アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

プチ冥想の評価

2010-09-22 05:40:18 | 究極というものの可能性
◎冥想には決まった形はない・・けれど

プチ冥想がダメというわけでもない。このことは、過去のいろいろな検討の中で示してきた。

法然だって親鸞だって、最初は自分の念仏に充分な確信をもっているわけではなかった。六字の名号南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経のお題目も、数分しかできなければプチ冥想。死のプロセスの探求者であったキュブラー・ロスの出会った黒人のおばさんは、「坐る」という冥想であったかどうかはわからないけれど、一つ突き抜けた何かを持って死を前にした人に対してある覚悟を与えるという技を持っている。

OSHOバグワンなどは、プチ冥想を紹介した数においては、その右に出るものはないだろう。王陽明の事上磨錬は、平たく言えば一生懸命真剣に仕事をしましょうということだが、冥想に匹敵するものとして評価していた。世間の9割方の人は一生懸命真剣に仕事をやっているのだと自分では思っているのだと思うけれど、その真剣度合は、個人的無意識に多種多様の複雑さと深さの異なるレベルがあるがあるように、実はかなりの差があるのではないかと思う。だから「一生懸命真剣に仕事をすることが冥想だ」と言う場合は、落とし穴も大きいと思う。

プチ冥想がダメというわけでもない。だが、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガのいずれかを併用しているから良しとするわけにもいかないのではないか。正しいメソッドを用いることは形として近道なのだと思う。でも、只管打坐やクンダリーニ・ヨーガを修業したからといって、誰もが悟れるわけではない。

そこには、言葉で言えば、真剣さみたいなものがエッセンスとして絶対に必要となってくるのではないか。真剣さが核であって、形・座法は決定的ではないのしもしれない。
だから本当にぎりぎりのところを求める人に対しては、「冥想には決まった形はない」などということが言われるのではないだろうか。

オーラソーマで瞑想、ハタ・ヨーガで瞑想、アシュタンガ・ヨーガで瞑想、ホット・ヨーガで瞑想、前世記憶呼び起こしで瞑想など、皆やると思う。だがそれは、ちょこっと安心、ちょこっと心の安定、ちょこっとやさしさ、いささかの愛だけを求めるに留まってはいけないのではないか。

最後は我が身を捨てる自分のメリットを捨てる、そうしたものに結びついていく形での真剣さ、そこにつながっていかないと、プチ冥想はプチ冥想に留まる、禅家流の言い方ならば、「プチ冥想に落ちる」みたいなことになりかねないと思う。





悟りとは何か
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2 コメント

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Unknown (tuti)
2010-09-23 10:44:28
瞑想という言葉が出回ってきてからというもの種々のワークでプチっと瞑想導入、参加者も、ちょこっとした気分~幸せ気分が横行してますね。主催者の人集めの手段に形式として利用されているように想えます。真とか極めるとか本気勢はあまり必要ではなく仮想世界ー仮想して社会生活営む今日の象徴のようですね。
tuti殿へ (湖南)
2010-09-24 06:15:44
いつもありがとうございます。

プチ瞑想が山のふもとであって、ふもとが大きくならないと多くの覚者も出るまいというのはあると思います。

でも悟りという山頂を示さない、やみくも瞑想指導はどうかと思っています。

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