アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

無意識を操作する

2005-06-30 03:19:07 | 冥想アヴァンギャルド
ユング心理学では、集合的無意識の世界に出現する象徴・元型のパターンを整理して、精神分裂病などの精神疾患の治療に役立てようとした。集合的無意識の世界に出現する象徴のパターンとは、密教で観想する諸神のことでもある。その諸々の神々を意識誘導や薬物で操作しようというのだから、一種の錬金術者みたいなものに思える。

集合的無意識におけるエネルギーの認知の仕方は、様々な性質・姿・形をもった諸神霊と見える人もいれば、十字架とか卍とかシンボリックな図形・図像と見える人もいる。また視覚的には見えず、バイブレーション(波動)として感じられる人もいる。

ユングの、象徴による集合的無意識の操作は、図像やシンボルを中心に、心理操作を図っているが、それは、密教における観想法と軌を一にしているように思える。観想法とは、ある神霊やシンボルやイメージを心の中にありありと思い浮かべ、まるで生き生きと活動しているようなところまで、イメージを深めていくことである。

ユングには、そのつもりはなかったかもしれないが、集合的無意識の象徴を操作するということは、心理を操作するのみならず、現実そのものを操作できる無意識の深層に片足を踏み込んでいると思う。集合的無意識の深層部には、もはや心理現象ではなく、現実に直接干渉していく層があり、これを仏教唯識では、アラヤ識と呼んでいる。

ところが、神なるもの、窮極なるものについての実感なしに、単なる善意とか常識だけの持ち主が、無意識の操作をやることは、中心太陽との合一体験のない師匠クンダリーニ・ヨーガを弟子に教えるようなもので、危険なことだと思う。

キリスト者で時折出る聖痕。手足などにイエスが十字架にかかった際の傷と同じ部位に傷ができること。あれは単純な自己暗示というより、キリスト者と、イエスの同一化が無意識のあるレベルで起きたので、それが自らの肉体に現実化したものであろう。要するに一つの無意識の操作の結果が現実化したと見ることができる。ただし、そこにはイエスとの一体化という特殊な体験が基底にあることが予想されるので、危険なものではないと思う。

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【アッシジのフランチェスコの聖痕/エル・グレコ】



《集合的無意識でTBさせていただきました。》
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バガヴァッド・ギータ-3

2005-06-29 04:49:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎行動の果実を放棄する

行動の果実を放棄することが、宇宙意識から出てくることであると説明するのはやさしい。でも実際にはどうなのか。

このギータでは、行動の果実を放棄することとは、願望を持たず、欲望を捨て、心と肉体を統御し、何物をも所有しないこと、
そして神意によって得るものに満足し、快楽の後の苦痛や損失の後の利益にとらわれず、羨望の心なくして行動することである
と説明している。

イエスは、あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるなと言ったが、それと同じことを述べている。『行動の果実を放棄すること』とは、善を行うことと同じ要領なのである。善行を、その報いを意識することなく行うことを言っている。

そして善行は、自分というものをなくしていく方向の行動である。 そんな人の姿は、正直であり、他人を傷つけず、親切であり、謙遜であり、フランクであり、情熱的である。それぞれの特徴は特に目新しいものではないが、他人を傷つけるのが平気で、うそをつくのが当たり前とされている今の時代では、探し充てるのが難しいタイプの人間像である。

また「行動のすべてがブラーマンへの礼拝である」とは、覚者の行動の特徴である「悪いことをしない。善いことしかしない。(諸悪莫作 衆善奉行)」の姿である。


『行動とは何か。無行動とは何か。賢者でさえこの問題に迷わされる。そこで汝に行動とは何かを語ろう。これを知れば汝はすべての悪を超越するいかなる行動をなすべきか。いかなる行動を避けるべきか、いかにして行動を超越するかを学べ。行動の本質を知ることは難しい。
行動の中に無行動を見る者、無行動の中に行動を見る者こそ本当の賢者である。彼は行動している時もアートマンの静寂を保っている。

