アヴァンギャルド精神世界

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生の側から窮めるのアウトライン

2013-04-16 06:18:09 | シャンバラ
◎本気で取り組む

只管打坐は生の側から窮め、クンダリーニ・ヨーガは死の側から窮める。

生の側からの覚醒である只管打坐の系譜としては、老子がいて、釈迦がいて、達磨がいて、道元がいて、クリシュナムルティがいる。

生の側から窮めるというのは、最後は黙照枯坐の只管打坐というポスチャーが起きるのだろうが、その前段で王陽明の事上磨錬や、ことによっては、妙好人の南無阿弥陀仏のマントラ・シッディなども、黙照枯坐の只管打坐が発生する導因に成り得るのではないだろうか。

ここにある特定の冥想法をしても、結果が期待した方向ではない場合があり得るという、奇妙だが冷厳な法則を見る。

それこそ徳山みたいに金剛経の研究をしまくって終にはそれを捨てたり、禅でも無字の公案のように終日「むーむー」とやってどんどん集中していく中で、最後に黙照枯坐の只管打坐が起こることもある。

ポスチャー・坐る姿勢はその時の人間の状態を反映するものだから、真正の只管打坐は、自分で坐るものではなく、「起こる」ものであるという側面もある。

只管打坐をするから生の側から窮めるという説明はこのように、一見腰砕けなロジックのようにも見えるが、実はそうでもないだろうと思う。
ものごとに本気で取り組むこと。これがポイントであることは間違いない。

便利な時代、便利な道具があふれるということは、生活スタイルとして、人を物事に本気で取り組むということから遠ざけがちなものである。ここに現代人のライフ・スタイルの落とし穴がある。

そこで、日々の冥想習慣がある場合は、本気で取り組むことの効用に気が付くチャンスが多いのではなかろうか。

生の側を窮めれば自ずと死の側のこともわかる。本気で取り組むとは、生の側を窮める第一歩だと思う。


生を出て死に入る(柔弱は道の要なり)

あなたは神の顔を見ることはできない(神々の顔を見た者は必ず死ぬ)

生の側を窮めて死の側を知る (老子第50章 出生入死)

只管打坐の7ステップ-3(完璧な生の瞑想)

現代冥想の到達点-2 (1.只管打坐でいう身心脱落 )

妙好人で妙なこと(死の世界をクリアしに行かない)

人間である自分がないこと (2種の至高体験)

生の側から極める (老子第64章 其安易持)

死を受け入れる (ある黒人掃除婦の息子の死)

タロット・カードの順序 (生の世界と死の世界)

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