アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

イエスが弟子の足を洗う

2005-10-26 05:50:47 | キリスト者の秘蹟
一個人が救世主並みの覚醒を得ることは、最後の晩餐の食事の途中で、イエス・キリストが弟子の足を洗った事蹟に、そのひとつのサインを認められる。
この事蹟は、キリスト教では伝統的にイエスが弟子の足を洗うように自分を低くして、本当の奉仕の気持をもつことというのが、伝統的な解釈である。

しかし素直に見てみれば、イエスは、弟子の神性を見たからこそ、足を洗ったのではないだろうか。そして単に神性を認めただけならば、礼拝をするに留まったのではないか。足を洗うというのは、当時は奴隷の仕事であったそうなので、礼拝だけではなく、足を洗うというのは、ひれ伏して自分より高いものであることを認めている心情がうかがえる。

聖三位一体の教義では、イエスの高みはこの上なきものであるから、人間としてそれ以上のものはない。イエスが足を洗うとすれば、父なる神に対して洗うことしか論理的にはないのであるから、弟子を父なる神の現れとして洗ったということになろう。

当時の十二使徒の実力は全くイエスに及ばなかったにも関わらず、イエスは、「イエスを遣わした父なる神の顕れである彼ら」を見て、足を洗ってみせたと考えられるのである。そしてお互いに足を洗うべきであると述べ、それぞれが神の顕れだから対等であると示唆している。

イエスは、この夜「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言っている。既に事が起こりそうな気配があるが、我々はまだ信じていないのである。

そしてイエスは、最後の審判の時代が、まるで明日にでも起こるように思って幻視した(現在でも、その様を幻視した人はショックを受けるようだ。)。ところが、最後の審判の時代は現代のことのようだ。ということは、今の時代は、大工の救世主(アヴァターラ)が一人で頑張って、どうにかなる時代ではなく、一人一人が神の顕れであると自覚して覚醒しないと、どうにもならない時代であることと示唆しているように思う。

キリスト教は、現代を席巻している近代西欧文明のバックボーンである。20世紀になってニューエイジということが叫ばれているが、それは、水瓶座の時代であることを強く意識した運動である。水瓶座は、多くの個人が続々と覚醒することをイメージしているが、そのイメージは2千年前の最後の晩餐に既に伏線があったと考えられる。

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【最後の晩餐/バッサーノ】




ヨハネによる福音書第13章
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

シモン・ペテロのところに来ると、ペテロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペテロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペテロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。

事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


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