欲望や目的を持たずに行動する者
知識の炎で、行動を焼き尽くした者
彼は賢明であると賢者は言う。

行動の果実を捨てた者は
アートマンに満足し
何物をも求めない
しかも行動を超越している

願望を持たず、欲望を捨て
心と肉体を統御し
何物をも所有しない
彼は行動し罪を受けない

神意によって得るものに満足し、
快楽の後の苦痛や
損失の後の利益にとらわれず
羨望の心なくして行動し
その行動に束縛されない。

鎖を打ち破るとき
啓明を得た彼の心は
ブラーマンの中に脈打つ
行動のすべてが
ブラーマンへの礼拝である
このような行動が悪につながることはない。

儀式はブラーマンである
祭祀はブラーマンである
ブラーマンである火の中に
ブラーマンによって捧げられる
行動の中に
ブラーマンを見る者は
ブラーマンのもとにゆく』

バガヴァッド・ギータ4章 知識による放棄から(バガヴァッド・ギータ/熊沢教真訳ヴェーダーンタ文庫より引用)

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バガヴァッド・ギータ-2

2005-06-28 05:07:30 | 冥想アヴァンギャルド
◎修行の方法についての優劣

昨日の記事で修行の方法についての優劣を、クリシュナが、次のとおり説明してきたことを述べた。なぜこのような優劣があるのだろうか。

(1)「形式的な儀式や祈り」より「知識(書物・聖典で宇宙意識・ブラフマンを理解すること)」は優れている。
(2)「冥想」は「知識」より優れている。
(3)「行動の果実を放棄すること」は「冥想」よりもすぐれている。行動の果実を放棄すれば平安が訪れる。

1.「形式的な儀式や祈り」より「知識(書物・聖典で宇宙意識・ブラフママンを理解すること)」が優れている理由。

形式的な儀式や祈りは、単なる習慣であり、いわば何の進歩ももたらさない因習と呼ぶべき物である。精神的な進歩という点で見れば、これは、意識にも、無意識にも作用しない。
これに対して、知識、すなわち宇宙意識(クリシュナ、神、仏、タオ)についての知的理解は、意識への働きかけがある。そしてまた知的理解をきっかけに冥想を行う可能性が生まれるので、その効果は意識のみに留まらないので、知識の方がすぐれている。

2.「知識」より「冥想」が優れている理由。

知識は意識にしか作用しないので、知的理解だけでは、神を見たり神に近づくという無意識の世界におけるイベントは発生しない。
これに対して冥想は、直接無意識に対して働きかけるので、人間の精神的な発達過程の見地からは、より神に接近できる技法といえる。

3.「冥想」よりも、「行動の果実を放棄すること」がすぐれている理由

冥想のたどりつく最終的なステージが、宇宙意識(クリシュナ、神、仏、タオ)であり、宇宙意識にあって、初めて行動の果実を放棄することができるのである。

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バガヴァッド・ギータ-1

2005-06-27 05:27:05 | 冥想アヴァンギャルド
◎献身のヨーガ

バガヴァッド・ギータは、牢獄で生まれた聖者クリシュナと弟子のアルジュナの問答の物語である。
古代インドの詩集だが、信仰のあり方について、全く時代を超えた考え方が開陳されている。

クリシュナはまず、「非顕現なるもの」に帰依することはむずかしいという。つまり、スピリチュアルなものに帰依することはむずかしいと言っている。というのは、肉体の姿をとった魂が非顕現なるものを理解することは非常に困難だから、とクリシュナは、説明している。

クリシュナは引き続き、クリシュナへの帰依を勧めているが、このクリシュナは人格神のクリシュナではなく、根源の神・宇宙意識としてのクリシュナである。だからこそ帰依することを勧めているのである。

クリシュナへの帰依のメニューは、次のとおり
(1)クリシュナに心を集中する。
しかしすべての行動を私に捧げ、私を最高の目標とし、一心に私を冥想し、思考を私に定めて、私を礼拝するものを生死輪廻の大海から、私はすぐに救い出す

