アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

道元のアウトライン

2013-04-14 06:10:31 | シャンバラ
◎身心脱落とは、感覚も精神の働きもないこと

世俗の目で見れば、超能力をひらけらかさない覚者が只管打坐での覚者、超能力を隠さない覚者がクンダリーニ・ヨーガでの覚者。

只管打坐での悟りが身心脱落である。道元による身心脱落の説明では、「身心脱落とは、感覚も精神の働きもないことである(声色倶に非なり)。こうなってしまうと悟りもない状態である。またそれは迷いもない状態である(箇中に悟りなし、何れのところにか迷いを著けん。)。」

このようにニルヴァーナもマーヤ(無明)もない状態であると譬えるが、道元は最初から只管打坐修行をしていたわけでなく、かの栄西に最初に出会ったときですら只管打坐していたかどうか定かでない。しかし結局彼は天童如浄との出会いにより、只管打坐を選び取って日本に帰国する。

道元の意義は、只管打坐で一宗派を建て、江戸時代と戦前に体制側の支持を得たことで只管打坐メソッドを現代にまで伝承しえたことだと思う。

道元が天童山で修行していた当時ですら、悟る者は1000人中1、2名。昔はそうだったかもしれないし、僧妻帯以後の今はもっと少ないかもしれない。

悟っていない者でも坐禅していればその姿が悟りだという説明は、悟った者がそれを語れば正しいが、悟っていない者がそれを主張するのは誤りだと思う。

そこのところをわきまえたかどうかはわからないが、未悟の者でも三分でも坐わりましょうと宮崎奕保禅師が勧めたのは、現代日本で只管打坐が根づいていないことを象徴する一シーンであって、クリシュナムルティの登場を呼んだ社会的ニーズであったように思う。



2.悟りとは何か-3(只管打坐系-1.道元)

5.悟りへの手段-3(純粋冥想)

只管打坐の坐り方 (普勧坐禅儀)

天童山の坐禅修行-1 (寝ないで修行)
天童山の坐禅修行-2(坐禅の時間)

道元の身心脱落の気配-1 (諸悪莫作でみる身心脱落-1)
道元の身心脱落の気配-2(諸悪莫作でみる身心脱落-2)

見性はスタートライン (道元の見性批判の背景)

道元の身心脱落解説 (秘密をカミングアウト)

道元の手許メモ (そう簡単ではない)

道元が人格的に未熟であること (悟りと人格成熟は別)

目を開ける禅 (只管打坐メソッドのクリティカル・ポイント)

道元の授記と嗣書 (外からの権威づけ)

違いを理解できないもの(身心脱落と臨済禅)

身体と心を整えて悟る(道元の学道用心集から)

道元の遺偈(帰る家がない)

道元による栄西評価(たとえ地獄に落ちようと自分を捨てる)

道元禅師の坐禅箴(鳥飛んで鳥の如し)

行を迷中に立つるは(迷いの中で坐る)

メリットを求めて坐ってはいけない(窮めるためには)

迷いの中に坐る(行の招く所は証(さとり)なり)

手も足も出ないが只管打坐(人の生活条件は完全には整わない)

ある四川省出身の僧(他人のことを気づかうことより)

感応道交(不思議なあらゆる悲喜劇の根)

只管打坐の見せ方 (街角のステキな只管打坐メディテイター)

身心脱落の前兆 (三種の吉兆)

身心脱落の感じ (十方大地平沈)

坐禅は役に立つか (シンプルだけどむずかしい)

意識的な努力-4(⑶道元禅師清規 弁道法)

『善』、行動の冥想-11(道元の善)



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