき、初めには八九分どおりが成就し、後には諸悪莫作が実現する。」
「汝が身心の全体をひねり来たって修行し、あるいは、汝でなくても誰でもよい、ともかく身心の全体をひねり来たって修行する場合に、四大、五蘊(四大とは地水火風の四元素で身。五蘊は色、受、想、行、識のことで心)の身心の隈々を挙げて修行する力が、まっしぐらに実現するのである。その際、四大、五蘊は、もはや自己を汚さない。今日の四大、五蘊までも自ずから修行に引き入れられていく。
そしてこの永遠の今に立つ、四大、五蘊の修行の力が、これまでの四大、五蘊を修行せしめるのである。そればかりではない。山河大地、日月星辰までも修行せしめる。すると山河大地、日月星辰が、かえって我々をして修行せしめるのである。」
(日本の名著/道元/諸悪莫作)    

要するに身心全体で一生懸命修行すれば、身心と自己が一体となって修行する力が実現し、さらには、山河大地、日月星辰までもが一体になって修行する力が実現するという。

正法眼蔵は修行者向けの文なので、修行する力、修行する力と語るが、修行する力の背景には、「身心全体で修行すれば、自己が心身に溶け込み、さらには、山河大地、日月星辰が一体となる」身心脱落体験が隠されているように読める。
そして諸悪ができなくなってしまうのである。「悪いことをしないようにしよう」などと思わなくとも、自然に悪いことができなくなるのである。

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オーパーツ

2005-07-19 21:29:09 | 時代のおわり
『どうしてオーパーツなんかに興味持っているの。』

『100年後に、今の時代が、大昔に滅亡してしまった「超古代文明」にならないようにするためだよ。

おや、くわえタバコで運転なんかしちゃって、君は、1万2千年前も、くわえタバコで車の運転してなかった?』

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【くわえタバコの運転/マヤ文明のトロアノ古写本】


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プロティノスの窮極体験

2005-07-19 04:03:51 | 冥想アヴァンギャルド
◎プロティノスの窮極体験

古代ギリシアの哲学者には、ソクラテスやヘラクレイトスなど、窮極を知っていたと思われる哲人が輩出しているが、プロティノスもその一人。

プロティノス(Plotinos, A.D.204- 269)は、エジプトのアレクサンドリア生まれの哲人。プロティノスは、最近はさっぱり読まれなくなったが、久松真一や西田哲学隆盛なりし戦前には、随分と読まれた形跡がある。

彼の神人合一体験は、体外離脱から語られるのが特徴的である。

『私はしばしば肉体(の眠りを)脱して(真の)自己自身に目覚め、他のすべてのものから脱却して私自身の内部へとはいりこみ、ただただ驚嘆すべき素晴らしい美を観ることがあるが、この時ほど、自分が高次なるものの一部であることを確信したことはなかった。
その時の私は最善なる生を生き、神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ、あの最善の生命活動を通して他の一切の知性的なものを超えたところに自らを据えていたのである。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P322から引用)


「ただただ驚嘆すべき素晴らしい美」は、プラトンが言うイデア界のことであるから、不変の世界、第六身体アートマンのこと、「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」とは有の世界のことであるから、相変わらず、不壊の神の世界である第六身体にとどまっていると思われる。

この「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」という言葉が、仏教でいう「華厳の統一的世界観」をイメージさせるので、華厳経の世界はこのあたりで見られるのかもしれない。

『しかるに、全く単純(単一)なものに対しては、どのような逐次的思考が(有効で)ありえようか。否、英知的に触れることだけでも、十分なのだ。そして触れた人は、触れている時には、かのものについて何も言うことはできないし、その暇もない。ただ後になって、それについて考えてみることはできるが。

そして人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。そして、ちょうど他の或る神が、だれかが勧請した時に、家へ入って照らすばあいのように、かの者が(魂を)照らした時に、その時こそかの神は(魂に)現前しているのだ、と人は信じなければならない。