私に心を集中せよ、あなたの心を私にゆだねなさい。そうすれば、あなたは今後私に入る。このことに疑いはない。

(2)精神統一を訓練してクリシュナに達する。
(3)クリシュナを喜ばせる仕事に専念すること。クリシュナに奉仕する
(4)クリシュナに身をすべてまかせ、情欲を抑え、行動の結果を放棄せよ。

これは、どの宗教でもよく見られる、絶対者への帰依、最高神への帰依を謳ったものであり、特に目新しいものではない。

注目すべきなのは、修行の方法についての優劣を語っているところである。この部分は、近代的と言っても良いほど、時代を超えたところがあるように思う。

(1)「形式的な儀式や祈り」より「知識(書物・聖典で宇宙意識・ブラフママンを理解すること)」は優れている。
(2)「冥想」は「知識」より優れている。
(3)「行動の果実を放棄すること」は「冥想」よりもすぐれている。行動の果実を放棄すれば平安が訪れる。

ここで、行動の果実を放棄することとは、万物に親しく慈悲深いこと、歓喜や嫉妬、不安や恐怖に動揺しないこと、すべての行動に我欲がないことなどいろいろ説明しているが、要するに、宇宙意識を見るまたは、宇宙意識に合体して帰還した人の姿である「悪いことをしない。良いことをする。(諸悪莫作 衆善奉行)」そのもののことである。

詮じつめれば、形式的な儀式や祈り→知的理解→冥想→行動の果実の放棄となる。

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【ラージプート王のクリシュナ礼拝】


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空海っていいよね-2

2005-06-26 10:59:49 | 冥想アヴァンギャルド
空海の最晩年の著書「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の序にこんなのがある。わりと有名だという人もいますが、空海の著作集を見ない限り、普通は知らないでしょう。

三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し。

あらゆる世界の狂っている人は、自分が狂っていることを知らない。
生きとし生けるもので、眼の見えないものは、自分が眼が見えないことを知らない。
人は何度も生まれるが、生の初めに暗い。
人も何度も死ぬが死の終わりに冥い。


この暗いと冥いは同じなのだろうか。

生の始めに暗いとは、単純に出生後に前世の記憶がすべて無くなるとか、アストラル的な認識能力が無くなってしまうことを暗いと言うとは思えない。
チベット仏教の死のプロセスで言えば、原初の光という宇宙意識(神、仏、大日如来、タオ)の光明を見て、さらに中有から転生の行く先を選んでいくステージがあるが、こういった宇宙意識を知覚・体験していた思い出・感触をすべてなくした無知・デフォルトの状態で生まれることを暗いというのだろう。

死の終わりに冥いとは、宇宙意識の冥さをのぞき込む冥さであり、やや違いがあるように思う。
特殊な冥想体験がなければ、普通の人は、個別の肉体人間であり、労働に一生をささげ、子供を残して、死んでいくという、ただそれだけの個生命の天命・カルマを消化して死んでいく一生が多いであろう。それは、それだけでも美しい人生である。いつの日かカルマを消化しきれば、宇宙意識に到達するファイナル・ステージもあるだろう。

ところが死に臨んで「おれは死にたくない」とか「私はまだ死ねない」など自分が死を迎えることについて、その理不尽さに怒りだす人が多い。これはこれはキュブラー・ロス(死の研究家)も言っている。
そういった人であっても、最後には、自分の死を受け入れる気持になる人が多いそうだ。
自分の死を受け入れる気持とは、人間が肉体だけでなく、魂のような別のもので生きていることを直感し、納得し得た気持のことを言うように思う。
その気分が、「冥い」なのだろうと思う。

こうした生の始めに暗く、また死の終わりに冥い人に、ヒントを与えようというのが、空海の一片のおもいやりである。

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生誕の場所を選ぶ

2005-06-25 07:13:34 | 冥想の準備
最近は、自宅で出産する人も減り、病院や産院で出産する人が増えた。

イエス・キリストは、馬小屋で生まれた。

アッシジのフランチェスコ(中世イタリアの人で、カトリック中興の功労者とも言われる人)の母ピカは、あまりの難産だったので、通りすがりの巡礼者の進めるままに、馬小屋に出産の場所を移した。すると容易に出産できた。

