アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

なぜ次の時代は霊的文明と言われるのか

2010-06-23 05:37:16 | 時代のおわり
◎冥想修業から至福千年

次時代は霊的文明であると言われる。霊的文明とは何のことか。若い時からこれは結構頭に引っかかっていた言葉である。

地上に生きる全員が霊能力が開け、死者と会話ができ、幽霊を見ることができるようになる時代?たとえそうなったとしても、一人一人が幸福である保証などない。だからそんな霊能力が開けるかどうかは「霊的文明」のキーワードとは何の関わりもないと思う。

さて、よく巷の霊界探訪譚を読むと、霊界のどこにいても、誰からも霊界太陽が必ず見えるということが書かれている。神=霊界太陽がどこからでも誰からでも見えるのである。そこにヒントがあった。

これを霊界でなく、現実世界に引き直してみると、それは人間が生きていて、どこにいても、誰であっても神が見える、神を確認できる生き方のこと。換言すれば、いつでもどこでも神と共にある、神を確認しながら生きる生き方のことだろうと思う。

そんなことは絵空事ではないのだろうか。この、家族関係も不安定で、離婚率3割の夫婦間でも信頼が薄く、いわんや赤の他人との人間関係は、礼儀・挨拶という一皮を剥けば、実に殺伐たる時代である。そんな生き地獄に近いこの社会の中で、いつでもどこでも誰もが神を確認しつつ生きる生き方などあるのだろうか。

もちろんそれは、実現可能である。あらゆる人々、すべてが悟りを開くことによってそれはできる。それでなければ至福千年などありえない。すべての人が無私と愛に生きるのである。

残念ながら、今の社会制度の中に無私と愛を否定する制度や仕組みが多数組み込まれているので、その実現は容易ではない。競争原理、市場原則という名の弱肉強食のルールや、私権不可侵という自己のメリットを享受し維持させる法の枠組み、銀行預金や投信の金利や分配金などもその延長線上の一つ。労せずして利益を得るという金融商品という制度は根源的に人を堕落させる。つまり合法の名のもとに無私と愛から遠い、社会、経済、法律制度ができているので、この社会にきちんと適応して生きるだけで、もっと言えば社会の成功者であればあるほど悪人とならざるを得ない。

それでは、すべての人が冥想修業を経て悟りを開くなどということがあるのだろうか。まず今の調子では、そもそも冥想には何の世間的メリットもないのであるから、全員冥想するなんてことは、近代常識的社会人の「合理的」判断としではありえないことである。よって全員が冥想修業するなんてことはありえない。従って冥想修業の結果として修業した人全員がニルヴァーナに出会った(開悟)としても(そんなことはまずないが)、それは社会全体から見たらごく少数である。

至福千年、地上の楽園、叫びのない世界は、すべての人が悟りを得て、神とともに生きることで達成可能であるが、こんな社会の具合では、絶対に全員が悟りを得るなどということはないのは火を見るより明かである。

よって、そこに既に悟りを開いた人と、悟りの当落線上にある人だけが残っていく選定システムがあるのではないかと想像される。それがアセンション。ただし悟りを開いた人+当落線上の人の人数が一定数に達しなければ、旧約聖書のソドムのように文明全体の滅亡するリスクもある。

アセンションとは、間引き・選抜であるとしても国会議員選挙のような平時の大イベントとして起きるのではなく、世の大峠=カタストロフィーに伴って起きるのだろうと思う。

こうして霊的文明とは、その実現は容易なことではないが、冥想修業により悟りを開いて文字通り神と共に生きる人だけの世界を言うのだろうと思う。

そういう時代的な大きな流れを見据えながら、ダライ・ラマ14世が殊更に日本人の若者は英語を学んで海外へと唱えるのは意味深長である。日本の運命を見据えてアドバイスしてくれているのだろう。




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4 コメント

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Unknown (アルフォンス・シュバルツシルド)
2010-06-23 10:17:52
あなたの言葉で泣いてしまいました

あなたに神のご加護がありますように・・・・
アルフォンス・シュバルツシルド (湖南)
2010-06-24 05:34:59
内容的には目新しいものはなかったのですが。
次の時代は・・・ (gb10)
2010-06-28 05:42:39
うまく表現できませんが、鈍感な凡人の私が感じるには
つい近年まで「神」からいただけた直感のようなものが
授かりにくくなったような気がしてなりません。
祈り方、坐り方を間違い邪心に邪魔されるのでしょうか

覚者、熟練した瞑想者の方々におかれては、そのような
感覚を近年にお持ちにならないのかと。またそのことが
近々起こるであろう何かを暗示しているのではないかと
日常にまみれながらぼんやりと思う次第です。
gb10殿へ (湖南)
2010-06-30 05:54:28
『その日も、人々は食い、飲み、めとり、嫁ぎなどしていた。』(旧約聖書の一節)というわけですね。

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