アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

神様は白ひげの老人ではない!

2005-02-28 21:39:36 | 冥想の準備
神とか精神的なものをほとんど学校で教えていないため、神が白いひげの老人だ程度に思っている人も少なくないだろう。

神にも人格神と非人格神という区分があるが、エホバとかアラー、天の御中主(アメノミナカヌシ)、大日如来(中心太陽)とかは、非人格神で、それは、宇宙意識(第七身体)の仮の呼び名。
人格神というのは、アポロンとか、アテナとかのことで、天地創造と破壊とか普遍的ドラマが行われている(第六身体・神霊界)のレベルにある真の実在のこと。唯一神ではなく、複数の人格神の原型の世界

神様が白い髭の老人だと思って、子供から段々大きくなっていきます。そのうちに、自分が本当に困っているのに、助けてくれない場合が出てきて、これまで白ひげの人が神だと思っていたけれど、実は神って何だろうと考え始めるわけです。
神へのアプローチなどと言っても当面必要性を感じていなければ、関心は引かないけれど受験の頃から気になってくる人が多いと思います。
でもメジャーな宗教ほど金がかかるから、そういう宗教にかかわりあうのも面倒なので通常は、関心を持たない人が多い。でもこれだけ不況が深刻だと、結構多くの人が実は心理的にはかなり行き詰まっているので、ちょっとは気になっていると思います。

まず神様が劇的に助けてくれなくても、とりあえず元気になるとか、気分が晴れるとかが沢山の人の当面するニーズなのかなと思います。けれど、たらふく食べてもあまり元気が出ないこともありますから、冥想は、お金のかからない、イージーな方法です。只で元気が出る。こんないいことはない。

神様はいろいろなむずかしい「おしえ」を勉強した先にあるのではなく、単純な冥想をする先にいるのです。そして神様に近づくには金がかかりません。

たとえば、なむあみだぶつと1回唱えると3円かかるというようなことは絶対ありません。メジャーな宗教教団に入るといろいろあるようですが、自分だけで冥想する分には金はかかりません。
でもこれだけ世間にはびこるマルチ商法や詐欺まがい商法を見ると、「一切無料とか、激安」が決まり文句である時代にやや複雑な気持ちです。

ただ、クンダリーニ・ヨーガ只管打坐は、師匠につかないと危ないので、師匠への謝礼は絶対に必要となりますから、お金かかります。念のため。
でも万一その師匠ががめつい人でしたらその人は間違いなく、にせもの。また、次の冥想レベルに行くために金が要るなどということはない。それから推薦図書はあると思いますが、べつに読もうが読むまいが冥想の進歩には関係ないはず。読んだほうが知的理解は深まるけれど。

というわけで、神(宇宙意識・第七身体)に逢う道は、クンダリーニ・ヨーガと只管打坐が近いと思われる(他の冥想法でも会えます)が、普通は冥想を初めてもすぐに神に会えるようなことはまれでしょうから、それ以外の冥想方法を先にやってみるのも良いのではないでしょうか。慣れてきて、クンダリーニ・ヨーガと只管打坐に行きたくなって、かつ師匠も見つかったら、そっちへ行けば良い。

首尾よく神に会っても、白髭のおじいさんが、白い服で登場するわけであはありません。(当ブログの現代冥想の到達点を見て下さい。)

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冥想の準備-1

2005-02-28 05:34:01 | 冥想の準備
冥想の準備

冥想を始めるに当たって守るべき基本的な準備がある。

1.柔軟体操
肉体の柔軟性への配慮がなければ、神経衰弱等に起因する病気にかかりやすい。
次のようなものであなたがそれをすることにより調子が良いと思うものを行う。

  ⑴ラジオ体操
  ⑵太極拳
  ⑶八段錦(太極拳の一種)
  ⑷ハタ・ヨーガ
   通常10種類程度のアサナで十分。
    屍アサナ、前屈、コブラ、魚、ねじり、弓、
首立ち、スキなど。
  ⑸インディアン体操
  ⑹その他

2.食事・嗜好品
  禁酒、禁煙、禁肉(菜食)等それをすることにより、あなたが調子が良いと思うもの。

3.呼吸法
⑴基本呼吸
十分にからだを柔軟にして、姿勢を気にすることなく、鼻から一杯に大気を吸い込む、大気が一杯に体に充満したら、そのまましばらく呼吸を止めて、全身の力をすべて抜き、心を気海丹田の中心に置く。
それから大気を口からどこまでも眺めるようなつもりで吐き出す。しみじみと、静かに、完全に身体の中の大気がからになるまで吐き出すのである。

