アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

暗夜から光へ-11

2006-09-09 06:44:38 | 究極というものの可能性
◎バーナデット・ロバーツの第三夜-8

バーナデット・ロバーツは、ついに見た。

『それは冬の末のことでした。
川には2年前の山火事の焼け屑で一杯の泥水が流れていました。毎日私と息子は川岸で増大する流れを測り、息子は素早く流れ過ぎる木材を的にして、石を投げたりしました。

ある日、息子の来るのが遅れ、私は一人で川岸に降りて、木々が海に流れ下るのを見守っていました。

その時何のわけもなく、私の顔に微笑が浮かび、その瞬間に私は「見た」のです。ついに私は見ました。そこで見たのは、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったのもです。それもどのように一つになっているかをごく自然に見ただけで、それ以上の洞察や幻視などはないのです。

私は、自分の見たものを心に止めておくことができませんから、そのまま川の流れを見続け、その後少し歩きました。「通路(狂気と絶望を超えた窮極への通路)」がもう終わっていることがわかりましたが、何もかも前のとおりで、何も変わっていなくてほっとしました。「見た」ということに何か特に素晴らしいことがあるとすれば、すべてがいつものとおりで、何も変わっていないことでしょう。(中略)

私に分かったことは、微笑が向けられた未知の対象が、その主体と同一であり、それがまた微笑自体であるということです。これは一体何でしょうか。これこそ自己がなくなった後に残っているものなのです。微笑という姿で「不可知のもの」が示現されたと言っても良いでしょう。ここで見たものは極めて重大ですが、心で把握することはできないのです。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用)

キリスト教風に言えば、微笑そのものは、父なる神、微笑するものは、聖霊、微笑が向けられたものは、人であり、ここでは三位一体を微笑という形で見たことが分かる。彼女は神を微笑として見たのだ。

神を最初に見た体験と、三位一体の構造で世界を把握した体験は、別であり、他の見者、たとえばイグナティウス・ロヨラの述懐においても、三位一体を見る体験は格別のものであり、大きな驚きと感動をもって受け入れられている。従って三位一体というのは、求道の頂点のシンボルとして、世界の秘密の開示として登場してくるのだろうと思う。

前回記事では、バーナデット・ロバーツが完全に見る準備がまだできていなかったせいか、肉体クンダリーニが上がる症状もみられていたが、ここではその症状も消えたようだ。

彼女の体験の記述は、十牛図でいえば、自己喪失とは、牛がいなくなったということなので、牛がなくなった第七忘牛存人のことが中心で、ここで第八人牛倶忘に到達したのだと考えられる。


    1日1善。1日1クリ。


コメント   この記事についてブログを書く
« 暗夜から光へ-10 | トップ | 秋篠宮親王殿下のご誕生-1 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

究極というものの可能性」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事