アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

十牛図-7

2005-04-09 07:15:23 | 丹田禅(冥想法8)



第五牧牛
序(慈遠禅師)
ある意識が起こるやいなや、後から他の思いがくっついてくる。本心に目覚めることによって、真実を完成するのであり、それを見失っているから、迷妄なのだ。対象のせいでそうなるのではなくて、自己の心が起こしているに過ぎぬ。牛の鼻の綱を強く引くことだ、もたついてはならぬ。

頌(廓庵禅師)
鞭と手綱を片時も手放さぬのは、牛が勝手に歩いて、塵埃の中に引き込まれる心配があるからだ。よく飼い馴らせば、すっかりおとなしくなり、手綱で拘束してしなくても、自分の方から人についてくる。

鞭は覚醒のこと。
手綱は生活全体のコントロールのこと。カルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズに出てくるドン・ファン・マットゥスは、ペヨーテ・サボテン(メスカリンの原料)をきっかけとしたソーマ・ヨーガ(薬物冥想)での覚者であるが、彼は酒もタバコも飲まないなどの、目に見えない精密な規律を守っている。
ハタ・ヨーガ行者にあっては、菜食を行い守るということが、ヨーガ冥想における重要なファクターとなっている。只管打坐修行者にあっては、清規と呼ばれる精密な規則にそって、一挙手一投足を行うことが基本である。

このようにすでに窮極に達した者達であっても、窮極というものの日常化の必要性からくるところの日常生活のコントロールが必要であるのだ。

日々是れ好日とは、雲門という禅者の言葉であるが、絶対的なるもの(神、仏、宇宙意識)を日常化させることによって初めて好日となるのだから、こういった日常生活の細密な規律によるコントロールなしに好日はあり得ない。日々是れ好日とは、覚醒していない者の、のんべんだらりとした平和な日常生活のことではない。覚者たちの、その悟りを維持するための、合理的なかつ精密な日常生活での努力のことなのだ。それを牧牛と呼ぶ。

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