アヴァンギャルド精神世界

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生起次第と究竟次第メモ-2

2012-01-06 05:54:41 | 密教
◎究竟次第の4段

まずは、生起次第と究竟次第の全貌について、ダライラマがチャンドラキールティを引く。

この中で、まず、究竟次第の窮極とは、楽と空が分かちがたく一つになっている空性大楽である究極的真理(勝義諦)と幻の体(幻身)である慣習的真理(世俗諦)の結合(双入)のことであるとする。

世俗諦とは、幻身のことであるとのことなので、幻身の実現そのものは、以前疑問に思っていたように、それだけでは悟りではなかったことがはっきりした。

それでは、究極の真理である空性大楽とは何かという疑問に対して、ダライラマは「空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること」と説明する。この説明では、究極の真理がまるで心理現象のように思われるが、そんなことはお構いなし。ここは、もともと言葉で説明できないものを説明してきたことを尊いとしよう。

よってこの説明は、幻身が中心太陽たる勝義諦に突入して結合するというクンダリーニ・ヨーガのファイナルステージの説明とも矛盾することはないと思う。

これはダライラマの説明なので、究竟次第の定番の説明ということになるが、この理解に立たないと、いろいろな違った説明をすることになるのだろうと思う。

『チャンドラキールティも、似たような方法で、密教修行の完全な意味を簡潔にまとめています。『秘密集会タントラ』の注釈として有名な『プラディーポーディヨタナナーマーティーカー』(燈光明〉の冒頭の詩で、チャンドラキールティは次のように言っています。

本尊の体を実現するための密教修行の第一段階は、生起次第です。
心の本性の瞑想が第二段階で、
安定した世俗諦を獲得するのが第三段階、
世俗諦の浄化が第四段階です。
そして第五段階は二つの真理をいっしょにすること―――これは結合(双入)と呼ばれます―――――なのです。
この言葉は、密教修行の内容をパートに分けて説明しています。このなかには、無上ヨーガタントラの主題が基本的にすべてふくまれています。

チャンドラキールティの論書では、密教の道全体を五段階で説明しています。最初は生起次第で、その後に、さきほど述べた四つの究竟次第が続きます。

修行の道に異なった段階があるのに対応して、灌頂にも種類があります。そういった灌頂によって、これらの道を前進し、心を成熟させることができるのです。
最初の瓶の灌頂によって、修行者は生起次第の修行をおこなう力をあたえられます。
二番目の秘密の濯頂は、修行者が幻身の修行をおこなうための力を与えるものです。幻身への道には、三つの分離がふくまれます。身体の分離(寂身)、言葉の分離(寂語〉、心の分離(寂心) です。幻身の修行にはいる前にその準備として、これらの三昧にはいることが必要です。
三番目の般若知恵の灌頂によって、修行者は、幻身を光明へと浄化する光明の瞑想をはじめるための力を得ることができます。
そして、四番目の言葉の灌頂によって、修行者は結合の瞑想修行(双入次第〉をはじめるための力を得るのです。

楽と空
一般的に、無上ヨーガタントラで結合という言葉を使う場合、大きく二つの用法があります。二つの真理の結合と、楽と空の結合です。密教において二つの真理の結合という場合、楽と空が分かちがたく一つになっている空性大楽が、究極的真理(勝義諦)であり、幻の体(幻身)が慣習的真理(世俗諦)ということになります。両者が分かちがたく一つになることによって、二つの真理の完全な結合を達成したことになるのです。

空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていることです。喜びに満ちた心の状態のただ中に、すでに得た空性の悟りの智慧が立ち上がってくるのです。この二つ――――智慧と楽―――はひとつの意識の中で同時に経験されることになります。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ14世/角川書店P183-184から引用)



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