アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

死への敬虔さ

2010-09-16 05:41:05 | 究極というものの可能性
◎死を越えていない者バージョン

登山家ラインホルト・メスナーが、金をもらって遺族の依頼を受けて、カラコルム山脈の8000メートル峰のひとつガッシャーブルム2峰に再び登り、既に前の登山で発見していたオーストリア人2名の死体を埋葬して、そのことをしゃべったことに対して『屍体を乗り越えてまで登りたいのか』と世間から批判された。

『ぼくは、死者もまた生きている者と同様にこれらの山のものである、という考えに立っているのだ。ぼくたちが、いつもただ自分たちの成功についてだけ口を開き、死者について口を閉じるなら、この世の最高峰での遊びが、どんなに危険なものであるかを、若い未熟なアルピニストは信じてくれないだろう。

もしかすると、ぼくたちでさえ、あの上の世界のもつ現実性に対する感覚を失ってしまうかもしれないのである。

ここ数年来、ぼくは、ほとんどの8000メートル峰で”死者と出会った”のであり、この死者には陰鬱な話がつきまとっていた。

金を提供するからといわれても、これらの写真を公開するようなことはしなかった。

だが写真は必要である。この写真を見て登っていくのをやめさせることができるかもしれない。この種の山登りは、危険なものであることを知りながら、それでも登っていく者が愚か者であるというのではない。

だが死を無視し、自分もまた高い山で命を落とすかもしれないということを、わかろうとしない者は愚か者といわざるを得ないのである。』
(生きた還った/ラインホルト・メスナー/東京新聞出版局から引用)

冥想の窮極においても、自我の死が求められ、それにはしばしば肉体死というものが伴う。メスナーの言い回しを借りるならば、
「この種の冥想は、危険なものであることを知りながら、それでも坐っていく者が愚か者であるというのではない。

だが死を無視し、自分もまた高い境地で命を落とすかもしれないということを、わかろうとしない者は愚か者といわざるを得ないのである。」となる。

冥想の窮極とは悟りのことである。誰もが安全に悟れるわけではない。まずその道に取り組もうとする入門段階で、あらゆる社会性、つまり財産、家族、名声、社会的地位を捨てて修行に入ることが求められる。

更に一歩進めて、悟りという8000メートル峰を目前にすれば、そこには『死の地帯』が待ち構えている。自分を捨てるという言い方はカッコイイが、そこでは自分が死ぬことを求められる。8000メートル峰の高みに登ったところで、タロットの「吊るされた男」よろしく、まっさかさまに崖から飛び下りることを求められるのである。

そこにしか現代人にとってのフロンティアはない。異次元の風光ってやつだ。

チャレンジするのは良いが、後から死の地帯にやってきた優秀な修行者に、自分の死体を弔ってもらう可能性が高いということ。

メスナーは、成就したクンダリーニ・ヨーギのように死の世界全般をクリアして、生の世界の何たるかを知るというところまでは行っていないが、生の極限のボーダーに立って、死を見つめるということを、8000メートル峰14座無酸素登頂の中で繰り返してきた。

だから、その言葉には、充分に死に対する敬虔さが満ちあふれている。まだ悟らぬ者にはこうした敬虔さは少なくとも具備すべきものだと思う。






悟りとは何か
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