アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

聖テレーズとイエスの大海

2007-09-08 07:01:33 | キリスト者の秘蹟
◎日常生活ができる段階

聖テレーズは、フランスのカルメル会修道女。24歳で病死したが、とても人気のある聖女である。でも4歳で母を失い、9歳で長姉を失った。

ある日彼女はイエスのキッスを受けた。
『ああイエス様が私の霊魂になさった最初の接吻は、なんと甘美だったのでしょう・・・・!

それは愛の接吻でした。私は愛されていると感じました。それでもイエス様に、「私はあなたを愛します。永久に私をささげます。」と言いました。

願いも戦いも犠牲もありませんでした。もうずっと前から、イエス様と貧しく小さなテレーズは、互いに見つめ合い、理解し合っていました・・・・・。

しかしこの日は見つめ合いではなく、一つに溶け合ったのでした。私たちはもう別々の二人ではありませんでした。

テレーズは、大海に注がれた一滴の水のように消え失せてしまい、ただイエスさまだけが残られました。イエスさまが主であり王様でした。

テレーズは、自分の自由を取り上げて下さるように、主に願ったのではなかったでしょうか!なぜならテレーズはこの自由が恐かったのです。そして自分があまりにも弱く、もろく感じられたので、神様のおん力そのものに永久に一致していたいと望んだのです。』
(幼いイエスの聖テレーズ自叙伝/ドンボスコ社から引用)

テレーズとイエスは最初はまるで恋人のようだ。テレーズは、イエス様に愛されていることを感じて、すべてを捧げることに何のためらいもない。

そして、テレーズは個人としての自由を失う恐怖もちらりと見せながら、イエスの愛の大海に溶け込んで一つなった。これは、言葉つきは平易なものだが、明らかに究極の神秘体験である。見ている自分を残さず、向こうに飛び込んでいったからだ。

自分を神の前に捧げることにほとんど何のためらいもなく、毎日を祈りと、苦行、作務で過ごし続けられる環境にあること。そして何よりも修道院という、精神的な事柄に価値があるという周囲の理解ある雰囲気に暮らせば、なるほど神に出会うことは、世間で暮らしているケースよりは容易であることは見てとれる。

この幼いイエスのテレーズは、『私は霊魂を養い、神様に一致させる深い考えを軽蔑するものではありませんが、そのようなものに頼ったり、また光を沢山受けることが完徳であると思ったりしてはいけないと、かなり前から悟っていました。どんなに美しい考えも、業を伴わないならば何の価値もありません。』
(幼いイエスの聖テレーズ自叙伝/ドンボスコ社から引用)

ここでは、テレーズは、伝統的な観想法的な修行方法の価値を認めながらも、神秘体験追求の罠に陥る愚を指摘し、また生活実践なき愛などの考え方も虚しいものであることを知っている。神に出会った後で、生活の中でそれを生きるのであるから、禅ならば聖胎長養であり、菩薩の修行遍歴である華厳経入法界品のようなものである。アッシジのフランチェスコもこれを生きた。

おそらくもう一歩段階が進むと、こうした所謂、世間での日常活動ができない状態になるのではないかと思う。

歌手エディット・ピアフが、失明から快癒したのはテレーズに祈ったお蔭だそうです。


    1日1善。1日1クリ。



《聖テレーズでTB/リンクさせて頂きました》
わたしのつぶやき   ()
KUAN YIN*慈悲* ()
Tout les jours Bon Chic()
PASSAGE PT. Ⅱ()
Raptor's Diary()

コメント   この記事についてブログを書く
« 退行催眠で見た未来 | トップ | マイクル・クライトンのチャ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

キリスト者の秘蹟」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事