完全呼吸
ハタ・ヨーガの完全呼吸と同じ。
静かに鼻から一杯に大気を吸い込み、しばらく止めて、
また静かに鼻から出して行く。

片鼻呼吸
ハタ・ヨーガにおけるイダー・ピンガラーの呼吸法と同じもの。
特に心境が既に静かなるときに行うのは良い。

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マントラ禅-2

2005-02-27 16:05:35 | マントラ禅(冥想法7)
⑶マントラ禅のやり方
マントラを全身全霊でひたすら繰り返し、自分のすべてを捧げるつもりで、マントラそのものに成りきる。自分を投げ出して一心不乱に発声(または心の中で念じ)し続け、そのマントラに自分を溶け込ませる。
そして自然に念唱が止まるまで続ける。

⑷マントラ・シッディ
マントラ禅の極致であるマントラ・シッディにおいて、心身のエクスタシーを伴う場合がある。

天台宗の比叡山延暦寺の修行は見仏発得(けんぶつほっとく)、すなわち仏の姿を実際に眼前に見ることを最終的な目標の一つにしているが、一遍(13世紀の坊さん)の播州法語集に「称名の外に見仏を求むべからず 称名即真実の見仏なり」とあり、一遍は、(あらゆる教義を抜きにして、)南無阿弥陀仏の他に最終目標を求めるべきでない。南無阿弥陀仏こそが真実の最終目標であると言っている。

となふれば 仏もわれもなかりけり 
南無阿弥陀仏 なむあみだ佛 (一遍)

⑸近所迷惑
日本の狭い住宅事情では、大声を上げて、延々と「ムー」「ムー」「ムー」「ムー」「ムー」なんてやっていると、怒鳴り込まれたり、通報されたりすることがありますので、やむなく「心の中で唱えたり」するしかない場合があります。くじけずに頑張りましょう。

精神的なものに無理解な日本社会・・・・。

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マントラ禅-1

2005-02-27 11:33:36 | マントラ禅(冥想法7)
2.虚無感からの脱出
⑴マントラ禅
マントラ禅とは、インドの冥想の分類では、もともとマントラ・ヨーガとして知られていたもの。
マントラ(真言)とはチャクラを刺激する言葉のこと。もともとは、チャクラを体感している人が、チャクラを刺激するために使用していたのだが、これだけ言葉が氾濫する現代では、その効果は、ストレスを軽減する程度でしかない。言葉というものが少ない古代においてはマントラは効果大であったはずだが。

マントラそのものの種類は、マントラ禅の効果とは無関係である。なぜならば、マントラそのものに成りきり、溶け込んだ時、その真心、信頼、誠意(バクティ、大慈大悲)が、心身の浄化・調整、生命力の活発化、感情の安定をもたらすというメカニズムであるからである。

ただし、自分の個人利益のために唱えた時は、それはマントラ禅ではなく、冥想手法1のイメージ・トレーニングである。マントラ禅の効果はない。

⑵マントラの種類
次のものから自分にフィットするものを一つ選ぶ。 
  ①ムー
  ②何もかもなし
  ③ニルヴァーナ
  ④オーム
  ⑤神  (または)神様
  ⑥ラーム
  ⑦南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
  ⑧南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)  
  ⑨(読経)=(お経をよむこと)
  ⑩アーメン
  ⑪(主の祈り)(キリスト教)
  ⑫(祝詞)(のりと)
  ⑬なんでも(『メール』でも、『サプリ』とか『さんま』とか
   でも何でも自分にフィットするものならOK)

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ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)-2

2005-02-27 06:44:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
ソーマヨーガとは、
薬草などのソーマを服用することによって意識変容を引き起し、人間の可能性を気づかせるきっかけとするもの。
薬物中毒になってしまえば、社会生活はほぼ不可能となることから、古来この手法を積極的に勧める人は少ないし、歴代政府も禁止してきている。

意識変容を求めて、ソーマ(ドラッグ)を服用するとしても、ドラッグの効果によるハイは、切れれば元の木阿弥だ。情けない自分からは開放されることはない。
知覚変容をもたらすドラッグを服用したとしても、万人が高いレベルの意識変容を起こすわけではなく、単に個人的な潜在意識が表面に現れてくることが多い。たとえば暴力的な人 がドラッグを服用しても、その暴力的な潜在意識に対応して、乱暴な行動をするだけなのである。

