◎修験三十三通記-7
(極秘分第一、峯中本有灌頂之事)
一般には、師の阿闍梨が法水を新参の人の頭に注ぎ頂くことを伝法灌頂と呼び、是れを阿闍梨位を継承したことを証明するセレモニーとしているが、修験三十三通記では、これは終生灌頂と呼び窮極の灌頂とは見ていない。修験では、本有灌頂が、儀式ではない、実質的な窮極の灌頂であるとする。
本有灌頂とは、普通の人(凡人)であっても、聖者であっても、どちらも一点の欠けることのない大日如来(毘盧舎那)であることを確認すること。
修行者の行い、言葉、意識(身口意の三業)が、それがそのまま悟りの姿(自性の法体)を現すことである。大日如来から帰還すれば、その人の行動はそうなるものだと思う。
そもそも修験の道理とは、我々の姿は、人は本来もとより清浄なさとりそのものの姿である(本覚毘盧)ということである。その境地は、とてもディープであり、一定の外見がなく、至極のものであって、役の行者から伝えられるような代物ではない。
この境地から出てくる動作や言葉は、作為のない仏法そのままであることの証明である。また出入りの息は、阿吽であり、行住坐臥、睡眠の時も含め24時間断絶することのない阿吽の2音の念誦である。
最後に、人は本来もとより清浄なさとりそのものと主張するのならば、女性とセックスしたり、人を殺してしまったりしても、それは、そのまま悟りの姿といえるのかという質問が来る。回答としては、根源(大日如来、仏、ニルヴァーナ)を知らない者が何を語っても、何を行動しても、悟りに即したものとはならないと、何も知らない者が、好き勝手な行動に走ることを戒めている。
あくまで、人は本来もとより清浄なさとりそのもの(本覚)という状態は、大日如来とは自分のことだったという極限状態から帰還して初めて語れる言葉であって、その体験のない者がそのことを正しいというのは、でたらめ(妄語)である。
この章については、人は本来もとより清浄なさとりそのものであるということをひたすら説明している章であるが、本有灌頂という言葉は、儀式としての灌頂ではないので一つの神秘体験を指していることがわかり、またそれは修行によって至る体験であることがうかがえる。
ところがその境地は、もともと人は大日如来なのだという境地であるので、そのまま読めば修行なんぞ要らないと考えてしまう人が必ず出る。そこで最後の問答で勝手な行動を戒めるという構成になっている。
全体としては、例によってどうすれば大日如来になれるかは書いてはいない。





1日1善。1日1クリ。 
(極秘分第一、峯中本有灌頂之事)
一般には、師の阿闍梨が法水を新参の人の頭に注ぎ頂くことを伝法灌頂と呼び、是れを阿闍梨位を継承したことを証明するセレモニーとしているが、修験三十三通記では、これは終生灌頂と呼び窮極の灌頂とは見ていない。修験では、本有灌頂が、儀式ではない、実質的な窮極の灌頂であるとする。
本有灌頂とは、普通の人(凡人)であっても、聖者であっても、どちらも一点の欠けることのない大日如来(毘盧舎那)であることを確認すること。
修行者の行い、言葉、意識(身口意の三業)が、それがそのまま悟りの姿(自性の法体)を現すことである。大日如来から帰還すれば、その人の行動はそうなるものだと思う。
そもそも修験の道理とは、我々の姿は、人は本来もとより清浄なさとりそのものの姿である(本覚毘盧)ということである。その境地は、とてもディープであり、一定の外見がなく、至極のものであって、役の行者から伝えられるような代物ではない。
この境地から出てくる動作や言葉は、作為のない仏法そのままであることの証明である。また出入りの息は、阿吽であり、行住坐臥、睡眠の時も含め24時間断絶することのない阿吽の2音の念誦である。
最後に、人は本来もとより清浄なさとりそのものと主張するのならば、女性とセックスしたり、人を殺してしまったりしても、それは、そのまま悟りの姿といえるのかという質問が来る。回答としては、根源(大日如来、仏、ニルヴァーナ)を知らない者が何を語っても、何を行動しても、悟りに即したものとはならないと、何も知らない者が、好き勝手な行動に走ることを戒めている。
あくまで、人は本来もとより清浄なさとりそのもの(本覚)という状態は、大日如来とは自分のことだったという極限状態から帰還して初めて語れる言葉であって、その体験のない者がそのことを正しいというのは、でたらめ(妄語)である。
この章については、人は本来もとより清浄なさとりそのものであるということをひたすら説明している章であるが、本有灌頂という言葉は、儀式としての灌頂ではないので一つの神秘体験を指していることがわかり、またそれは修行によって至る体験であることがうかがえる。
ところがその境地は、もともと人は大日如来なのだという境地であるので、そのまま読めば修行なんぞ要らないと考えてしまう人が必ず出る。そこで最後の問答で勝手な行動を戒めるという構成になっている。
全体としては、例によってどうすれば大日如来になれるかは書いてはいない。





1日1善。1日1クリ。 













随分と精神世界を極めていらっしゃるん
ですね。
コメントありがとうございました。
全然極めていません。下手の横好きです。
ご訪問ありがとうございました。
貴ブログの豪奢な写真の数々、見事さに感じ入ります。
後進の道標となるべく、自身のこれ迄の修行の集大成を綴ります。
また、今後の修行に於いて参考と成る物は、大いに閲覧し利用させて戴きます。
コメントありがとうございました。
初心者ですが、実地の色々なお話を拝見したいと思います。よろしく。
コメントありがとうございました。
またどうぞ。
トラバありがとうございます。
“テキトー”な事ばかり書いてますので、
またよろしければ、遊びに来てくださいね^^
では。
コメントありがとうございました。
私も真剣ではありますが、至らぬものです。
宜しくお願い致します。