アヴァンギャルド精神世界

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聖者の自殺未遂

2019-08-22 06:05:39 | 究極というものの可能性
◎一休から人類大量死まで

聖人、聖者が自ら自殺しようとしたことがあったことを語るのは、そう実例が多いわけではない。せいぜいが、古くは一休であり、最近ではダンテス・ダイジであり、チベット密教ではミラレパ。

出家とは、自分の生きる宇宙から遁走することであるから社会的には自殺だが、実際に自殺に踏み切ったとなると、社会的もへったくれもなく、一種の狂気にいないとそうはならないのだろうと思う。

一休は、17歳で謙翁の弟子となったが、4年後に、謙翁は逝去。突然の師の喪失に行き場を失った一休は自殺を図った。

臨済禅は、気力だ、胆力だとやるものだから自殺ということから縁遠いものかと思われるが、精神を操作すれば何でも起きるもの。自分が死ぬ、大死一番などという世界なのだから本来自殺があってもおかしくはない。

祖師の一人が自殺未遂経験者というのは、宗門には都合が悪かったのかもしれないが、聖者覚者はフランクでオープン・マインドだから自分の自殺も隠さない。

ダンテス・ダイジには、子供の頃から自殺念慮があって母親を悲しませたことが書いてあり、青年になってからは恋路のもつれから自殺未遂に至ったらしいことも書かれている。

あのあらゆる宇宙を突破して、六神通力を平気で使いまくる聖者がどうして自殺未遂しなければならなかっただろうか。これも一つの公案ではある。

大黒魔術師であったミラレパは、師匠マルパから弟子として認められる直前に、マルパから、様々な試練を与えられた上に、罵倒、殴打、蹴り上げなど怪我をさせられ、ついには自殺する決意までした。そこまで行って弟子入りさせてもらえた。

チベット密教では、屍解する聖者が多いが、厳密に言えばそれは自殺と言えないこともない。

禅語録でもそうだが、よく自分の死去する日時を予告して亡くなる禅者がいるが、実際はどのように亡くなるのだろうと皆少しは想像をめぐらすのではないだろうか。禅者は屍解こそしないが、自ら日を選んで逝去するのは、自殺と別なのだろうか。ただその辺は、禅家ではさして重要なこととは見ていないことはわかるものだ。

釈迦は、レア・ケースだが、自殺を認めた事例もある。

世間では、自殺はよくない、人間の命は地球より重いなどと言いながら、金やその他のことで追い込まれる人は無数にいるもので、その中でも自殺に奔る人も少なくないのだろうと思う。

聖者の自殺未遂は、そうした背景をも踏まえて存在する。現代文明の果ての人類大量死は、大集団自殺でもあり、あまり他人事とも思えない。


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