アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ユダヤ教エッセネ派の観想-1

2012-01-20 05:33:57 | キリスト者の秘蹟
◎入門

イエス・キリストは、3派あったユダヤ教の宗派のうちエッセネ派の出身である。他の2派は、サドカイ派とパリサイ派。エッセネ派は、富を軽蔑しており、信者の財産は共同のものとされる。快楽を悪徳として退け、禁欲と情念に溺れないことを徳とみなしている・・・・とあるが、今の中東の人々は相当にしたたかな人たちであり、その気質からすると、法律も道徳もなんのそのみたいな人々が多い中での、「禁欲と情念に溺れない」であって、現代人みたいに知性が勝った人種を想定すると誤解が大きいのではないかと思う。

さてエッセネ派の入門の仕方に、その信仰の外形をうかがうことができる。
『彼らの派に入ることを熱望する者は、すぐには入会を許されず、手斧と前述の腰布および白衣を与えられた上で、一年の間外にとどまって〔内部の者たちと〕同じ生活をすることが命じられる。

この期間中、節制を守ったことが証明できると〔内部の者たちの)生活にさらに近づくことができ、きよめのための聖水に与ることを許されるが、なおまだ共同生活へは受け容れられない。

節制(忍耐力)の証をたてた後、さらになお三年間性格を試験され、〔共同生活に〕ふさわしい者であることが明らかになった上で、群に加わることを許されるのである。

しかし、共同の食事に触れる前に、彼は彼ら〔共同体の構成員〕に対して厳粛な誓いをする。まず第一に、神を敬うこと、次いで人々に対して正義を守ること、故意にせよ、命令によるにせよ、人を害さないこと、また、常に不義な者たちを憎み、義人たちを助けて戦うこと、常に万人に対して、特に支配者たちに対して誠実さを失わないこと、

支配者の地位は誰も神の許しなしには保持できないのだから。もしも自分自身が支配する
立場に立った場合には、その権力を乱用せず、衣類やはでな装身具で部下たちよりも目立とうとしないこと、

常に真理を愛し、うそつきを非難すること、手を盗みから、魂をけがれた利得からきよく守ること、同派の者たちには決して隠しごとをせず、他方、彼らの派に属さない者たちには、たとえ暴行を受けて死ぬほどになっても何一つ明らかにしないこと、

これらに加えて、誰にも自分自身が受け取ったのとちがった形で教義を伝えないこと、強盗をはたらくことなく、彼らの派の書物と天使たちの名前を同じように大切に守ること、以上の点を誓う。

このような誓いによって、彼らは入会者の忠誠を確認するのである。』
(観想的生活・自由論/アレクサンドリアのフィロン/教文館P84-85から引用)

イエスは、前半生のかなりの部分が明らかになっていないが、この誓いのひとつである「彼らの派に属さない者たちには、たとえ暴行を受けて死ぬほどになっても何一つ明らかにしないこと」という掟からすれば、イエスがエッセネ派内で充分に修行をしてきて、そのことを明かさないというのはありそうなことである。然るべきグルがいたとすれば、何もインドまでイエスに旅行させることはないと思う。

それと義人というのは、日常使われる用語ではないが、今の日本なら善人の意味に近いように思う。

ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスのグループのような日常を、一般人が見れば奇妙に思いカルトだと思われたりするように、エッセネ派は、クンダリーニ・ヨーガ系であり、一般社会の人が見れば奇妙に思われることが多々あるだろうから、中で起きていること・行われていることを口外しないのは理解できる。

それと悟りのへのプロセスとテクニックを忠実に伝えるための決まりとして、「誰にも自分自身が受け取ったのとちがった形で教義を伝えない」というのがあって、その悟りの正統性を護持してする決め事になっている。一方で、正しいグルならば、どの弟子に対しても同じ方法同じ教え方をするのではなく、弟子ごとに異なるその弟子にふさわしいやり方を選ぶはずであるという側面もあるのだが。

その他は、嘘をつかない、悪を行わない、無用の物欲を行使しないなどごく当たり前なものばかりである。



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