ソーマは、絶対というというのをものを見るまでは、絶対へのきっかけに過ぎないが、絶対を見た者にとっては、その絶対を維持する媒介として機能することがある。たとえば19世紀インドの聖者ラーマクリシュナは、母としての神との一体化を頻繁に経験して有名であるが、その写真のその面貌から、大麻の常用の気配があると言う人もいる。
またカルロス・カスタネダのドンファンシリーズ(メキシコのヤキ・インディアンのクンダリーニ・ヨーガ系の修行を文化人類学者が体験した話)では、ペヨーテ・サボテンの服用が別の(意識)世界への扉となっている。もともと向精神性の薬草(キノコ、サボテン、薬草等)は、古代社会や未開社会において、神官やシャーマンが『神』の声を聞いたり、『神』に出会うために服用してきたことが知られており、ラーマクリシュナのケースが本当であったとしても歴史的には特異なケースではないのである。(写真はラーマクリシュナ)

現代社会にマッチしたソーマ・ヨーガのあり方というものを考えると、まずは窮極というものに触れる体験をして、その後にその高い状態に容易に入っていく導入剤としてソーマ(ドラッグ)を使用していくしかないように思う。つまり絶対というものに触れることによりその行動は善的なものに限定されることから、ソーマ(ドラッグ)を服用しても、社会に対して有害な行動は発生しないからである。

それであっても違法な薬物を使用するという法的事実は残っていくので、遠い道のりではあるが、ソーマ(ドラッグ)の正しいあり方について社会的なコンセンサスを得ていくしかあるまい。
しかし現実には、ドラッグ乱用による問題の方がはるかに深刻なので、こういった議論を冷静に展開できる状況であるとは思えない。

次のソーマの歌は、絶対を体感した後の者の歌である。

リグ・ベーダのソーマの歌:

『尽きせぬ光明のあるところ、太陽の置かれし世界、そこに我を置け、ソーマよ。老いることなく滅ぶことなき世界に』

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占星術-3

2005-02-26 12:17:17 | 占星術  (冥想法6)
⑶占星術の技法で過去失われてきたもの
占星術の起源はカルデアだインドだと議論がある。

占星術で最も失われた部分というのは、現実という多様な事象を区分して、例えば12の室に持ってくる時にはなぜどのような理屈で1から12までの室にその意味・事象を配したかという部分である。
同様に10の星の意味もどこからやってその意味を引っぱってきたのかという部分である。

易であれば、説卦伝にその理論的な部分の根幹の説明がなされているのに対し、西洋型の占星術にはそのような説明のあるものは伝わっていない。
室の意味などは、犯罪者捜査で使うプロファイルとオーバーラップする部分が相当あり、『使える』理論であることは、現代に至って証明された格好である。
しかし多様な事象から天体のシンボルに落としていく肝心の根幹部分が判明しなければ、『判じ物』を超えることはできないであろう。

例えば紫薇斗数などは、完全に恒星主体の星占いであり、西洋占星術型の惑星重視のものとは趣を異にするが、恒星主体のものですらある程度使用に堪えるところをみると実は惑星主体型の占いというのは、本来あったはずのノウハウの半分しか使えていなかったようにも思える。

二十八宿は月重視型だが、これも使われているのは極く一部と見える。

現代の占星術師の過去の本物の占星術師と比べてのもう一つの問題点は、肉眼や望遠鏡で天体を見ないで占いをしていることである。しばしば惑星の位置が天文歴で予想された位置とずれている。また紙の上のホロスコープに現れるのは、天体全体のごく一部であり、個別の星の意味の軽重はあるが、その一部で占っており、空を見れば多数の星で、惑星がすべてではないことは一目瞭然である。

見上げた星をきっかけとして、(自らの)集合的無意識をのぞき込み、それと多様な現実事象をつなぐ。それが現代占星学の課題であろう。
それはパラケルスス的な『占星学の星とは、星は天球を回る星ではなく、自分の内面の星である』という見方が一つの鍵になろう。

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占星術-2

2005-02-26 12:03:53 | 占星術  (冥想法6)
⑵アカシックレコード
アカシック・レコードが読めるのはコーザル体レベルである。アカシックレコードは、トランス状態でたくさんの予言を行ったエドガー・ケーシーがアカシック・レコードと呼ばれる未来の記録にたどりつき、それを読んだとして有名になった。

