アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

5.悟りへの手段-3

2009-03-12 05:40:46 | 夢と真実
◎純粋冥想

中間段階を目指す冥想ですらも、ニルヴァーナを目指す一つのきっかけにすぎない。つまり個々の冥想手法それぞれは入り口になっているだけとも見ることができる。

それではニルヴァーナを直接目指す只管打坐はどうかというと、個々の人物の修行遍歴を見れば、必ずしも只管打坐なら只管打坐だけをやって悟っているわけでもない。

只管打坐の第一人者道元も、最初は比叡山で2年天台を学んだ。天台では、法華経もあり、密教もありで、観想法も用いる。どちらかというとクンダリーニ・ヨーガ系の修行法なのだと思う。というのは天台小止観に出ている坐り方は只管打坐とは異なるからであり、魔の扱いなども摩訶止観で説明したりしているからである。

比叡山を下りた道元は、三井寺の公胤僧正を訪ねるが、そこで納得できずに、建仁寺の栄西を訪ね、そこで臨済の宗風を初めて学ぶ。この時点でも純粋冥想たる只管打坐には出会っていない。

道元は渡宋後に初めて只管打坐に出会う。只管打坐、只管打坐というけれど、道元にしてからが、最初から只管打坐であったわけではなく、万人がもともと悟っているのならば(本覚)、なぜ修行しなければならないのかという回答が只管打坐に隠れているのを発見するまでには、幾年もの紆余曲折を経なければならなかった。

只管打坐を選び取る、クンダリーニ・ヨーガを選び取る、念仏やお題目を選び取るというのも、その人の精神の成熟度の反映というところもあるのだと思う。

こうして、さまざまな冥想法がそれぞれに関連している中で、修行者の持つカルマ、縁と結び合い、ほどけ合いしながら悟りに向かっているイメージが脳裏に浮かぶ。

道元における冥想手法の変遷は以上のようなものだが、悟りの実現の要素としては、真正のグルである天童如浄との出会ももう一つの重要なファクターとして欠くことはできない。

テクニックだけでは悟れない。そこで修行者の魂の成熟度が本物の師匠との出会いを呼ぶという不思議な縁の織りなすアートがあるように思えてならない。




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