アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

九州からの客人が生き仏に出会う

2017-06-04 06:35:57 | マントラ禅(冥想法7)
◎光を放つ念持仏

妙好人の貞信尼の続き。

ある時、信者の小松原操子のところに九州から来客があり、「折角越後にきたことだから、ご馳走よりも誰かありがたい人に会わせてください。生涯の思い出ともなるから。」との希望であったから、それならばと貞信尼の宅に案内した。

ところが貞信尼は留守であって、勝手ながら念持仏の五劫思惟の像を開扉して一緒に拝礼した。

するとその客人は、「この仏像の鼻の先から光明が放たれており、ちゃんと拝むことができない。このような仏像は初めて拝んだ。どなたに会わなくともこれさせ拝ませて頂いたらこれでもう充分だ」と非常に喜び、有難がった。

車を連ねて帰途につくと途中で貞信尼に出会い、近くの茶屋で法話をうかがうことになった。

すると客人は、「どうも不思議だ。さっき拝んだ仏像とこの人の人相がそっくりだ、五百里あってもこの如来様に会いさえすれば充分だ、生き仏様に会えば充分だ。」と大喜びで帰って行った。

操子は、「私は平生、生き仏の現物に出会っても、生き仏と拝むことができないのはどうしたことでしょうか」と嘆くと、

貞信尼曰く、「喜ぶ人は前生が違う。私やあなたは喜ぶことができないので、さあ称えましょう。」とて、喜び喜び念仏を称えましたとさ。

謙遜、自己を低く見るのは、本物の特徴。前生が違うとは、それを感得出来る感性があるということ。

起こることは起こっているが、何が起こったかを知るのは、それはまた別のこと。
万人が死を迎えるが、そのプロセスの中で、原初の光に万人が出会っているが、それを感知する人は極めて稀である。

イエス・キリストの来臨を願う人には、ある深夜にキリストが臨在するのだが、本人は寝ていて気づかないというようなことと同じ。キリストの再臨を待つ人、生き仏の出会いを待つ人は多いが、それは多分既に起こっているが、実は気がつかないことが大半なのだろうと思う。
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