アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

トタプリとラーマクリシュナ

2010-03-14 07:38:15 | 究極というものの可能性
◎ガラスを眉間に

トタプリ(腰布をまとっただけの裸の僧)はラーマクリシュナの師である。

ラーマクリシュナが28歳の時にトタプリに出会った。トタプリはまずラーマクリシュナににあらゆる地上的なものを放棄させた。僧侶の位、ブラフマンの徽章、希望、愛情、幻視などである。あらゆる過去を捨てさせる、あらゆるなつかしいものを捨てさせる・・・・これはプロの修行者になる第一歩としては定番だが、欠かすことはできないステップ。

ところが、ラーマクリシュナは、至福の母たるカーリー女神だけは捨てることができなかった。これを捨てねば、「あなたと私は同じ」=主客合一=「男女の違いを超える」はない。

するとトタプリは、近くにあったガラスの破片を手に取り、その鋭い角をラーマクリシュナの眉間に突きたてた。そして彼にその箇所に精神を集中しなさいと命じた。

ラーマクリシュナは、これによってカーリー女神への執着を捨て去ることができ、ニルビカルパサマディに入った。ニルビカルパサマディは三日間続き、その肉体は屍のように凍って身動きしなかった。

『宇宙は消滅した。空間さえもはやなかった。初めは影の観念がまだ精神の暗い底の上に漂っていた。

ただ自我のかすかな意識が単調にくりかえされた・・・・次で、それもまたとまった。

『存在』だけがのこった。魂は『自我』の中に没した。いっさいの二元論が消えた。有限の空間と無限の空間とは『一つ』にすぎなかった。言葉を超え、思惟を超え、彼は梵(ブラフマン)を実現した』
(ロマン・ロラン全集第15巻/ロマン・ロラン/みすず書房P48から引用)

眉間を傷つけるのは珍しく、ロブサンランバの話もここから出てきた話かも。これは、ドン・ファン・マトゥスが背中をドンと叩くのに似ている。整体ではあるまいし、肉体を触ってなんとかなるなら、聖者は皆未悟の人を触りまくればなんとかなるはずだが、決してそうはしていない。そんなことでなんとかなりはしないのだ。

ここは、トタプリが、ラーマクリシュナをニルビカルパ・サマディーに誘ったのではなく、きっかけを与えただけと見るべきだろう。またこの間、実質肉体死していることも忘れるべきではない。




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