聖徳太子の母后が宮中を巡り、たまたま厩(うまや)の下に至った時に、産気づき、聖徳太子を生んだ。

インド古代の聖者クリシュナは、なんと牢屋の中で生まれた。

聖者が自分の転生プランを選ぶ時に、わざわざこう言う場所を選んでいる意味は、人生のスタートから、人間というものの虚無不条理を味わう生活をしましょうというサインということになろう。

人生にはいろいろな不愉快なことがあり、思いのままにならないことかある。理不尽な目に会わされることがある。そういったことがすべて、人生の真相なのだとして、それを誠実にありのままに見つめていく。

彼ら、聖者候補達は、生誕の瞬間からこうした出産場所を選ぶことにより、必ずや真正の絶望に出会うことを仕組んでいる。そして人生に対する根本的な絶望がなければ、本当の光明に出会うこともないことを知っているがゆえに、片親だったり、粗末な生誕場所という境遇を選んで来るのである。

今の時代は、病院のような立派な設備の整っているところで生まれる人がほとんどだが、出できた社会は、家族の中でも孤独を感じるような、見知らぬ人ばかりなる冷たい世の中。
現代日本では、ほとんどの人間にとって、皆他人のことに無関心で、隔離されたような人間関係から始めなければならないという点では、馬小屋で生まれて、貧しい境遇の生い立ちとなるのと同等の環境なのかもしれない。

ただ現代人は、真正の絶望に出会うほどの情熱と気力を持ち合わせていないとその先には行けない。

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世界は自分のもの気分

2005-06-24 21:52:20 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
英語ですが、googleが世界の衛星地図を、手軽にビンビンみえるようにしちゃいました。
http://maps.google.com/

使い方

1.画面右上の Satelliteという文字をクリック。
2.最初アメリカ合衆国の地図が出るが、無視して、左側の物差しの目盛りを下に下げる。すると日本地図が見えるようになる。
3.日本の上でダブルクリックし、目盛りを少し上にあげて、日本列島だけ見えるようにして、日本の好きなところをダブルクリックする。目盛りを少し上げる。上げると拡大されるので、段々と拡大しつつ、見たい土地をダブルクリックしては、目盛りをあげていく。


東京なんかは一軒毎の屋根がわかるほどです。
ここまで見えてもいいの と言いたい。世界戦争近い???

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犬死に

2005-06-24 05:35:36 | 時代のおわり
◎犬死に
日本には犬死にという言葉がある。

洞山録(禅問答の古典)あたりに、悟りきらないまま死んで行く若い僧侶の話がいくつか出ている。いずれも不気味な雰囲気を漂わせた話になる。
老師が死んだばかりの僧の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するところとか。
要するに老師は、「悟りを得ないまま死んだお前は、犬死にだった」と宣告しているのだ。

犬死にでも、「それでも良いんだ」という状態にならなければいけないということも理解できるが、感情的にはなかなか割り切れるものではない。

かの生き神であった黒住宗忠ですら、最愛の妻が死んだ時には、ショックで気絶した。中心太陽との合一体験のある黒住宗忠にしても、感情の動揺は抑えきれないのである。

黒住宗忠のように中心太陽との合一という窮極の歓喜・法悦・エクスタシーの体験がある人にとっても、最愛の人との別れには、堪えられないほどの悲しみがある。それでも彼は、すべてが神である喜びを知りながら生きているのもまた事実なのである。人間としての限りない喜びと悲しみは、人である以上必ずつきまとうのである。

出口王仁三郎(明治から昭和の教派神道の教祖)だって、自分の子供が死んだ時は慟哭した。弟子に、どうしてそんなに泣くのかと余計なことを訊かれたりしているけれど。

この文明の精神面での使命は、その時代にニルヴァーナ(神、空、涅槃、タオ)に到達した人間を、より沢山輩出することである。

そしてそれを本能的に知っている人が、個人的な使命感として、ニルヴァーナというものを求めていく道に入ることになる。結局それを得ることができずに死ねば、その人にとって犬死にと感じられることになる。

