アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

野立彦神のクンダリーニ上昇

2010-05-26 04:31:26 | 古神道の手振り
◎それは悲劇に非ず

霊界物語では、天教山というのは、富士山のことで、時によってはシナイ山のことをいうこともある。その天教山に最初に身を投げたのは、野立彦神、野立姫神。
彼等の跡を慕って、続いて釈迦や達磨やイエスやモーゼやエリヤの前身の神人が天教山に身を投げた。

妙なことに火山の火口に身を投げたけれども神人だから火傷しないとか、ボディがでかいから少々火に触れただけでは何ともないとか、奇妙な書きぶりであって、他意あって、この記述をしたことが想像される。つまりこの世界が大洪水に見舞われた責任を感じてボスが投身自殺して、その後に殉死者が多数続いたという単なる悲劇の描写ではないのである。

そこでここは、サハスラーラ・チャクラを火口に見立てて、死の世界に飛び込むというクンダリーニ上昇の秘儀を描いているものであると知れる。

霊界物語では、天之御中主神を樹木の根に例えて、外からは見えないが、最も重要なものであると表現している箇所がある。すなわち下方を神の側とすれば、神へのエントランスは火山の火口と表現されることに不自然さはない。火口の中に死の世界が広がっているのである。

この身を、神の大きくあけた無限の口の中に飛び込む・・・、飛び込むというような形で、クンダリーニ上昇するシーンをサジェストするのは、カルロス・カスタネダにもある。

以下は、大物である野立彦神、野立姫神のクンダリーニ上昇シーン。

『第二〇章 善悪不測〔二七〇〕

 国祖国治立命、豊国姫命の二柱は、千座の置戸を負ひて、根の国、底の国に御退隠遊ばす事となり、大慈大悲の御心は、神界、現界の当に来らむとする大惨害を座視するに忍びず、暫らく天教山および地教山に身を隠び、野立彦神、野立姫神と改名し、神、現二界の前途を見定め、

『ここに撞の御柱の神、天の御柱の神、国の御柱の神の降臨ありて、修理固成の神業も稍その緒に就きたれば、われは是より進みて幽界を修理固成し、万の身魂を天国に救はむ』
と、夫婦二神相携へて、さしも烈しき天教山の噴火口に身を投じ、大地中心の火球界なる根底の国に落行き給ひ、野立姫命は、これより別れて、その西南隅なる地汐の世界に入らせ給ひける。

 至仁至愛至誠至実の身魂は、いかなる烈火の中も、その身魂を害ふこと無く、いかなる濁流に漂ふも、その身魂は汚れ溺るること無きは、全く『誠の力は世を救ふ』の宣伝歌の実証なり。その身魂の偉大にして無限の力あるときは、心中一切の混濁溟濛なる貪瞋痴の悪毒なければ、悪心ここに消滅して、烈火も亦清涼の風となるなり。

 野立彦神、野立姫神は、さしも烈しき噴火口を、初秋の涼風に吹かるるがごとき心地して、悠々として根底の国に赴かせ給ひぬ。たとへば蚤や、蚊や、虱のごとき小虫は、『敷島』の煙草の吸殻にも、その全身を焼かれて、苦悶すと雖も、野良男は其の同じ煙草の吸殻を掌に載せて継ぎ替へながら、手の甲の熱さを少しも感ぜざるが如し。三歳の童子に五貫目の荷物を負はしむれば、非常に苦しむと雖も、壮年の男子は之を指先にて何の苦もなく取扱ふがごとく、すべての辛苦艱難なるものは、自己の身魂の強弱に因るものなり。

罪深き人間の火中に投ずるや、限りなき苦しみに悶えながら、その身を毀り遂には焼かれて灰となるに至る。されど巨大なる動物ありて人を焼く可き其の火も片足の爪の端にて踏み消し、何の感じも無きがごとく、神格偉大にして、神徳無辺なる淤能碁呂島の御本体ともいふべき野立彦神、野立姫神においては、我が身の一端ともいふべき天教山の烈火の中に投じ給ふは、易々たるの業なるべし。

 智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救ひを求めねば、到底自力を以て吾が身の犯せる身魂の罪を償ふことは不可能なり。故に人は唯、神を信じ、神に随ひ成可く善を行ひ、悪を退け以て天地経綸の司宰者たるべき本分を尽すべきなり。』
(霊界物語第六巻/出口王仁三郎から引用)


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