アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

原田雪渓の「呼吸を見る」

2012-07-17 04:27:32 | 只管打坐
◎呼吸を意識して身心脱落

呼吸を見つめるというのが、ヴィパッサナーのメイン・メソッドであるということにあまりこだわらず、ここは禅の原田雪渓老師が、呼吸を語る。

『呼吸を見る

私たちはいま、自分の呼吸を意識しておりません、吐く息、吸う息、吐く息、吸う息を意識して生活をして、あるいは坐っておられる人はいらっしゃらないと思います。

そこで、禅を修行する――――修行するということは、やむを得ずですね、本当は呼吸を意識するなんていう不自由なことをしなくてもよろしいのですけれども、修行をするということで、呼吸を意識していただきます。すなわち、吐く息、吸う息、吐く息、吸う息をよく見る、そういう状態になっていただきたいと思います。油断なく、ひと呼吸、ひと呼吸を親切に、そして丁寧に、真心をこめて、吐く・吸う・吐く・吸うの動作を繰り返していただきたいと思います。

そういう「呼吸を見る」、つまり意識を集中することによって、だんだんと呼吸三昧、意識三昧に入ることができると思います。

しかし、三昧ということを、まだ自分で意識している間は、意識している自分だけが三昧の外にいるということになります。本当の三昧になれば、三昧に入っている状態を自分で意識、あるいは認識することは、不可能なはずです。

呼吸を意識する、あるいは三昧に入っている、三昧に入ろうとする時分の意識というものは、当然わかる。そのわかっていることが悪いのではありません。わかっているその意識を、意識によって擦りつぶすような状態になっていただきたいわけです。

三昧に入る、あるいは意識によって意識を擦りつぶすというとことは、多少の時間が必要かもわかりませんけれども、根気よく自分の呼吸を意識することによって、必ず三昧に入ることが可能になると思います。

一所懸命に自分の呼吸を見ていくうちに、三昧に入っていくということは、自分の呼吸を意識していることも忘れてくるということです。忘れてくるということは、元の、呼吸を意識していない状態に戻ってくるということです。

初めての方は、非常に面倒な、複雑なことのように受け取られるかもしれませんけれども、一度ものを知って、そして知ったその意識によって擦りつぶしていく、また一回転して元に戻る。そういうことが、禅の修行ということであります。

客観的に見れば、その人が呼吸を意識しているかしていないかなどということはわかりません。しかし、同じ状態で、同じ生活をしておりながら、一人の人は呼吸を意識することによって道を歩み、必ず「脱落」という境地が得られる。一方何もしないでただ坐っている人は、そういう脱落ということがありません。そこに天と地の相違ができてまいります。

(THE禅 ダルマは世界を駆ける/原田雪渓/柏樹社P66-68から引用)

ここは、呼吸そのものより、呼吸を間断なく意識できるかそけき感受性をまず言っている。特に臨済禅では定力を言うので、定力優先で修行すれば、感受性は押しつぶされる。只管打坐は、何かを意識していれば只管打坐にはならない。ここは、醒めた感性の持続を言っていると見るのだろう。


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