アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

日本社会と死の覚悟

2009-10-13 04:18:07 | 時代のおわり
◎世間体の扱い

江戸時代、サムライは不始末あれば、いつでも腹かっさばいて責任をとった。それが桜花の散る様子に似て、人に潔さ、美しさ、気品の高さを呼び起こし、日本人の通念となった。

当時、およそ人たるものは誰でもそのような侍になりたいと思うのが当たり前だった。それが本来のサムライ・ジャパン。

昭和になって、国家神道全盛期、御国のために命を捧げるのが当然とされ、「靖国で会おう」が合言葉になった。現人神である天皇に一身を捧げるのに躊躇することは恥ずかしいこととされた。

陽明学者安岡正篤は、『死は礼儀正しく安祥たるべきである』(出所:東洋の心/安岡正篤/黎明書房)というが、彼は中国風の君子を第一と考えており、君子は須らくカッコマンであることが必要な条件の一つと考えていたようだ。

そんな風にカッコイイ、フォーマルな死ばかりがあるわけではない。緊急時、危急時には、緊迫したシチュエーションでわが身を捨て易いということはある。しかし平常時に、長い目で見れば自分が招いたこととは言え、恰好悪い死に追い込まれることもあるだろう。

カッコワルイ自分を、自分と認められるか。それも踏み越えるべき第一歩であって、乳房をガンで失いながらもフランクで正直であるケン・ウィルバーの奥方などはそれを遥かに超えた見識のところに居る。

悟りとは、我が身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれというようなもの。
今、悟りを開けないことを本当に恥ずかしいと思う人たちがドンドン出てこないと、冥想を毎日しようなどと思う奇特なグループは登場しないのだろうと思う。




コメント   この記事についてブログを書く
« 枯禅の勧め | トップ | 嘘を言わない、怒らない、物... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

時代のおわり」カテゴリの最新記事