アヴァンギャルド精神世界

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好きと嫌い 私欲と無私

2018-09-15 06:55:24 | 究極というものの可能性
◎えり好みの陥穽

好きと嫌いの間の壁は薄い。同様に私欲と無私の境目の壁は薄い。

ほとんどの子供は、利己的な性質を持って育ち始めるが、幼稚園や学校で利己的なところを隠して協調的に他人と暮らすことを学ぶ。

それは、日本では、挨拶や礼儀というものに象徴されるが、それは本質的な無私を体したものでなく、表面的な無私にすぎないことがほとんどである。

巨億の富を持つ人が百万円を寄付しても、それは私欲の壁を越えてはいない。だが、千円しか持ってない人が、それを本当に必要とする他人に布施するならば、私欲の壁を越えたといえる。

これは、東日本大震災で、インドの少女が日に百円も稼がないのにその金を寄付してくれたシーンをテレビで見てぎょっとした人もいると思うが、そういう類のことである。

スワミ・ラーマは、ヒマラヤでの洞窟での修行中、一日一食。その中身は、チャパティ1枚、野菜少々、ミルク一杯だったが、ある日見知らぬ修行者が来訪したので、師がそれを彼に与えなさいという指図に不承不承従った。

スワミ・ラーマは、その指図への反発を子供じみた空腹感と切って捨てている。だが、それが「飢え」の正体であり、そんなに空腹感が簡単に克服できるものならば、禅堂で食事の際に餓鬼に米を備えるさば(生飯)施餓鬼、食べ物の供物などは、さほどの必要性はないことになる。

自分の好きにこだわることで、人は日々私欲の壁を厚く高く築き上げていき、青年になる頃には、私欲の堅城に住んでいる人も結構多い。

その堅城から飛び出して出家した釈迦のような人物も稀にいるが、そこに起居するほとんどの人は、私欲、好き嫌いを超えた境地を想像することすらできず、世間が億万長者を称賛するのにやや卑屈な気分で追従する。

禅の三祖僧さんの信心銘の冒頭に、ただ選りごのみさえしなければ、とあるのを見てなぜえり好みかと不思議に思う人もいるかもしれないが、えり好みとは私欲の根源だからである。

今、自己実現するためには、十全の私欲全開で、ポジティブ思考でないといけないなどという考え方が流行っているが、それは、えり好みしないという壁の向こうを想像もできない人たちの習いである。
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