時代的な危機感があるということは、「このままだと犬死にだ。」と本能的に感じている人が多いということなのだろうか。

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自由な時間のあるうちに

2005-06-23 04:53:27 | 冥想の準備
◎自由な時間のあるうちに

洪水や地震などの災害で文化的生活が破壊されれば、炊事、洗濯、掃除等生活のための時間がとてもかかるようになる。炊飯器のない炊飯、洗濯機のない洗濯は、とても時間がかかるものだ。こういった生活は最近では後進国にいかなければ、めったに味わえるものではない。後進国でこういった生活をすれば、自由な時間がとても少ないことに気がつくものだ。

かたや現代の文明都市生活でも自由でひまな時間帯に、冥想しているわけではなく、大多数の人がテレビゲームやインターネットにより、その貴重な時間を浪費している。その結果、文明の利器によって作り出された余暇は、冥想的時間を増加させる結果にはなっていないことがわかる。

明治以前は、市井での冥想修行というのは、まず金と暇がなければできなかったので、お大尽(お金持ち)の変わった趣味の一つであったと言っても過言ではあるまい。要するに文明の利器がない時代に、身の回りの世話をしてくれる人が別にいて、働く必要のない人でないと冥想に打ち込むことはできなかったのだろうと思う。
         
ところが今は、炊飯器、洗濯機や食器洗い器まである時代であり、これでもか、これでもかと、中流の暮らしぶりの人にも、自由な冥想できる時間を提供してくれている。
このように生活時間の配分の点でも、今は冥想をしようと思えば、かなりできる時代のはずである。これを天の配剤と呼ぶべきだろう。

このように文明の進歩とは、人間精神の発達という視点でみれば、いわば万人が冥想するための時間を作り出すためにあったとも言える。
人類の冥想的可能性の前提条件として、こういった冥想のできる時間帯のある平和な時代に、冥想を深めることが現代人の霊的成長に必要であり、その時間は、今、与えられている。

他方そういった生活レベルが脅かされ始めているのもまた事実であり、手軽に冥想ができる時代も終わりが近いのかもしれない。
たとえはこんな感じ。
貯金のない家庭が全体の二割。
離婚率25%。
大学卒業者の就職率55%。
高卒者の就職内定率60%。
25歳までの失業者数約2百万人。

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北欧神話ラグナローク

2005-06-22 04:46:44 | 究極というものの可能性
◎神々の黄昏:火による滅亡

バプテスマのヨハネは、イエスのことを火と霊で洗礼する男だといった。 
火と霊で洗礼されるのが今の時代であるならば、イエスはこの2千年後のために贖罪してくれたことにもなる。

北欧神話のエッダの巫女の予言は、火による世界の滅亡と新時代の到来を告げている。ところが小学生の頃、少年少女世界文学全集の北欧神話を読んだ時の記憶では、最後の新時代の到来のところが書いてないために、全体としては、みじめでかわいそうな神話であり、こんな神話を持つ北欧の人々は気の毒だと思ったことを覚えている。

巫女の予言51.
一艘の舟が東からやって来る。中略。

巫女の予言52.
巨人スルトは南から火の武器を持って攻め寄せ、戦の神々の剣からは太陽がきらめく。岩は崩れ落ち、女巨人は倒れ、人々は冥府への道をたどり、天は裂ける。


巫女の予言57.
太陽は暗く、大地は海に沈み、きらめく星は天から落ちる。煙と火は猛威をふるい、火炎は天をなめる。

巫女の予言59.
海中から、常緑の大地がふたたび浮き上がるのが、わたしには見える。滝はたぎり落ち、鷲は上空を飛び、山に休み魚を狙う。

巫女の予言64.
火から守られた土地(ギムレー)に黄金葺きの館が太陽よりも美しくそびえ立っているのが、わたしには見える。そこには誠実な人々が住み、永遠に幸福な生活をおくる。