明治から昭和にかけて活躍した宗教家出口王仁三郎は、『肉体に未来予知の道具のすべてが具わっている』と喝破したが、そうであれは改めて占星術のような技法は不要なのに今なぜ必要なのか。

現代人の進化のテーマというのが社会性と肉体人間の超克ということにあるので、社会性を備えた肉体人間が宇宙意識探求に飛び出そうとした場合、その発射台としては、冥想の習慣のない人であっても、占星術というのが現代人の客観性という見方からして科学的な理解を助けるからである。

アカシックレコードを読み解くことができれば、わざわざ星をならべる必要はないのだ。アカシックレコードが読めれば、占星術なんぞは不要で、そのものずばりの未来がわかることになる。

とはいえそんなにアカシックレコードが読める人がいるわけではない。

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占星術-1

2005-02-26 11:52:20 | 占星術  (冥想法6)
⑴処世術に非ざる占星術
占星術というのは、修行の手法ではない。開運という現実世界での功利的な成功を目指す動機で利用するのが一般的だが、基本的には自分のカルマを明らかにすることによって自己の使命を全うするための技法である。自分で星を並べて、自分の運命を考えるという作業が、自分の内面の深い部分に触れていく。それが一つの冥想と言えなくもない。

禅に不昧因果という言葉があるが、くらまない因果(ごまかしのきかない宿命)の中でより自分らしく生きることが自分の一回きりの人生を悔いなく生きる方法であることは間違いない。

自己の使命というのは、現代人にとってはおよそ縁遠い言葉のひとつである。しかし自己の使命を知るということが、テレビ漬けで育った半分テレビ洗脳された人々に対して、より人間らしく生きる第一歩と思う。

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ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)-1

2005-02-26 11:38:13 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
カーマ・ヨーガ(性愛冥想)は難しいが、ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)はもっと落とし穴だらけ。
簡単に社会生活を送れなくなる危険性はソーマ・ヨーガが最大である。


果てしなく 吹き荒れる嵐のごとく

それが私の眼を目覚ましめた

私はソーマを飲んだのか

LSDやシロシビンやマリファナやメスカリンが、日常意識からジャンプアウトさせることは事実だが、そうかといってそれらの薬物が、常に宇宙意識(ヨーガでいう窮極)を開いてみせるものではない。
幻覚薬物を服用して絶対なるものに出会うということは、極めて稀なことであることには変わりはない。金鉱山を歩いても金塊を見つけることはそれほど簡単ではないように。


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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)-5

2005-02-26 10:39:20 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
(1.現世的欲望充足)
⑷カーマ・ヨーガ(性愛冥想)
⑤男性側の冥想法
セックスはほとんど肉体だけのものだというのが、昨今の風潮であるが、実際は心理レベル、潜在レベル(アストラル体、メンタル体、コーザル体)、実在レベルの法則で支配されている。勃起は随意筋ではないし、女性のオルガスムスは心理状態・精神状態に多く作用される。
射精をしたことのない男性はほとんどいないだろうが、オルガスムスを経験したことのない女性はかなりいるのではなかろうか。
その事から見ても、性的オルガスムスにおいて男性の場合は、肉体的物理的な比重が高く、女性の方が心理的精神的なものの影響が大きいことがわかる。そして男のセックスの快楽は自我をできるだけ保つことで成立するのに対し、女性のそれは脱我的感性的である。女性はある意味で局部的とも言える性愛的忘我の中に満足しきることができるのである。

したがって男性と女性のどちらがより究極の宇宙意識に向けた修行者が多いかというと圧倒的に男性の方が多いのである。自我を保ったままの男性の快楽は、どうしても物足りなさが残るものであるから、いわば必然的にその支配的傾向の延長線上に、コズミックコンシャスネス(宇宙意識=ニルヴァーナ)探求者が続々と出現することになるのである。
性愛冥想はその意味で男性側の冥想法であると言えるのだ。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)-4

2005-02-26 08:00:09 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
(1.現世的欲望充足)
⑷カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

④相手探し
人間に、本質的な霊的な渇望としての異性との相性を自覚させるものは孤独である。
どんな人間でもその人がもともと持っている原型的異性のイメージがある。人はそのイメージに合あわない異性との性愛にはいつまでも堪えることはできないようにできている。
したがって性愛冥想では、まずそういったイメージどおりの異性が必要不可欠となる。しかし自分が持っている原型的イメージとはどういう異性かを知らないで、その異性を探し出すことはできない。まずそのイメージを知るのが先決。その原型的異性を知るためには、冥想による意識の深化がなければならないのである。
もちろん冥想を別にして、直感的にそれを知っている人はいるだろうが。ただ知っているだけでは、冥想に展開することはない。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)-3

