アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

乙前から壬申の乱など

2012-05-08 07:42:22 | 時代のおわり
◎後白河法皇と美濃から

後白河法皇に今様の奥義を伝授したのは老婆乙前であった。CDもDVDもない時代のこととて、曲調は口授するしかないわけだから、沢山の曲を知っている人は、生きるipod
みたいなものだったろう。

後白河法皇は10代の頃から今様(現代ならPOPS)に親しみ、昼は一日歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かさないほどだったと語る。こうして(連続)千日の歌まで歌うほどであって、昼は歌を休むこともあったが、夜は必ず歌い明かしたという。

やがて後白河法皇は、自分より多くの曲を知っている人が少なかったほどであり、更に今様の秘曲を方々に求めるようになった。

この熱心さゆえ、京の殿上人、召使や雑仕女、遊女、諸国のくぐつ女で法皇と共に一度も今様をデュエットしなかった者は少ないと、法皇が豪語していたところ、美濃青墓の者で、音に聴く名人乙前(NHK大河ドラマ平清盛では松田聖子)の歌を是非聞いてみたいと年来の宿願を持っていたのだが、信西入道の口利きで、乙前を呼び寄せて歌を聞くことができたのだった。

この後、法皇は、今様の曲調は乙前風に直したことで、その乙前への評価と、法皇自身の今様第一人者としての自信がうかがえる。ただし何が奥義だったのかは、梁塵秘抄口伝集には書かれていない。

青墓は美濃国分寺の近隣にあり、西には不破の関がある。当時青墓は芸能者のメッカであった。

遡って壬申の乱では、大海人皇子は、まず吉野に南下し、しかる後に鈴鹿を越えて美濃に入る。これは道教学者によれば、方違えを行って、東から天智天皇の太子・大友皇子を攻撃するための風水的迂回だったとも言われるが、美濃安八磨郡には、露天で赤鉄鉱を産出する金生山があり、この周辺に鉄製武器工場があっただろうことから、大海人皇子はそこをまず抑えに行ったという軍事的理由があったのではないかという説がある。

壬申の乱後の美濃への論功行賞は厚く、そうした流れで当時も青墓の隆盛は残っていたのかもしれない。


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