アヴァンギャルド精神世界

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乾いた道と湿った道

2010-06-24 05:26:33 | 錬金術
◎只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ

パリ大聖堂の南入口には、「聖女アンナの入り口」と呼ばれる開かずの扉があるという。錬金術師フルカネリは、これぞ智者だけのための「卑俗ならざる道」であるとする。
「卑俗ならざる道」には、一つは短く簡単な「乾いた道」ともう一つは長く困難な「湿った道」があるという。

『一つは短く簡単な「乾いた道」、もう一つは長く困難な「湿った道」この二つの道が存在しえることを認めた錬金術師はほとんどいない。事実、著述家の多くは、単に短い方の手法を知らなかっただけなのか、あるいはその原理を教えるよりは沈黙を守ることの方をよしとしたのかして、結局長い方の手法しか論じていない。

ペルヌティは二つの方法が存在することを否定する。それとは対照的にフギヌス・ア・バルマは、ゲーベルやルルスやパラケルススなどの老大家たちはそれぞれ独自の技法に従っていたのだと断言する。科学的にいえば、湿った道のかわりに乾いた反応を用いる別の手法がおなじ結果をもたらすことは十分にありえる。ヘルメス学的には、われわれの目の前にあるこの図像が一つの証拠である。

十八世紀の百科事典には、大作業が、「湿った道」とよばれる時間を要するが尊重される手法と「乾いた道」とよばれるほとんど評価されない手法のいずれによっても完成されうると記されており、これまた証拠のひとつである。「乾いた道」においては、「哲学者の水銀たる「天上の塩」を地上的な金属体とともに直火にかけた坩堝の中で四日間焼灼しなくてはならない」と説明されている。

バシリウス・ヴァレンティヌスの作とされる書物-むしろセニオル・ザディトの作と思われるがそれはともかく-の第二部には「この術に達するためには辛い労働も甚大なしゅっ火も高価な機器も不要である。この術は半日で十分習得でき、適切な原質があれば八日で完全化に達するからである」とあり、この著述家が「乾いた道」を念頭に置いていたらしいことがわかる。

フィラレテスは『入門』の第十九章で、「長い道」が面倒で裕福な者たちにしか向かないことを論じたあと、「しかし『われわれの道』によれば一週間もあれば十分である。神はこの数少ない容易な道を蔑まれた貧しい者たちや卑しい境遇に暮らす聖なる者たちのために取りよけておかれたのである」と述べている。
さらにラングレ・デュフレノワは、フィラテスのこの章につけた註で、「この道は『哲学の二重水銀』によって展開し、最初の道なら一年半を要するはずの作業を一週間で完成する」と述べている。

賢者たちは、この短くはあるが厚い覆いで隠された道を「サトゥルヌスの過程」と呼ぶ。この作業の焼成には高価なガラス容器のかわりに簡素な坩堝があればよい。
(中略)

錬金術におけるある本質的格言「容器はひとつ、原料はひとつ、炉はひとつ」はかように説明されうるのである。』
(大聖堂の秘密/フルカネリ/国書刊行会から引用)

端的な印象を申せば、一つは短く簡単な「乾いた道」とは、只管打坐のことであり、長く困難な「湿った道」とはクンダリーニ・ヨーガのことを語っている。只管打坐は急速に悟りに至り、クンダリーニ・ヨーガは緩慢に悟りにアクセスしていく。そして只管打坐とクンダリーニ・ヨーガとを並列に論じる人間は極めて稀である。

その意味でフルカネリの見識の高さは尋常のものではない。乾いた道=只管打坐なら、4日ないし8日で大悟可能ということだろうが、文字通り4日・8日はそのままの時間を表現しているのではなく、「短時間で悟りに至る」ことを強調するものだろう。つまり最低4ないし8日かかるということではなく、坐ってまもなく大悟もあるのだろうと思う。

一方長く困難な「湿った道」=クンダリーニ・ヨーガは完走までに一年半はかかるというのは大いにありそうなことである。

そして只管打坐のことを「サトゥルヌスの過程」と錬金術師達が呼んでいるのも面白い。そうであれば、クンダリーニ・ヨーガは、「ルナ(月)の過程」であるに相違ない。

いずれにせよ、西洋錬金術師の中にも、只管打坐を意識する炯眼の者がいるのは流石といえる。




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