アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

6.悟りへの階梯-5

2009-03-30 05:50:09 | 夢と真実
◎牛を飼いならす

〈(1)十牛図の続き〉

悟りには2種あって、神に出会うことと、神と一体になること。第三図はその神に出会うこと。神に出会ったことのある人は、何人に一人位の割合かと言えば、何百万人に一人いるかいないかくらいのものではないだろうか。国勢調査の項目にそんなのはないが、人口10万人の都市に一人そんな人が居れば、昔から住んでいる人たちの間には口ずてに伝わっているもの。ところが、そんなことはまず聞かない。だから知らず知らずのうちに何百万人に一人いるかいないかというような見込みを立ててしまう。

私の知る人の中で悟ってる人は3人。うち一人は、面識はないが原田雪渓老師。こんなに少ないのでは、ソドムの町のロトの故事ではないが、日本の先行きも覚束ないことである。

神を第三図で発見して、それに段々と順応していく手順が、以下の第四図から第六図となる。最初はアートマン(本来の自己)なる牛は言うことをきかない暴れ牛であるが、だんだんと馴れて来る。


第四 得牛
頌(廓庵禅師)
精力の限りを尽くして、その牛をとらえたが、
牛は頑固に力み、はやって、簡単には手におえぬ。
突然高原に駆け上ったと思うとさらに深い雲の中に居すわってしまう。

第五 牧牛
頌(廓庵禅師)
鞭と手綱を片時も手放さぬのは、牛が勝手に歩いて、
塵埃の中に引き込まれる心配があるからだ。
よく飼い馴らせば、すっかりおとなしくなり、
手綱で拘束してしなくても、自分の方から人についてくる。

鞭は覚醒のこと。手綱は生活全体のコントロールのこと。一旦は神を見たことがある人でも、元に戻ってしまうことがある。そこで鞭と手綱が要る。

第六 騎牛帰家
頌(廓庵禅師)
牛にまたがって、ぶらりぶらり家路を目指せば、
えびすの笛の音が、一ふし、一ふし、
夕焼け雲を見送る。
一つの小節、一つの歌曲にも
言いようのない気持がこもっていて、
真に音楽を解する人には、
余計な説明は不要である。

既に牛にまたがって家を目指すほどに馴れても、その吹き鳴らす笛の音は、異次元の響きである「えびすの音」(羗笛)。この段階になっても悟りのある生活は、日常生活感覚からは全く想像もつかない実感を生きるというギャップを避けることはできないのだと思う。

そんな見知らぬ風光の中で、平常心是れ道などと聞いたのなら、それは悟ってない者ののんべんだらりとした日常の生活感覚を平常心と語っているのではないことに気がつくだろう。




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