2005-02-26 07:57:07 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
(1.現世的欲望充足)
⑷カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

③ポイント
人間は肉体レベル、心理レベル、潜在レベル(アストラル体、メンタル体、コーザル体)、実在レベルの四層で同時に性愛を行う。
性愛冥想では、行為の後のエネルギーの流れの中での冥想にポイントがあるのであって、カーマ・スートラ(インドの聖典)とか四十八手などのどういう格好でどうしたというのは性愛冥想とは関係がない。実は肉体を媒介としないエクスタシーさえ可能なのだから。

誰かを愛していると信じ込んでも、それは『愛』ではない。それは『愛』というものが、昼メロレベルの『好きだ嫌いだ』の愛ではなく、言葉としては『大慈大悲』(大いなるあらゆるものに対するいとおしさ,底しれぬ生命の絶望と悲しみ)という人間の感情に属するものではないものだからである。『愛』に触れるには、個人としての人間を超えて行けるタイプの冥想によらねばむずかしい。
『愛』を知って初めて、人は本当の愛人を愛し、性愛の喜びを享受できる。ところが一般には既に『愛』を知っている人はまれであるから、さまざまな試行錯誤から性愛冥想に入っていくことになる。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)-2

2005-02-26 07:54:29 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
(1.現世的欲望充足)
⑷カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

②危険性
性愛冥想は、薬物による冥想と並んで危険なものである。セックスが肉体の感覚刺激という面を持っているがゆえになおさらである。

それは、人を絶対的な実在のもとに誘うことなく、次元の低い乱痴気エネルギーの狂乱と暴走に終わることが多いからである。性愛冥想の修行と称してミイラとりがミイラになって終わった例は、立川邪教を始めとしていくらでもあろう。現代ではエイズの問題もある。
しかしながら、道教の仙道房中術での三峰派や、インドのカーマ・ヨーガ、チベット密教等性愛冥想は東洋各地に分布していることからそのエネルギー利用の有効性は広く知られていたと言える。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)-1

2005-02-26 07:52:40 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)
(1.現世的欲望充足)
⑷カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

①男女の問題
人間にとっては、死の問題の次は男女の問題が重要な課題である。
現世的欲望実現という側面では内分泌腺とエーテル体を活発にするというだけだが、それだけではない。人間は本来、悪習慣的な恋愛悲喜劇を繰り返すことを超えて、何の恐れもなく性愛冥想を生きられるものなのである。

明治時代の剣客山岡鉄舟もアッシジのフランチェスコ(1182年 - 1226年、清貧を説いた イタリアの聖人)もみんな若いときに放蕩だった。山岡鉄舟は庭の樹を見ているときに色情の迷いから覚め、アッシジのフランチェスコはカトリック中興者とも言われるほどに抜けたけれど。

でも釈迦やキリストもその困難さから性愛冥想の道を拒んだという話もあるほど難しい道である。

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ハタ・ヨーガ

2005-02-25 06:00:29 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
(1.現世的欲望充足)
⑶ハタヨーガ
肉体のヨーガ。多くのアサナとプラーナヤーマとムドラーによって、感受性と肉体の柔軟性を実現することにより、肉体の健康を実現し、それを土台にして、宇宙意識を実現しようとするもの。
ハタヨーガによる完璧な肉体の実現には、一生では不足であるといわれることが多い。転生を繰り返してもハタヨーガによる完璧な肉体を求めるのであろうが、それが実現する頃には、現代生活に必要な強固な自我意識や生存本能が弱まっているかもしれない。そしてハタヨーガ専一で修行する場合は、生活全般にわたるものとなるため、命懸けで取り組むことを求められる。

他の長時間の冥想にあっては、魔境の発生を減らしたり、病気になったりすることがあるため、食物により発生する体内のガス抜きや、代謝の活発化のためにハタ・ヨーガを補助的に行うことが有効である。

※魔境:
眼前に巨大な猫が出現して消えないとか、まぶしい巨大な光が見えたとか一種の変性意識状態で、冥想のトランス状態を妨げるもの。
明らかにネガティブなイメージであれば魔境と判別しやすいが、恍惚として気持ちよく快適な感覚を味わったとか、イエス・キリストの姿が現れたとか、クリアーな光が見えたとか、見た目肯定的なものについては、魔境かどうか判別しにくいところが問題となる。

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