アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ナルキッソス

2012-01-21 06:40:40 | 丹田禅(冥想法8)
◎鏡の冥想

鏡の冥想というのがある。自分の前に鏡を置いて、自分の姿を見ながら坐るというものだ。
自分では、そこはかとなく恐ろしげで、これを試したことはない。

ニンフのエーコーは、ナルキッソスへの求愛をすげなく断られて、恨みに思っていた。
『テスピアイのドナコンで、たまたま彼は銀のように透きとおった泉を見つけた。家畜にも小鳥にも野獣にもひっかきまわされたことがなく、その上に蔭をつくっている木々の枝さえも水の面をみださない静かな泉であった。

狩に疲れきった彼が、渇をいやそうと草ぶかい水際から身をのりだしたとたんに、ナルキッソスは水鏡にうつる自分の姿をひと目みて、これを恋いこがれるようになった。はじめ彼は自分の眼のまえにいる美しい少年を抱いて口づけしようとした。しかしまもなくそれが自分の姿だとさとると、すっかりそれに魅いられて何時間も何時間もしげしげと泉のなかをのぞきこんで坐っていた。

わがものでありながら、しかもわが手に抱くことのできないもどかしさ! 悲しみが彼の胸をつきさしながら、しかも彼はその苦しみのなかによろこびを感じていた。

たとえなにごとが起ろうとも、すくなくとも水にうつるもうひとりの自分だけはあくまでも自分を裏ぎらないことを知っていたから。

エーコーは、ナルキッソスのさきの無礼をけっしてゆるしたわけではなかったが、彼とともにふかく悲しんだ。ナルキッソスが短刀をおのれの胸につきたてたときには、「ああ!ああ!」という悲嘆のさけび声を同情の心にあふれてくりかえし、また彼が息絶えるときのいまわのことばをくりかえして、「ああ、私の愛にこたえてくれない若者よ、さようなら!」と
いった。

ナルキッソスの血は土をひたして、そこから赤い花冠をつけた白い水仙が生えてでた。』
(ギリシア神話上巻/R.グレーブス/紀伊国屋書店P258から引用)

これは誰でも知っているギリシア神話の一節。

ナルキッソスは、本来の自己を泉の鏡に見立てて冥想していた。ところがなかなか本来の自己と同一化できない。本来の自己はのようにとても蠱惑的で完全無欠なものに見え、そのたとえようもない魅力はよく承知している。

禅の師家なら、「泉中の自分をここに持ってこい」などという公案を課するかもしれない。

ナルキッソスは本来の自分の姿を既に見ている境涯なので、十牛図で言えば、「見牛」より先のポジションである。それが「得牛」や「牧牛」へと進展しないことに絶望して、自殺してしまった。

神・仏を知りながら自殺するのは、仏弟子ヴァッカリの死と同様なスペシャルなケース。

この話は、ただの水仙の由来記でも悲恋物語でもない。



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