アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

一休骸骨・心が死ぬ

2005-11-10 05:41:14 | 丹田禅(冥想法8)
『多くの人がみな迷いの眼で、身体は滅びるが魂(心)は永遠不変であるとするのは、大きな間違いである。悟りを開いた人の言葉に拠れば、身体もその根源である心も二つながら共に死ぬということである。仏というのも虚空そのものである。天地国土のあらゆるものが、『本分の田地』に帰すべきものである。

すべての仏教聖典をきれいに打ち捨てて、この一巻にてご理解なさるべきです。きっと大きな安らぎを得た人になるでしょう。

(仏の教えを)書き留めることも夢の中の道しるべのようなものである。目覚めてしまええば、尋ねるような人は誰もいない。
(達磨が)9年間面壁坐禅したことこそ地獄の苦しみである。その肉体はやがてむなしい土となるものなのに』
(一休骸骨/一休和尚全集/春秋社から引用)

一休は、骸骨やどくろを比喩として好んで用いたが、身体も死ぬが、ここでは心も死ぬのだと言う。自分の心が死んだことがあるからこそ言える言葉であり、禅僧の言葉で心が死ぬと言う言葉を見るのは珍しい。

十牛図では、第七図の忘牛存人までは、人がいて、心が残っているが、第八図人牛倶忘で、それは消え、心が死ぬ。いわゆる見性というのは、第三見牛のことを指すのであるが、それですら完璧とまではいかないにしろ、心がある程度死なないと起こることではない。

そして現代ではよくあることだが、心が病むことは多いけれど、心が死ぬことは少ない。心が死ぬためには、この世がままならないことに直面する繊細さと生きる情熱の微妙なバランスが必要だからである。心が死ぬというのは、人間の側のイベントではなく、仏の側のイベントであり、魂の成熟が必要条件となるように思えるが、これには自分の努力だけではどうしようもない部分があるように思う。

そして心が死ぬポイントを通過しないと、本当の愛や本当の安心を知ることはない。

一休は、寺の住職は、知識もなく、坐禅も一生懸命でもなく、中身は在家の人と変わりないので、本当に道心を起こした人は、寺の中にいてもらちがあかないので、寺を出て出家するという。このように、室町の昔から組織宗教の中にあっても、道を得た人に出会うことは難しかった。真剣に得道した人に出会いたいという気持があれば、それが機縁となって、出会うことになるのだろうが、必ずしもそんな人は、組織宗教だからいるというものでもないと思う。もちろん、ちまたでもまれである。

一人一人が、肝心なところをわかっていなと、時代全体もまともな物になっていかないが、このように状況全体は極めて劣勢なのであることに変わりはない。

人気blogランキング精神世界 ランキング目次
    1日1善。1日1クリ。


コメント   この記事についてブログを書く
« ピオ神父のこと | トップ | 最愛の恋人との出会-6 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

丹田禅(冥想法8)」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事