東からやって来る舟に乗って、南から攻め寄せる勢力があり、「剣からは太陽がきらめく」とは熱核戦争のことかもしれない。
そして天体の異変と地殻変動(「大地が海に沈み」)があり、火の大災害がある。
常緑の大地が浮上するのは、なんと聖書のヨハネの黙示録と同じモチーフである。

火力文明は、火によって滅び、常緑の大地が浮上し、千年王国が到来するという全体のイメージである。このモチーフは聖書と北欧神話だけでなく、出口王仁三郎も似たものを有している。おそらくは、このモチーフが、世界のメジャーなチャネラーに共通した将来のビジョンではないかと考えられる。

北欧神話では、そのためには、永遠に幸福な生活をおくるに値するほどの、誠実な人であることが要求されると見ているのである。

参考:ヨハネの黙示録
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
また御座から大きな声が叫ぶのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民になり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録でいう「人は神の民になり、神自ら人と共にいまして」とは、人が神と同じレベルになることを言っていると読めるので、神を知り神と同一化する、もはや経験とはよべない冥想体験がどこかの段階であるのだろうと思う。

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オーディンの箴言-4

2005-06-21 06:16:36 | 究極というものの可能性
◎ルーン文字

オーディンの箴言の中で、ルーン文字について語られているものは次のものがある。

箴言80.
お前がルーンのことを訊ねたとき、いと高い神々がつくられ、大賢人(オーディン)が描かれた、神々に由来するもののことが分かった。黙っていればいちばん良かったのに。

この箴言では、ルーン文字は、神々が作ったことがわかる。

箴言139.
わしはパンも角杯も恵んでもらえず、下をうかがった。わしはルーン文字を読み取り、うめきながら読み取り、それから下へ落ちた。

これは、前回言及した箴言138のぶらさがり冥想の続き。「パンも角杯も恵んでもらえず」とは、飲み物や食べ物による余計なエネルギーの供給がない状態で、木の根(オーディン、宇宙意識、神)の方を見ると、ルーン文字が読めた。そして根っこの方へ落ちた。
ここは、ルーンを見た時の冥想状態について述べているように思う。

空海の声字実相義には、声(発音)と文字が明らかであってこそ、真の実在(実相、滅びることのない世界、第六身体・アートマンのこと)を明らかにできるとある。ルーンも同様に滅びることのない神々の世界のシンボルということなので、第六身体に属するシンボルであるように思う。

箴言142.
ルーンをお前は見出すだろう。知恵者が描き、偉大な神が作り、神々のフロプト(オーディンのこと)が彫った占いの棒、すこぶる大きな、すこぶる硬い棒を。

すこぶる硬い棒とは、ルーン文字が彫られた固い棒のイメージ。この固い棒で占うテクニックは、日本にもある。天津金木である。ただし天津金木には、点が穿たれているだけで、ルーン文字が刻まれているわけではない。

近代的な自我確立以前の人類にとっては、こういった棒や筮竹といったもので神意を伺う必要があったのだろう。
今の時代は、棒や筮竹よりも、直接この身体で神意を知る方がアヴァンギャルドなスタイルである。どうしてそういうことができるようになったかと言えば、すこぶる硬い棒の如き自我があることが、古代と現代の違いに見える。

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【ルーンの碑文】

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超古代文明の滅亡

2005-06-20 05:45:37 | 時代のおわり
◎ウイグル文明の滅亡

昨日、沖縄与那国島の海底に超古代文明の城壁が残っているブログの記事があり、思わずコメントしてしまいました。

超古代文明と言えば、アトランティスの滅亡の話は、ニューエイジの人たちが、「私も前世アトランティスだったの。」「僕も!」「ええ?本当、すっごーい」とかっていう会話が飛び交うほど、珍しくないお話になってしまっている。

アトランティスの滅亡は、ちゃんとしたプラトンの記述でも、いつとはわからないが、とりあえず約1万2千年前を有力説としよう。
アトランティスほど有名ではないが、ウイグルの文明も、そこそこ世界的に有力だったのではないかという印象を持っている。