さもなければ、神はそもそも来もしなかったので、(家を)照らさなかったわけだ。同様に魂も、光に照らされていない時には、かの神を欠いているのである。

しかし、照らされた時には、魂は自分が求めていたものを持っているのだ。そして、これこそが魂にとって真実の目的(完成)である。すなわち、あの光に触れること、そしてそれ(あの光)でそれを観ることが、他者の光でではなく、魂がそれで(諸有を)見るところのまさにその光を(その光で観ることが)。なぜなら、魂がそれで照らされているそのもの(光)、これこそが観られねばならぬものなのだから。なぜなら、太陽にしても、他のものの光で(見られるの)ではないのだから。

では、どうすればそのことが成就するのだろうか。
一切を取り去れ。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P449-450から引用)

『人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。』という部分は、最高者たる神により、神自身を見ていることがわかる。すでにここでは、個なる人間という自分はなく、神が神を体験しているのである。そしてプロティノスは、これが霊魂のファイナル・ステージであると認めている。

弟子のポルフィリオスによると、プロティノスは、生涯に4回ほどエクスタシーに入ったと言われる。また肝心の冥想方法については、只管打坐型でなく、クンダリーニ・ヨーガ型のように思われる。というのは、ダイレクトな体外離脱の表現に加え、プロティノス伝の11にあるが、彼を敵視するアレクサンドリア出身のオリュンピオスが魔術でプロティノスを攻撃してきた際に、それを不成功に終わらせたほどの霊能力を有していた模様だからである。

最後の『一切を取り去れ』は、自分と自分の宇宙をすべて捨てなさいということ。



【プロティノス】

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信愛の7つのステージ

2005-07-18 08:04:45 | 現代冥想の到達点
ラーマクリシュナは、神に至る信愛(バクティ・ヨーガ)の七つのステージを説明している。これは、神をひたすらに恋い焦がれている信愛者の道筋であるが、これを見るとイエス・キリストへの、いちずな思いを結実させようとするキリスト者の発達段階も、これに似ているのではないかというような印象を持ってしまう。

1.修行者・霊的な人と交際すること。

2.神への信仰と尊敬の念が生じる。

3.堅信(ニシユタ)。
神以外のことは聞きたくなくなる。神の仕事をしたいと思うようになる。神への信仰が固定する。

4.信愛(バクティ)。
神に専向した強い愛。

5.バヴァ。
神への思いに心は一杯になり、感動のあまり言葉が出て来ない段階。普通の人はここまで。

6.マハー(大)バヴァ。
時々狂人のように笑ったり、泣いたりする。肉欲は完全に克服されて、肉体感覚もない。この段階以上は、通常の人間には到達不能で、偉大なる人(マハー・プルシャ)か、神の化身のみが至り得る。

ラーマクリシュナの言葉
「「私」意識がある間は、その御方は、人格神として現れる。だから「私」がある間は、つまり差異の感じのある間は、ブラフマンが無相・無性だと言っても始まらない。言う資格がないんだ。この段階では有相・有性のブラフマンを認めなければならない。この有性のブラフマンのことをヴェーダやプラーナ、タントラ聖典では、カーリー女神とか、根本造化力(アーデイヤ・シャクティ)と言っているんだ。」

7.聖愛(ブレーマ)。
世俗のことも自己という思いも肉体感覚も一切なくなる。

ラーマクリシュナの言葉
「ブラフマンは、ヴェーダの儀軌をはるかに超越していて、ことばでは、とても説明できるものではない。そこには「私」も「あなた」もないんだ。」

第6ステージは、まだ自分というのがあるので、第五身体のコーザル体以下のレベル。第七ステージは、私とあなたの区別なく、言葉では説明できないので、あきらかにニルヴァーナである。

このように私とあなたの区別がないという体験を共有することで、世界の平和が、初めて可能であることを知ることになるように思う。

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