アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

最近の禅寺では見性しなくても可なり

2012-07-16 06:38:14 | 只管打坐
◎明治大正は遠くなりにけり

現代の覚者のひとり原田雪渓老師がお寺を語る。
『一方、インド一で生まれた仏教は、海や陸を渡って、日本古来の八百万の神々の信仰と結びついて、今の日本仏教がつくりあげられました。そして、いつの頃からか、人が亡くなると僧侶が葬儀を執行するという風習がかもし出されてきたのです。もちろん、葬儀を行うことも仏教を布教していく上において大切なことではありますが、それだけが僧侶の使命ではないはずです。

永平寺のご開山道元禅師が「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」とお説きになっているように、法〈真理〉を参究し尽くし、「死んだらどこにいくのか」、「いままで生きていた人がなぜこうなるのか」ということを正しく説き示すことができなければ、本来のお寺の機能は果たせなくなり、仏法僧という宝はなくなってしまいます。

ところが、現今では本末転倒してしまって、僧侶を育成する僧堂においても寺院を護持していくための教育機関になってきております。なぜならば、僧堂で修行をした者に与えられる終了証書を見ても、明治から大正時代にかけては、冒頭に「(何々)僧堂ニ安居シ心事未了と雖(いえど)も操行過失ナシ依テ之ヲ證明ス(見性とか仏性を見るという心事は了(おわ)ってはいないけれども、行いや礼儀に過失がなかったから、修行したことを証明します)という文書が書かれていたのが、いつのまにか「心事」という文言が証書から消えてなくなりました。

当時は、まだ心事を極めることに関心をもった人もあったのに、一体いつ頃から、なぜ「心事未了と雖も」ということばが消えたのか、そこをもう一度よく参究する必要があるのではないでしょうか。』
(自我の本質/原田雪渓/ペンハウスP111-112から引用)

この手の話は、心ある宗教者からは必ず出る話で、残念ながら仏教ならば宗派を問わずこのような状態なのだろうと思う。もちろん中にはまともな修行場もあるのだろうが少数派なのだろう。寺院の護持とは、布施を集め金繰りをすることなのだろうが、心事未了のフツーの人ばかりを住職に据えたのでは、全体として末恐ろしいことになるだろうと、敬虔な求道者ならば誰でも思うことだろう。


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