さて、ここのところ北欧神話をやっている関係で、ルーン文字に言及しなければならないと思っていたが、インターネットでルーンを文字を調べていたら、ルーン文字が突厥文字(ウイグル)文字と似ていて、モンゴル高原で多数発見されているということを知り、ルーン文字は、北欧からユーラシアの分布を見ると、実は超古代に、英語みたいな地球全体の支配的な言語だった時期があったのではないかと思った。なおウイグル文明の遺跡は、せいぜい2200年前と見られている。

また別に、インド北部でハラッパ、モヘンジョ・ダロという都市遺跡があって、一部の土壌がガラス化して核爆発の証拠ではないか、核戦争で滅んだのではないか、などと言われていることとをご存じの人も多いと思います。核爆発で滅亡したと思われるのは、トルコのカッパドキア遺跡、その他にロスアンゼルス郊外の死の谷や、ゴビ砂漠の一部などで、同様に土壌のガラス化が見られるそうです。核戦争が同時期に起こったかどうかは定かでないが、現代の様子を見ると核技術が同時代に世界に広まるのはそれほど不合理とも思えない。軍事絡みのハイテク技術の伝播は早い。

一つの文明において、一定の技術的な情報が、数千年間、蓄積されていけば、人間は飛行機や潜水艦を作り出せるレベルに至るのであろう。
問題なのは、人間が機械で空を飛べるようになる時期は、その文明のピークの時期であって、精神性の発達も同時期にあるのではないかということである。
要するに物質文明の発達のピークに対して、その文明の精神性の発達が追いつかなければ、文明は戦争などで巨大破壊されてしまうのではないかということである。

その破壊の痕跡は、神話や伝承の形で部分的に残り、遺跡などでもまた残る。

さてICBM大陸間弾道弾が全世界で、合計2万発もあって、現代文明もまた、1960年代から、それによる滅亡の脅威に、曝されてきている。超古代文明という教訓があるのだという前提に立てば、状況としては、モンゴル高原の滅亡したウイグル文明と同じ危機の状態にあることは間違いない。その危機はもう40年以上前からあったので、特に目新しい事実ではないのであるけれど。

問題なのは、技術的文明の進歩の側でなく、それを人間の精神性がコントロールできるレベルに発達できるかどうか、という一点にある。精神性の発達とは、おそらくは、個人という狭い人間意識を超えた新たな意識の地平に至ることであると思う。それに至る手段は、あらゆる形式での冥想による。

突厥文字のサイト
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/index.htm
ルーン文字のサイト
http://www.runsten.info/runes/index.html

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オーディンの箴言-3

2005-06-19 08:57:55 | 究極というものの可能性
◎絶対者(神)の側から見た風景

箴言138.
わしは、風の吹きさらす樹に、九日間の間、槍に傷つき、オーディン、つまりわし自身に我が身を犠牲に捧げて、誰もどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。

九は数の窮極であり、「九日間」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。時間を超えた世界であるから、第五身体であるコーザル体以上のレベルの世界のこと。

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

「我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない絶対者(神、中心太陽、オーディン)のレベルに至っていること。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者(神、中心太陽、オーディン)のこと。絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

このようにこの箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(神、中心太陽、オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、エネルギー・コード(クンダリーニ)にぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

おや、この風景はいつもおなじみのタロットカードの「吊るされた男」で見かける風景ですね。意外なことに、タロットには、北欧系の霊的・集合意識的なビジョンがあったのですね。絶対者の側から見た風景にもお国ぶりがあるということでしょうか。

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【吊るされた男】


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オーディンの箴言-2

2005-06-18 06:05:25 | 究極というものの可能性
◎オーディンの恋愛指南

北欧神話のオーディンも人の子、恋愛の手練手管を教えてくれている。オーディンは、老子と違って、女性の気持のわかる繊細さを持ち合わせてくれている。きっといい男だ。

これだけ人間関係がぎすぎすした世の中だと、恋愛は、人と人とが信じ合えるという、とても美しいビジョンを見せてくれる分、引きつけられるものがある。人に受け入れてもらえる感動と安定感は、神に受け入れてもらえる感動に似た印象がある。

