アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

十牛図-5

2005-04-07 05:13:44 | 丹田禅(冥想法8)




第三見牛
序(慈遠禅師)
声をたよりに躍り込んで、目についたその場で根源に出会う。
六つの感覚の一手一手が、行き違うことなく、日常の動きの一つ一つがズバリとそれを現してくる。水に含まれている塩分や絵の具の中の膠(にかわ)のようなものだ。目をかっと見開けば、まさしく他のものではない。

頌(廓庵禅師)
鶯は樹上に声を上げ続け、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。ほかならぬこの場所より、他に逃れようはないのであり、威風りんりんたる牛の角は、画にもかけないほどである。

第三図にして早くも絶対なるものを見てしまった。こんなに早く神を見ていいのか。
安心して下さい。神をちら見することを、禅では見性(けんしょう)というが、日本でも見性できた坊さんは数えるほどしかいないはず。全然簡単ではありません

鶯の声が聞こえ、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。これほどありのままに、すべてのものを感じ取ることができれば、立派な牛の角ははっきりと見えすぎるほどである。
ここで感受性を深めていくことが、牛(仏、神、宇宙意識)を見るためには必要であることがわかる。

丹田禅の効果は、気力、生命力、意思力、不動心であり、血液の循環がよくなり、エーテル体を強靱なものにすることができる。丹田禅は、冥想法としては、感受性を高めるタイプの修行法ではないので、これだけでは、見性(牛をちらっと見ること)することは、まずないため、丹田禅に透徹することが必要となる。

牛(仏、神、宇宙意識)を見る手法というのは、必ずしも丹田禅である必要ではなく、只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも、ラーマクリシュナのようなバクティ・ヨーガ(神と一体であるという信愛に溶け込むタイプ)などいくらでもある。

中国の唐代に、禅と念仏を一所に修行する禅浄双修と呼ばれる修行法があったが、丹田禅でハラ(肝)を作った後、感受性を高めるためにマントラ禅をやるというそれなりに合理的な発案だったように思う。
しかし臨済義玄(臨済宗の始まりの坊さん)に象徴される、『絶対なるもの』から直接喝を食らわすというような手法が主流になったのは、その後の禅の正当性を守ったのではあるまいか。つまり禅は、牛を発見するだけのためのものではなかったのである。

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2 コメント

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Unknown (u_g_k)
2007-04-26 17:04:59
>丹田禅は、冥想法としては、感受性を高めるタイプの修行法ではな
>いので、これだけでは、見性(牛をちらっと見ること)すること
>は、まずないため、丹田禅に透徹することが必要となる。

とありますが、丹田禅だけでは見性できないということでしょうか?突然の質問ですみません。疑問に思ったものですから。
u_g_k殿へ (湖南)
2007-04-27 06:01:32
臨済禅の師家を探せば、丹田禅で見性した人に会うことができるはずです。

なんと申しましょうか、そうしたタイプの方に特有の独特のつっぱった感じがあるそうですが。

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