アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

非二元(ノンデュアリティー)とエクスタシー

2018-12-12 05:34:30 | 現代冥想の到達点
◎なにもかもなしだけでは、なにもかもなしが成立しない

非二元(ノンデュアリティー)は、なにもないだけではない。あらゆる欲望は、その最後に欲望からの解脱を欲望する。その解脱にさいして、味もそっけもない、非二元(ノンデュアリティー)な何もかもなしだけではない。

それはもはや、個人の心理体験ではない。まずそれまでの世界が崩壊し、そこで虚無を見ることが多い。その虚無を見ている自分さえもなくなれば、どのような宇宙にも出入自在となる。虚無を体験した自分という幻想が神秘そのものによって殺されて初めて非二元と言える。

そのように殺された人の歌。

生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき
(至道無難)

自分が自分がなくなり自分を取り巻く宇宙がなくなるのは恐ろしいことだ。そこには意外なことに、快感などという感覚刺激を超えた形のない歓喜が随伴する。

これが究極のエクスタシーなのだ。

ところが、冥想修行の進展プロセスを考える場合、男と女では、求める究極のエクスタシーが根本的に異なっている。

ダンテス・ダイジは、これについて、いろいろな場所で仄めかして来ていたが、最近そのこと専一に書かれている文章を発見したので、それを紹介してみたい。

この女性の強い時代で、LGBTを容認しようという時節に、男と女では、求める究極のエクスタシーが相違するというのは、大いに誤解を招く。だが、単に男女両性具有だの、男女の違いを超えるだの言っても、それを語ったり考えたりしている本人が女性であった場合、彼女の語ったり、想ったりする非二元(ノンデュアリティー)は、ファイナルなものではない可能性があり得る。

勿論女性で悟った人は起こりえる。そんな人は他人に見せるかどうかは別にして、七つの次元、七つの身体を出入自在にして超能力も普通に使えるはずなのだ。

女性が非二元(ノンデュアリティー)を語るというのは、どうなんでしょう。アヴィラのテレサや古代ローマのペルペトゥアなどは知っているけれど。そうではない女性もいる。

非二元(ノンデュアリティー)とエクスタシーは切り離せない。エクスタシーからあらゆる世界のドラマ、現象の転変、個生命の誕生と死滅などが発生するからである。

ダンテス・ダイジは、なにもかもなしとあらゆる現象はペアだと喝破している。なにもかもなしだけでは、なにもかもなしが成立しないのだ。

古代インドで、ブラフマンとアートマンの関係は語らず並置させる書き方なのは、このあたりが理由なのだろう。
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