アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

野良猫と餓鬼

2016-09-22 05:42:03 | クンダリーニ・ヨーガ
◎飢えつつ遊ぶ

ジョギングを始めてから、定例のルートの途中で野良猫に会うことがある。夏の野良猫は、元気でよいが、皆食べ物に飢えている風であることは変わらない。猫はそのすました猫背に餓鬼を潜ませているのだ。

猫は、その曲がった背中で、あらゆる音に聞き耳を立て、クンダリーニ・ヨーガをする。食べて、散歩して、そうでない時間はクンダリーニ・ヨーガの冥想にふける。猫のクンダリーニ・ヨーギは、死期を悟ると人の前から姿を消し、しまいには肉身を虚空に分解して屍体を残さないという屍解をする。もっとも交通事故や病気などで死体を残す猫もいるのだが。

そして猫は霊を追い払う。猫は家に付くものなので、家にあって霊を追うのだ。でもあまり期待してはならないと思う、猫は猫のロジックで追うのであって、人間の現世利益なロジックで追うのではないから。
このあたりが、猫が十二支に入っていない理由ではなかろうか。

一日、そうした野良の子猫を保護した。幸いその子猫は里親のもとへ行ったので、野良猫であるよりも長命な生活をするに違いない。子猫はかわいいものだ。ちょっとしたおもちゃにじゃれつき、人の差し出す手にもじゃれつき、生えはじめの2~3ミリしかない短い歯で我が指を一生懸命噛んでその感触を確かめたり。

子猫はお腹がすいてもかまわず、休むいとまもなく遊び続ける。そして寝る。思無邪とは、詩経だが、子猫はまさに思無邪。飢えながらも無邪気に遊べるという姿は、あらゆるまともな覚者の生き様であるから、むしろ深い感動を覚える。

厳冬の朝、草むらを過ぎると親にはぐれて食べ物もないのか、草むらのほうから子猫の声がする。その声は飢えを歎き、道に迷って当惑し、寒い朝をどこで過ごすか絶望している声である。

昔、午後いつも食事のなかった禅僧は、飢えをしのぐため腹に温めた小石=懐石を入れたが、子猫ではそんな芸当もできない。猫も自分の生で追い込まれているのだと、そんな声を聞くたびにもののあわれを感じたものだ。

禅堂の食事作法では、自分が食する前に餓鬼に米数粒を供える。餓鬼とは餓鬼草紙とか地獄草紙の餓鬼を思い浮かべていたが、野良猫も餓鬼なのだと悟った。日本でも夕食のない子供が増えてきてマスコミの話題に上がるようになってきた。当然そういう大人も増えている。

だから中国の技術重要度ランクでは、第一位が農業=食であり、奢侈品の技術はずっと下だった。現代は逆にスマホやファッション、アクセサリーが第一位に置かれているが、こうした時代もいつまでも続くまい。

人が悟るのが文明のテーマだが、技術方面のテーマはほとんどの時代、餓鬼をなくすことなのだと思う。

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