アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

死のプロセス-1

2005-05-05 06:40:24 | クンダリーニ・ヨーガ
◎死のプロセスとクンダリーニ・ヨーガの考え方

臨死体験と死は違う。
七つの身体的に言えば、エネルギーコードが肉体とつながっている状態か、切れた状態かの違いがあり、それは絶対的な相違がある。
臨死体験と死は、また幽体離脱・アストラル・トリップとも相違している。

クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を扱う技術だというが、この厳しい生存競争を伴う現代社会において使える技術なのか。それは実益とは全く関係のない趣味の世界でのことではないのか。

また、そうした死の技術の狙いは何なのか。
結局死の世界に入ることにより、人間の生は実は死の世界の一部分であることを知ることで、死の恐怖から解き放たれた、本当の意味で当たり前の人間として、余計な緊張感のない、素直で自然な人生を送ることである。

死の技術を会得した以後においても、現代社会は、冥想的な人間にとって、残念ながらとても無理解にできているので、社会人として適応して生きていくのは問題があるかもしれないが、一個の人間としては、全く問題がなく、生きていくことができるということである。

人間の生は、実は死の世界の一部分であるとは、どんなイメージなのか。
この部分がもっとも日常の生活感覚から離れてわかりにくい。要するに現代人が生の世界と考えているのは、肉体だけで、第二身体(エーテル体)から第七身体(中心太陽・大神)までは、死の世界なのである。この死の世界にはすべての他人、すべての世界、すべての時代が含まれている。人間は、その死の世界から生まれ、その死の世界へ帰って行くのである。そんなイメージである。
この知的イメージは、後に分析する死のプロセスとはズレがあるが、初歩的なイメージとしてはこのぐらいだろうと思う。

死の技術に最も言及しているのは、チベット密教である。そもそもチベット密教もゾクチェンとかゲルクとかいろいろ流派はあるものの、すべてクンダリーニ・ヨーガである。
クンダリーニ・ヨーガである以上、日常生活を捨てて、冥想修行に専念する生活に入らないとならないので、十人並みの社会生活はできなくなる。些細なきっかけで、魔境すれすれの幻視体験を引き起こしたり、深い定に入ったままで出て来れないというような人では、毎朝の通勤を始め、労働ノルマに耐えられない。そのような人を許し、認めてくれるような社会のしくみにはなっていないのだ。

従ってクンダリーニ・ヨーガを志す人は、普通の社会生活をあきらめる覚悟がないとならない。また修行が成功する保証はなく、修行による発狂や死の危険があるので、ファッション感覚や遊び感覚では、クンダリーニ・ヨーガは危険すぎて取り組むことはできないのである。

ここでは、理論上のモデルとして、チベット仏教における死の段階説明を述べ、その後にクンダリーニ・ヨーガにおけるステップと比較してみたい。それからキュブラー・ロスらの統計的な手法の結果と符合するかどうかを検討してみたい。
最後に死をタブーとする現代社会の特異性に言及したい。


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4 コメント

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Unknown (ナカコ)
2005-05-06 01:15:33
修行も命がけですね^^;;

クンダリーニ・ヨーガと、死のプロセス

非常に興味深いです。続き楽しみにしています
ナカコ殿へ (湖南)
2005-05-06 04:49:14
チベット密教はダライ・ラマがいるおかげで、メジャー見えます。そういうことが、現代人に受け入れられるためには大切だと思います。
死の通過儀礼 (マンゴー)
2005-05-06 21:38:59
死の通過儀礼は、おそらく全ての宗教に通ずるところなのでしょうね。

善光寺の戒壇巡りもまた死のプロセスの仮想体験のために作られたと聞きます。
マンゴー殿へ (湖南)
2005-05-06 23:19:11
ここでは死の通過儀礼にはあまり関心がなく、死そのもののプロセスの解明を目指して進んでいます。

その意味では、チベット密教のパドマサンバヴァ(インドからチベットに仏教を持ち込んだ人)以来の多くの修行者の成果を使わせてもらえるのはとても有り難いことだと思います。

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