アヴァンギャルド精神世界

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チョー・オユーの巨大落石をかわす

2010-10-02 07:00:07 | 究極というものの可能性
◎最後の瞬間に正確に判断できるか

チョー・オユーはヒマラヤにある世界第6位の高峰。

 日本人初の8000メートル峰全14座の踏破に向け、2010年9月30日、竹内洋岳さんは、13座目のチョーオユー(8201メートル)を、雪崩のため登頂を断念した。第2キャンプ(7100メートル)からアタックし、7700メートル地点まで達したが、雪崩でルートが荒れており、さらに雪崩の危険があるため断念したという。

登山家ラインホルト・メスナーは、チョー・オユーの7000メートルから7400メートルの南東壁の氷の斜面で巨大落石に遭遇した。

彼がこの岸壁の最後の岩場にさしかかると、突然テーブル大の岩塊が岸壁からはずれて落ちるのが見えた。

『岩塊は、最初は滑り落ちたが、やがて2回、3回大きく空中を跳ね飛ぶと、ハンスのそばをかすめてぼくを目指してやってくる。まるで催眠術にかけられたようにこの出来事を眺めていたが、ザイルにしばられているので動きがとれない。いざという瞬間にナイフでザイルを切ることも無理だろう。それほどすさまじい勢いで石はまっしぐらにぼくの方へやってくるのだ。

まるで死刑を宣告された者のように、石が頭上近くにくるまで待ちかまえると、最後の瞬間にはじめて身を翻した。
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岩塊はぼくのからだから数センチも離れないところを、唸りを生じて落下すると、何分かの後には谷底の、岸壁の裾にある大きな氷河のなかに消え去った。

ずっと下のほうを登って資材を運び上げていたパウル・ハニーも、ぼく同様、金しばりにあったように石をじっと凝視した。全精神力でぼくからこの石をそらそうとしているようだった。危険が過ぎ去るとかれは大きく息をはいたが、ぼく自身も同様、怖ろしさのあまり顔面蒼白だった。

チョー・オユーでのこの瞬間は、あとになって初めてとても危険なことだった、という実感が湧いてきた。いま振り返ってみると、この岩塊は再びぼくの心眼のなかにはっきりと姿を現してくる。どのようにして外れ、どのようにぼくをめがけてやってくるかが見えるようだった。

あのときは、まさしく身をかわせるように、最後の瞬間まで待機する以外に生き延びるチャンスはないと思ったのだ。

石がどの方向に落ちてくるかは、この最後の瞬間に正確に判断できるものである。正確な瞬間に唯一無二のよけ方ができるかどうかが、生と死を分けるのである。』
(生きた、還った/ラインホルト・メスナー/東京新聞出版局から引用)

金縛りにあったように動けなくなり、意識的か無意識的かわからないが、最後の瞬間を待つということに追い込まれて、最後に身をかわした。

最後の瞬間にならないと全貌を見たり、感じたりすることはできないものだから、メスナーは、『最後の瞬間に正確に判断できる』と断言するのだろう。最後の瞬間もいまここだが、そこには最後はない。

そこにはある種の冷静さ、落ち着きがいる。あたふたしては、迫る岩塊も見えないだろう。メスナーは、よく正しい洞察、正しい判断というが、そのためには冷静さがなければならない。

アヴィラのテレサみたいに、何かものすごい神秘体験が起こっても、起こったが何が起こったかはよくわからなかった原因というのは、魂の成熟度に帰することもできることもできるが、冷静さ、落ち着きという観点から量ることもできるように思う。

しかしながら、見ている自分を最後まで捨てないというのは、神人合一では、コンプリートを妨げることとして評価されるところもあり、冷静さといってもその意味は単純ではない。






悟りとは何か

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1 コメント

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Unknown (gb10)
2010-10-11 15:10:15
このような巨大落石や命に関わるような事でないにしても
全身を萎縮させて、全精神力をそこに向けてしまうような
経験を持っている人は多いのではないかと思いますが
こういった体験を回避させようとする時代の向きとは
人間の潜在的な能力を退化させるものであると思います。

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