若い時は、何はさておき、恋愛の時期がある。そして恋愛の高揚感は、軽いトランスとでもいうべき一種の冥想体験のようなものでもある。
(トランス:催眠術・薬物などにより意識レベルが低下して、判断力などが低くなる状態)

また神話や歴史で見ると、神々の世界のもめ事の始まりも王侯同士のもめ事の始まりも、不倫などの恋愛問題から始まることが少なくない。恋愛の問題は、意外に大事になりがちなことを、オーディンも承知して、わざわざ言及しているようだ。

箴言90.不実な女の愛というものは、元気のいい二歳駒の人に馴れぬのを、つるつる氷の上で滑り止めもつけずに乗り廻すようなものだ。また、舵の無い舟で強風の中をいくようなものだ。また、雪融けの山で、びっこに素手で馴鹿を捕まえさすようなものだ。

箴言91.わしは男も女も知っているゆえに、ざっくばらんに語ろう。男の女にたいする心は移り気なものだ。不実な心を抱きながら、われわれは口先だけきれいなことを言う。それで賢い人の心も騙される。

箴言92.女の愛を得んとするものは、きれいごとをいって贈り物をし、女の美しさをほめよ。お世辞を言うものは首尾よく行く。

箴言93.他人が恋するからといってとがめてはならぬ。馬鹿げたことには手を出さぬ賢い男でも、欲望をそそる美貌に手もなくとりこになることは多い。

箴言94.多くの人にふりかかることで、人をとがめてはならぬ。人の子にあっては、燃え盛る恋心が賢いものを愚か者に変える。

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オーディンの箴言-1

2005-06-17 05:29:51 | 究極というものの可能性
◎オーディンの箴言

古代北欧にも、オーディンという覚者がいた。
オーディンは、ギリシャ神話でいえば主宰神のゼウスのようなものだが、北欧神話のエッダに、オーディンの箴言という自らの言葉が残っているところが違う。ゼウスの箴言というのはないでしょう。

オーディンの箴言は、見たところ日常生活に即した、下世話な教訓集のように読めるところが落とし穴だが、オーディンのことだから、下世話な教訓集を残すはずもない。

オーディンの箴言も、老子81巻のように、政治哲学評論のような体裁をとっているが、その実は窮極の冥想体験を、平易な表現の奥に隠しているものだと考えられる。


箴言8.人の称賛と好意をうる者は幸せだ。他人の心の中に見つける知恵は頼りにならぬ。

箴言9.生きている間に、称賛と分別を手に入れる者はしあわせだ。他人の心からは、よからぬ忠告を受けることが多いものだから。

(この2条でいう「他人の心」とは、外から入って来るあらゆる教義や思想のことを言っている。外から入ってくる情報というものは、結局、人生行路や冥想過程の中での、本当のぎりぎりのところでは役に立たないことを言っていると読む。

「生きている間に、称賛と分別を手に入れる」とは、生きている間に、自ら神を知ることで、あらゆる生き物からの称賛と窮極の智慧を手に入れるべきであること。)

箴言10.もって出かけるのに、すぐれた分別にまさる荷物はない。これは、見知らぬ国では、財産より役に立つように思う。これは、みじめな者を守る鎧だ。

箴言11.もって出かけるのに、すぐれた分別にまさる荷物はない。麦酒の飲みすぎより悪い糧食を選ぶな。

(この2条でいう「すぐれた分別」とは、窮極の冥想体験で得られる智慧であり、アジナー・チャクラ属性のことを言う。見知らぬ国とは、クンダリーニ覚醒プロセスなどの中で、世界全体が全く見知らぬものになる実感のレベルがあるが、そのことを見知らぬ国と呼ぶように思う。

全く見知らぬ世界に入り込み、そこで智慧がなければ、発狂や自殺に追い込まれてしまうことが容易に想像される。そんな世界では、智慧が、なさけない自分を守る唯一の鎧となる。
悪い糧食とは、誤った先入観念のこと。誤った先入観念で、冥想修行の異次元の旅に進むことは、ビールの飲み過ぎよりもはるかに危険だと言っていると思う。)

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