アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

出口王仁三郎28歳の頃-2

2019-10-22 06:00:16 | 古神道の手振り
◎緑の野が花園に転ずる

天国の一つの相である緑の野。そこに鳴きすだく虫の声に、出口王仁三郎は、恋のバイブレーションを感得した。

その恋心に感応したのか、緑の野原は、百花繚乱の花園と化す。

出口王仁三郎の歌集霧の海の続き。
『目路の限り青野が原は たちまちに薫りすがしき花園となりぬ

春秋のけじめも知らに咲く花の一つびとつに銀の露うく

木も草も花一面にもちてり ほころびそめし花のつぼみを

吾がゆくてふさぎて咲ける百花(ももばな)を足に踏むさへ をしく思へり

ふみて来しあとふり返り眺むれば 露にほころぶ花ばかりなる

霊界は不思議なるかな 百花(ももばな)のわれに向かひて何かささやく

囁ける花の言葉はわからねど 何か親しく恋はしく思ひぬ』
(出口王仁三郎の歌集霧の海P192-193から引用)

神仏のことといえば、無味乾燥で木で鼻をくくったような禅問答をイメージする人も少なくなく、伊勢神宮内宮の幔幕が風で翻って向こうが見えた時、金目のものとか凝った彫刻などが何も置かれてはいないことを見て、肩透かしをくらったように感じる人も少なくないのではないかと思う。

緑の野、緑の高原というのは、それだけでも豊穣を感じさせてくれるものではあるが、基本的には素(す)であり、純白のイメージであって、禅的、只管打坐的行き方、達磨大師の示した境地というのはそういうものである。

これは石ころの心

ところが一片の恋心を感じた途端に、三冬暖気なしとも思われた野原は馥郁たる花園に転ずる。
これぞ古神道家、クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎の面目躍如たるところである。

石ころから愛、恋が流れ出たのだ。

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